『光る君へ』まひろは「姫さま」と呼ばれているのに家は驚くほど簡素。「平安のF4」の声掛けに、どうする?

2024年4月21日(日)12時30分 婦人公論.jp


「紫式部ゆかりの寺」廬山寺。撮影時、山門には「桔梗 咲いています」の看板が(撮影◎筆者 以下同)

NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO  日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。

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前回「『光る君へ』中宮という高い地位の彰子に教養を授けた紫式部。続きが読みたくて道長が下書きを盗んだ『源氏物語』は帝への特別な贈り物だった」はこちら

紫式部の身分


大河ドラマ『光る君へ』を見ていて、いつも気になるのは、まひろ(紫式部)の家がかなり質素に描かれていることです。

乳母や従者の人たちには「姫さま」と呼ばれていますが、貴族なのに家屋は驚くほど簡素で、ボロボロといってもいいほど。仕えていた花山天皇が出家し、父親が官職を失ったあとは、衣についた泥も気にせず、庭の畑の野菜をみずから収穫するといったありさまで、「姫さま」にはとても見えません。

一方、上級貴族の道長は、広大で立派なお屋敷に住んでいます。

愛し合っていても、身分が違うために結ばれなかった——それを強調するために、わざとこのような描き方をしたのだと思いますが、実際の紫式部は地方官などを務めた中・下流貴族の家の生まれ。あくまで貴族なので、ドラマの描写にはちょっと首をかしげてしまいます。

もっとも、「宇治市源氏物語ミュージアム」の家塚智子館長によると、今回の大河ドラマが放送される前から、「紫式部の身分は低かった」と誤解している人が少なくなかったのだとか。

「紫式部の父・藤原為時は越前(現在の福井県付近)を治める越前守(えちぜんのかみ)だったので、現代では福井県知事に相当します。その娘である紫式部は、身分が低かったわけでも、貧しかったわけでもないんですよ。ただ、為時は役人としての出世が芳しくなかったため、家柄は悪くないのに清貧だった、というのが実情かなと思います」

そもそも、それなりの身分に生まれなければ、1000年前の女性が、漢詩を嗜むといった高い教養を身につけることはできないはず。「紫式部は身分が低かった」などと考えてしまうのは、現代の私たちが、紫式部や平安時代の社会について、いかに知識不足であるかを示しているように思います。

紫式部が住んでいた場所


では、紫式部が実際に住んでいた場所は、京都のどのあたりだったのでしょう。
どうやら、鴨川の西の堤防の西側、現在の京都御所のすぐ東側だったようです。

ここに、紫式部の曽祖父、中納言・藤原兼輔が建て、父・為時に受け継がれた風流な邸宅があったとか(堤防に接して住まいがあったため、兼輔は「堤中納言」として知られていたそうです)。紫式部は人生の大部分をこの家で過ごし、『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆したと伝えられているのです。

現在、この場所には廬山寺があります。

この地に移転したのは16世紀後半、豊臣秀吉の時代のこと。そして、今から60年ほど前に、平安時代には紫式部の住まいがあった土地であることがわかったのです。

以来、廬山寺は「紫式部ゆかりの寺」あるいは「『源氏物語』執筆の地」として広く知られるようになりました。

廬山寺の「源氏庭」


白砂が敷かれた本堂前の庭は「源氏庭」と呼ばれています。6月から9月にかけて、紫式部にちなんで植えられた紫の桔梗がこの「源氏庭」に咲く——そう聞いて、昨夏、廬山寺を訪れました。


平安時代の雅を伝える本堂前の「源氏庭」

山門には「桔梗 咲いています」と書かれた大きな看板が。大河ドラマの放送前ということもあってか、それほどの混雑ではなかったものの、参拝客にはやはり女性の姿が目立ちました。

現在の本堂は18世紀末に仙洞御所の一部を移築したもの。明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院のひとつだったそうです。

苔を配した風情ある庭を眺めていると、時間が静かに流れていきます。風に揺れる桔梗の花は、紫式部のように凛として美しく、白砂に映えます。

『光る君へ』では、清少納言が「ききょう」と呼ばれていて少々ややこしいのですが、やはりこの寺では、紫式部を思い浮かべながら桔梗を愛でたいところです。

娘・大弐三位の意外な結婚相手


境内には紫式部と娘の賢子(大弐三位/だいにのさんみ)の歌碑も立てられています。


紫式部と娘の賢子(大弐三位)の歌碑も

有馬山ゐなの笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする

母と同じく優れた歌人であった大弐三位のこの歌は、百人一首にも選ばれています。有名な歌なのでご存じの方も多いと思いますが、紫式部の娘が詠んだことは、あまり知られていないかもしれません。

母に続いて中宮彰子に仕えた後、後冷泉天皇の乳母となった彼女は、太宰大弐(だざいのだいに)正三位・高階成章(たかしなのしげあきら)と結婚。夫の役職にちなんで、大弐三位と呼ばれるようになりました。

余談ながら、賢子は高階成章の前に藤原道兼の次男・藤原兼隆と結婚していたといわれています。そうです、『光る君へ』のまひろが憎んでいる、あの道兼です!(あくまでドラマのなかのお話ですが)祖母を殺した憎き道兼の息子と結ばれることになるのです。

道長に促されて『源氏物語』を執筆?


話を紫式部に戻しましょう。一人娘を育てながら、この地で、彼女は『源氏物語』を執筆しました。早くに母と死別し、結婚2年半で夫・宣孝にも先立たれる。そんな失意と孤独のなかで、物語の創作に没頭したのではないでしょうか。

当初は近しい人のあいだで読まれていたものの、やがてその評判が貴族社会に広まり、藤原道長の目に留まった——それが定説ですが、道長に執筆を依頼され、当時は貴重品だった墨や紙を提供されてから書き始めた、という見方もあるようです(『藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』倉本一宏著、文春新書)。


6月から9月「源氏庭」に咲く桔梗

このあたりのいきさつを、『光る君へ』ではどのように描くのか。これまでのドラマの流れを考えると、彼女の才能を知る道長が、それを開花させるべく、全力で執筆を促したと考えるほうがしっくりくる気がしますが、いかがでしょう。

紫式部が『源氏物語』を書き始めた時期ははっきりしないものの、夫が亡くなった1001年以降であることは間違いなさそうです。

また、記録のなかで『源氏物語』の存在が最初に確認できるのは1008年となっています。

彰子が敦成親王を出産した祝宴の席で、当代きっての歌人である藤原公任(きんとう)が、酔った勢いで、紫式部に「このあたりに若紫さんはいらっしゃいますか?」と声をかけた——『紫式部日記』の同年11月1日の記述に、そう記されているからです。(それゆえ、2008年を「源氏物語千年紀」として、様々な記念行事が行われました)


廬山寺の「源氏庭」を眺め、『源氏物語』執筆の背景に思いを馳せる

このことから、少なくとも1008年の秋には、上流貴族のあいだで『源氏物語』が既に話題になっていたと考えられているのです。

酔っぱらった藤原公任に……


ちなみに、その公任の声がけに、紫式部はどう対応したと思いますか。

「光源氏のようにすてきな人がいないのに、紫の上(若紫)がいるわけがないじゃないの……」。心のなかでつぶやいて、何の返事もしなかったとか。酔っぱらいの相手をしても仕方がない、と考えたのでしょうか。

『光る君へ』で公任を演じているのは町田啓太さんです。ご存じのように、光源氏に負けないほどのイケメンで、藤原道長(柄本佑さん)、藤原行成(渡辺大知さん)、藤原斉信(金田哲さん)を加えた4人組で「平安のF4」などと呼ばれています。


廬山寺には紫陽花の咲く庭も。静謐な時間が流れる

さて、ドラマではこの場面を、どのように描くのでしょう。

彼の歌人としての才能は認めていても、心は永遠に道長のもの、と、麗しい公任には目もくれず……といった感じになるのでしょうか。それが今から楽しみです。

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