92歳の映画監督・山田火砂子「社会福祉、女性の地位向上、戦争…全部自分が当事者だった。新作では知的障がいのある両親と娘の成長を描く」

2024年4月18日(木)12時30分 婦人公論.jp


「とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに〈製作協力券〉と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです」(撮影:洞澤佐智子)

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国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん—天使の詩—』が公開された。夫の映画製作を支えたのちに自らも撮るようになったが、選ぶ題材は社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫している。そこには「私が当事者である」という強い意識があった(構成=篠藤ゆり 撮影=洞澤佐智子)

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資金集めに全国を飛びまわる


映画監督のデビューは64歳だから、この30年弱で10作品を撮ったことになります。私はもともと女優だったし、監督をやろうなんて考えたこともなかったんだけどね。

さすがにこの歳になると、身体はしんどいですよ。ここ数年は週3回、人工透析に通っているし、足も悪いでしょ。それでも上映会があれば、どこでも会場に出向いて挨拶しています。

うちは「現代ぷろだくしょん」という映画製作会社。いわゆる独立系というやつで、製作も配給も自分たちでするの。とにかくお金集めが一番大事だから、上映会の会場でお客さんに「製作協力券」と名づけた次回作のチケットを1枚1000円で買ってもらい、そのお金で新しい作品を撮るんです。

私はこの通り口が悪いもので、政治批判だろうがなんだろうが言いたい放題。でもそれが面白いんだろうね。皆さん、私がしゃべると講演料と思って券を買ってくれるわけです。

だからプロデューサーをやっている次女が、「行かなきゃダメ」って厳しいのよ(笑)。前作『われ弱ければ—矢嶋楫子(やじまかじこ)伝』のときは全国204ヵ所の会場を回ったんだって。頑張るよねえ。

医者からは「聞くところによると北海道であれ、アメリカであれ飛んで行っちゃうらしいですけど、少しはご自分の年齢を考えてください」とよく注意されます。でも、言えないじゃない、「映画の資金稼ぎやってるんです」って。(笑)

3月から公開された新作『わたしのかあさん—天使の詩—』の構想は、前作の上映中から進んでいました。

知的障がいのある私の長女がお世話になった、東京教育大学附属大塚養護学校(現・筑波大学附属特別支援学校)の菊地澄子先生の書いた本が原作。障がいのある両親のもとに生まれた健常者の娘が、葛藤を乗り越えて成長する様子が描かれています。

両親の役は、寺島しのぶさんと渡辺いっけいさんが演じてくれました。知的障がいのある難しい役なのに、ふたりとも本当にうまいんだよね。

私、前作の上映会でお客さんに聞いたんだもん。「寺島さんが演じる知的障がい者のお母さん、見たい人」と聞いたら、どの会場でもぶわ〜っと手があがるのよ。実際、やさしくて、きれいな心のお母さん役がぴったりでした。

常盤貴子さんも、私の作品に何度も出てくれるね。仲がいいんだ。原作にはない、成長して障害者施設の園長になった娘の役をやってもらいました。幼少期を演じた落井実結子ちゃんも、いい演技をしています。

ほかにも船越英一郎さんや高島礼子さんをはじめ、一流の人が大勢かけつけてくれて、すっかり豪華キャストになっちゃった。キャスト表を見ながら常盤さんと「福祉映画もここまできたねえ」って。船越さんはクランクアップ後、「こういう映画なら僕出ますから、また誘って」と言ってくれました。

嬉しいし、ありがたいことです。なにせ貧乏所帯だからロケにもお金をかけられない。事務所が入っているこの古いマンション、別の階に私は住んでるんだけど、たまたま空き部屋が出たんです。そこを一家が暮らす公団住宅という設定で借りました。

当初、「ドアが公団風じゃない」とプロデューサーの次女が言うので、「じゃあ、お金持ってきてよ」って言ってやりましたよ(笑)。皆さんの楽屋は、私の部屋。わいわい楽しく撮影しました。ぜひ観てください。

子どもを手放せ、という誘い


これまで映画で取り上げてきたテーマは、社会福祉、女性の地位向上、戦争……と一貫していると思います。どれも私自身が当事者だからなんだよね。

戦争は、なにより嫌いです。私が生まれたのは1932年。五・一五事件が起こった年で、日本が軍国主義に突き進んでいた時代でした。

やがて第二次世界大戦が勃発。私は東京生まれで、下町が壊滅的な被害を受けた45年3月10日の東京大空襲は免れたものの、5月24、25日の山手大空襲でやられました。

東京大空襲では約300機のB29が焼夷弾を落としたけど、山手大空襲では各日450機以上が飛んでたの。空襲警報が鳴って夜の町を逃げながら空を見上げると、あんなにたくさんの飛行機同士がよくぶつからないなあと思うくらいだった。

次の瞬間、焼夷弾がバラバラと落ちてきて、あたり一面にぶわ〜っと一斉に火がついて真っ赤になった。半分焦げた死体やら、火ぶくれだらけで歩いている人やらで、あの光景を描けと言われたら描けるくらい。忘れたくても、忘れられないですよ。今でも打ち上げ花火は、怖くて泣いちゃう。

終戦後、女学校に行くも女優になりたくて、エキストラや小さな役をやりながらチャンスを待ちました。ジャズにハマり、18歳のころに女性バンド「ウエスタン・ローズ」を組んで。進駐軍のクラブに出入りしてお金を稼ぎました。その後は軽演劇の舞台に出るようになり、女3人でコントをやったりして。人気あったんですよ。

29歳で結婚して、生まれた娘が2歳のころ、病院で知的障がいがあると診断されました。いまと違って情報もないし、最初はびっくりしてね。正直、私にも恥ずかしいという気持ちがありましたよ。こればかりは、育てたことがない人にはわからないと思う。知的障がいのある子どもを育てるのは、そりゃあ大変なものです。

次女が生まれたあと離婚したんですが、そのころは喫茶店もはじめていて、子育てをしながら店に立っていました。そうしたらNHKの人が「喫茶店のママで終わらせたくない」とスカウトにきてくれた。

得意の喜劇的な演技で「スターにしてあげる」なんて言うから、三の線の女優で復帰しようって私もすっかりその気になってね。

ところがその条件として、子どもを手放せ、と言われてしまった。当時は里子に出すなんてことが当たり前に行われていたからね。次女は健常者だし、いくらでももらい手があるって。じゃあ長女はどうするんだ。どっちも手放すなんてとんでもない、と断りました。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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