明大法学部へ編入へ!「弁護士法改正」を踏まえた女子部法科設立だったが、実際には想像を超える困難が…あだ名は「ムッシュ」『虎に翼』寅子モデル・嘉子が送った青春時代

2024年4月19日(金)12時4分 婦人公論.jp


明大女子部の創設は、弁護士法改正の動きを踏まえたものだった——(写真提供:Photo AC)

24年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』。伊藤沙莉さん演じる主人公・猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんです。先駆者であり続けた彼女が人生を賭けて成し遂げようとしたこととは?当連載にて東京理科大学・神野潔先生がその生涯を辿ります。先生いわく「明大女子部の創設は、弁護士法改正の動きを踏まえたものだった」そうで——。

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弁護士法改正


この頃の明大女子部を理解する上で重要なのが、弁護士法の改正です。

1922(大正11)年、司法省は弁護士法改正調査委員会を設置し、この委員会が1927(昭和2)年に弁護士法改正綱領をまとめました。そこには、それまで認められていなかった女性の弁護士を認める内容が含まれており、この方針はその後の改正作業でも重視されていきます。

そして、最終的に改正案がまとまったのは1929年3月でしたが、実は明大女子部の創設は、この弁護士法改正の動きを踏まえたものだったのです。

嘉子の入学直後の1933年5月、改正された弁護士法が公布され(施行は1936年4月)、それまで「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」(第二条第一)とされていた弁護士の資格が改められて、「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」と「男子」の条件が削除されました。これにより、女性も弁護士になることができるようになったのです。

そもそも日本に弁護士という職業が登場したのは、明治時代でした。

明治政府は、西洋の近代的な司法制度を継受し、1872(明治5)年制定の「司法職務定制」によって、新しい司法の構造の大枠を包括的に定めました。この法に定められた、訴訟に際して代理を務める代言人が、弁護士のルーツです。

さらに1876年制定の「代言人規則」によって、代言人はより具体的に制度化されました(1880年にはさらに改正されます)。

とはいえ、この段階ではまだ整備不十分で、代言人に対する信頼も決して高くありませんでした(江戸時代に存在した非合法の訴訟代行業者である公事師の悪いイメージのために、批判的に見られることも多かったようです)。

1893年に、より近代化された弁護士法が公布・施行され、代言人は弁護士と呼ばれるようになります。

試験制度も導入され、専門的な知識を身につけた重要な職業として位置づけられていきますが、それでも、判事・検事と比べるとその社会的地位は低いものでした(試験も、判事・検事は判事検事登用試験、弁護士は弁護士試験と別になっていました。試験制度が高等試験司法科として統一されるのは1923年のことです)。

また、既に述べたように、弁護士になれるのは「成年以上ノ男子」に限られていました。

最適の学校


さて、話を嘉子の時代に戻しましょう。

それまで男性に限定されていた弁護士の資格が、1936年からは女性にも広げられたわけですが、弁護士になるには難関な国家試験を突破しなければいけませんでした(この頃もなお、弁護士の地位は判事・検事と比べると低かったのですが、とはいえかつての代言人のイメージとは全く違うものになっていました)。

この頃の試験は、高等試験令(高等試験は1894年から1948年まで行われていた、いわゆる高級官僚の採用試験です。もともとは「文官高等試験」、1918年以降の正式な名称は「高等試験」ですが、嘉子の頃も一般には「高文試験」・「高文」と言いならわされていました)によって定められた高等試験司法科というもので、これに合格しないといけませんでした。

さらに、この高等試験司法科に合格したあと1年半の期間、弁護士試補として修習を受ける必要があり、その後にもう一度試験を受けて合格すると、やっと弁護士となることができたのです。

そして、高等試験司法科を受けるためには、厳しい予備試験にチャレンジするか、予備試験の免除を勝ち取るか(高等学校を卒業しているか、大学の予科を修了しているか、文部大臣が特に指定した専門学校を卒業しているかが条件)しかありませんでした。

結局、弁護士法の第二条第一が改正されても、この条件があることによって、女性が弁護士になるということはかなり困難だったのです。

その中で、先ほど述べた通り、明大女子部法科は、弁護士法が改正されることを見越してその少し前に開設され、さらに明大法学部への編入を認めていました。

つまり、女子が弁護士を目指すには、明大女子部法科が最適の学校だったのです。

明治大学専門部女子部での青春


おおらかで明るく優しく、それでいて知性のある嘉子は、明大女子部でも多くの友人を得ました。

嘉子を含む4人組の仲間たちで、学校近くの駿河台下を歩いてみつ豆を食べ、三省堂書店に出入りし、料理学校に行き、家に帰ってからも電話をするほど仲良しでした。

YWCAで水泳をした後に授業に出て、濡れた髪のままで居眠りをしてしまうなどということもあったようです。

この頃の嘉子は、友人たちから「ムッシュ」というあだ名で呼ばれていました。

明るく元気な青春時代のエピソードは多く残っていて、東京で雪が降った日に、お使いで肉屋に行こうとした嘉子は、乃木坂をスキーで滑り降りて警察官に注意されたそうです。


YWCAで水泳をした後に授業に出て、濡れた髪のままで居眠りをしてしまうなどということもあったようです(写真提供:Photo AC)

また、東京女高師附属高女の頃と変わらず、嘉子の多才ぶりも発揮されていました。

明大には混声合唱団があり、嘉子も友人たちと一緒に入団しました。

土曜日・日曜日に集まって、明治大学記念館(初代の記念館は1911(明治44)年に竣工されましたがわずか半年で火災により焼失、2代目の記念館も関東大震災で焼失、嘉子が通った頃に立っていたのは3代目でした。1996(平成8)年に解体され、跡地に現在のリバティタワーが建設されるまで、明治大学の象徴でした)などで練習したようです。

その発表会が秋に開かれ、そこでは「白雲なびく」で始まる有名な明大の校歌や、短めのドイツ曲などが披露されましたが、最後に「流浪の民」(ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが1840年に作曲した「三つの詩 作品二九」の中の一曲)の合唱があって、嘉子がソプラノソロを務めました。

人生を貫く


嘉子は、迷信を信じるようなところがあったようで、友人の一人が、一緒に「こっくりさん」をやってテストに何が出るかを「こっくりさん」に聞いた思い出を語っています。

理知的でありながら無邪気な一面を持つ、嘉子らしいエピソードです。

もっとも、嘉子の孫にあたる團藤美奈さんの記憶の中には、「おばあちゃん」として接した嘉子のイメージとして、迷信や占いを信じるようなところはなかったということなので、青春時代の一時のことなのかもしれません。

入学した頃には50人ほどいた同級生は、結婚などで退学する者も多く、卒業の頃には20人程度にまで減ってしまいました。

小さな学校でしたが(明大女子部法科の入学者数は徐々に減少し、嘉子が卒業して明大法学部に通い出した頃には、20人強まで落ち込んで廃止論も起こりますが、その後回復していきます)、それでも、年齢の幅や思想の幅も広く、多様性に富んだその環境は、嘉子に大きなプラスの影響を与えました。

また、穂積重遠などの教授たちが、とても熱心に力を入れて講義を展開していたことも、大きな刺激になっていました。

後に嘉子は、明大女子部を引き継いだ明治大学短期大学の創立50周年記念講演に出席し、女性が大学で法律や経済を学ぶこと自体が白い目で見られていた時代であったので、女子部の学生たちはとてもエリート意識などを持てなかったこと、しかし、自分に力をつけて人間らしく生きていこうという気持ちが強かったことなどを語っています。

人間であるということ、人間として生きるということ。

嘉子の人生を貫くこの意識は、青春時代に形成されていったのだと思われます。

※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

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