綾戸智恵 <おばあちゃんとお母さんの終着駅は違う>介護疲れで入院するハメになるも息子の言葉で目が覚めて「67歳、老いることを悪くないと考えられるのは母のおかげ」

2025年4月17日(木)12時29分 婦人公論.jp


「あんなに物事に強く立ち向かっていた母が、弱なってんなぁと思ったら切なくてね。あの時ほど生きることの大変さを痛感したことはありません」(撮影:洞澤佐智子)

「老いは財産や」と語る綾戸智恵さん。母親を介護した日々では、精神的に追いつめられたこともあったと言います。老いていく母に学んだ、綾戸さんの生きるうえでの指針とは(構成:丸山あかね 撮影:洞澤佐智子)

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<前編よりつづく>

生きることにはリスクがつきもの


台所で朝食の支度をしてたら、母がウーッと唸りながらテーブルにつっ伏したんです。慌てて救急車を呼んで病院へ搬送。検査の結果、右半身に麻痺が残ると知らされました。

その時点で要介護4(現在の3)だったんですけど、母は厳しいリハビリに耐え、なんと要支援2まで回復。自力で歩けるし、日常生活を普通に送れるようになりました。

ところが最後のリハビリに行こうという日に、玄関先で宅配業者の人と衝突し転倒、大腿骨を骨折してしまって。

娘としては恨み言の一つや二つ言いたくなりますが、幼い頃から母に言い聞かされていた、「人は生まれたら、もれなく死ぬことがついて来る。その間にはいろいろなことが降って来るけど、それが人生というもんや。つらいことも受け止めるしかない」という言葉を思い出し、これは生きることにもれなくついて来るリスクなんやからしゃーないと、割り切るようにしました。

母はこの出来事で要介護2へ。しかも入院中に認知症を発症します。息子がイギリス留学中だったこともあって、さすがに限界やと私は仕事を休止し、入浴法や床ずれ防止対策の指導を受けて自宅介護に。

入浴や摘便など頑張りました。他人のだったら嫌やけど、自分はこの肛門のすぐ近くから生まれて来たんやと思ったら何でもなかった。

感謝してほしいと思ったことはなかったけど、母は暴れたり、憎たらしいことも言うしで、やりきれなさが募って……。2年ほどこの状態が続き、私も精神的に追いつめられて薬を飲むようになりました。

朝起きたら息をしてなくて、夢のように消えてしまってたらええのになと、何度か思ったことも。そればかりか「一緒に死にまひょか?」と持ち掛けたこともあります。母は「せやな」と。

かつてのように、「どんなことも受け入れて生きなさい」とは言ってくれなかった。あんなに物事に強く立ち向かっていた母が、弱なってんなぁと思ったら切なくてね。あの時ほど生きることの大変さを痛感したことはありません。

ついに私自身が介護疲れで入院するハメになってしまい、その時、息子に言われたんです。「おばあちゃんとお母さんの終着駅は違うで。同じ駅で降りんといてな」と。

ハッと目が覚めました。共倒れになったら元も子もないと考えを改め、そこから人に助けてもらうようになったんです。


キリスト品川教会でのコンサートの様子。軽快なトークも人気だ(写真提供:有限会社まいど)

介護の秘訣は「一人にならない」


仕事に復帰してから、コンサートや取材など、あちこち母を連れて行っては、スタッフに面倒を見てもらっていました。街中では、コンビニなどで見知らぬ人にも「ちょっとおばあちゃんの車イス見といてください。悪いねぇ」と頼んでパパッと買い物をしたり。

特に介護士さんにはお世話になって、頭が上がらへん。介護の秘訣は一人にならんこと。これだけは言えます。

そのためにも、いい人との出会いを期待するのではなく、よぉ話し合って、理解し合って、馬鹿話なんかもしながら信頼関係を築くんですよ。

母は亡くなる6年前からグループホームに入所していましたが、そろそろお迎えが来ると感じて、自宅に戻したいと介護士さんに相談した時も親身になってくれました。今もお付き合いがあり、私もそのうちお世話になろうかと思っています。(笑)

コロナで家にいたこともあり、最後の時間を母とゆっくり過ごすことができたんです。

お風呂に入れながら「気持ちよろしぃか?」と声掛けをすると、母は「タンタン」と舌を鳴らして甘露の合図。

お風呂から上がって大好きなモルトウイスキーを飲んで、また「タンタン」。ご機嫌になって「星影のワルツ」を鼻歌で歌わはんねん。それに私がピアノで伴奏をして……。

そんな日が10日ほど続いたある日の朝、ハァハァと苦しそうな息をしていたので、「しんどいですか?」と訊くと「もうええ?」と返された。

私が「よぉ頑張りはりましたな。ありがとう。もう好きなようにしなはれ」と伝えたら、笑ってました。

その晩、2人でお酒を飲んで、翌日、私の腕の中で母を看取ることができたんです。あれは神様からのプレゼントやね。

葬儀は身内だけで行いました。私のファンで付き合いのある僧侶にリモートでお経をあげてもらったんです。「あんた、ところで何宗?」と訊かれたら「テネシー州」と冗談を言ったりして、笑いのある見送りでした。

棺には、友達に頼んで取り寄せておいた母の大好物の蕎麦がきと上海ガニ、それからファンの人が作ってくれた私と息子の人形を入れて。あぁよかったと思うばかりで、一度も泣きませんでしたね。ええ葬式でしたわ。

年を取らないとわからないことはある


その後も燃え尽き症候群にはなっていません。髪の毛が面倒だったので介護中は坊主にしてたけど、白髪を活かしたカッコいいヘアスタイルにするのが夢だったから、今はヘアケアにこだわったり、コンサートでファンの方から「この曲がよかった」と言われれば、褒められた部分を伸ばせるように練習したり。自分磨きの時間が増えました。

生きることも死ぬことも、人はどうすることもできません。でも決して悲しいことではないと思うんです。老いることも同じ。

母が亡くなってから、母の大島紬を着て鏡の前に立ってみたんです。子どもの頃にこっそり着た時は似合わなかったのに、よう似合うようになってて、私も年取ったんやなと嬉しかった。老いは財産やと思います。

歌にしても、若い頃と比べたら声が出づらくなってるけど、それなりの味わいがあるんです。コンサートでラブソングを歌っていても、年を取らないとわからないことはあるもんやなと感じます。歌に限らず、この年ならではの魅力というのがあるんですよ。

私が老いることを悪くないと考えられるのは、やはり母の姿を間近で見てきたおかげだと思います。長く生きることは、経験が増え徳を積むことなんやと感じました。

67歳の私がコンサートで演奏することで、同年代の人は一緒に頑張ろうって思ってくれるだろうし、若い人には年を取るのも悪くないと感じてもらえたら、ええですよね。

息子がいるとはいえ、いつ何が起こるかわかりません。自分に介護が必要になったら……なんて考えてもわからない。わからないのがいいんやと思います。

「なるようになる、それでいい」と思えるような生き方を心がける。これに尽きるんじゃないでしょうか。

婦人公論.jp

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