内田也哉子さんが『プラチナファミリー』に出演。家族への思いを語る「型破りな両親のもとに育ち、甘えられなかった幼少期。夫と結婚して抱いた悩みは、母の言葉で吹っ切れて」

2025年4月22日(火)18時0分 婦人公論.jp


「人間としてあたりまえの老いや死というものを、あたりまえに受け入れていく姿勢を、晩年の母から教わりました」(撮影:本社・武田裕介)

2025年4月22日放送の『プラチナファミリー』(テレビ朝日系)に、内田也哉子さんと長男でモデルのUTAさんが出演します。昨年に樹木希林さんの七回忌を終え、今年は内田裕也さんの七回忌。MCの小泉孝太郎さんがお二人の住まいを訪れ、そこで語られる内田家の思い出とは——。内田也哉子さんがご家族への思いを語ったインタビュー記事(『婦人公論』2025年5月号掲載)を再配信します。
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樹木希林さんが悠木千帆の名前で活動していた1976年、当時の男性著名人との対談を雑誌『婦人公論』で連載。そして2025年3月、連載と未公開インタビューを新たに収録した『人生、上出来 増補版 心底惚れた』が刊行に。連載時は希林さんのお腹にいた也哉子さん。2024年秋に希林さんの七回忌を終え、あらためて振り返る両親への思い、そして自身が母として家族を持った心境とは(構成:内山靖子 撮影:本社・武田裕介)

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面白がって死に向かっていた


今日は母のワンピースを着てきました。亡くなって6年以上の月日がたった今も、母が遺した服や車を使っています。長身の私に比べて母は小柄でしたけれど、大きめのサイズを着るのが好きだったので、着られるものが多いんです。

パリに住んでいる娘の伽羅も、日本に帰って来たときは“おばあちゃんのクローゼット”を開けて、母の服と自分の服を組み合わせて楽しんでいます。時空を超えて、あの世の母とコミュニケーションしているようで、なんだか不思議な感じです。

母は生前、私や夫(俳優の本木雅弘さん)が「もう着ない」と手放した服をよく着ていました。私があげたベルベットのパンツを、脚の部分を袖に見立てて、ジャケットにリメイクしたことも。「ものにも冥利がある」と言っていたように、なんでも次々と新品に買い替えるのではなく、今、目の前にあるものをどう使い切るかということにエネルギーを注いでいたのです。そんな母が遺した品をどう活かしていくか。それが私に与えられた宿題だと思っています。

昨年の秋、母のお墓がある光林寺という禅寺で七回忌を終えました。このお寺は都会にありながら立派な桜の木がたくさんある、不動産好きの母曰く「素晴らしい物件」。「お墓というのは残された人のためのものだから」と、家からも近く、お花見がてらお墓参りできるこの場所に、自ら建てたのです。 


母は60代で乳がんになり、10年以上病を抱えていました。晩年は余命宣告も受けていたので、「私が入る前にリフォームしましょう」と、自宅の模様替えをするような感覚で、お墓の土台の部分を玉砂利に敷き替えて。残された時間がわかっていたことを、「ありがたい」「人にはその人なりの寿命があって、それを無理やり引き延ばすことは自分の性に合わない」と、言っていたんです。

もっときめ細かな治療を受ければ延命できたのかもしれません。でも、「これ以上生きたいと願うのは欲深い」と、自然な流れで命を終えることをすんなり受け入れました。もちろん不安はあったでしょうが、「食べるのも日常、死ぬのも日常」と日頃から言っていたこともあり、自分が死に向かっていくことを、どこか面白がってもいたのかもしれません。

若い頃にはかなり激しい人生を送っていた人でしたが、病を得てからは過激な部分がどんどんそぎ落とされて、人として熟成していきました。そんな姿を母が見せてくれたので、私も老いていくのはちっとも怖くありません。むしろ、年齢を重ねていくというのはなんて素敵なことなんだろうと、この先の人生が楽しみです。

残された時間が決まったらあたふたせず、そのときに自分ができることを見つけていけばいいんだなって。人間としてあたりまえの老いや死というものを、あたりまえに受け入れていく姿勢を、晩年の母から教わりました。

ヒリヒリするような殺気と緊張感


母がこの世を去った後、「希林さんの言葉をまとめた本を出したい」というお話を多くの出版社からいただいて。何冊も刊行されたなかで私がとくに好きなのが、『心底惚れた』という1冊です。

この本は1976年に『婦人公論』で1年間連載された「異性懇談」をまとめたもの。まだ悠木千帆と名乗っていた32〜33歳頃の母が当時活躍していた男性著名人たちと対談する連載でした。

ほかの本が、晩年の母の言葉を集めたものだったのに対し、この本には、まだ30代の、生きることに必死で、対談相手に鋭いナイフのように切り込んでいく母の姿がありありと残されています。娘としては「お相手が嫌がっているから、もうやめて〜」と、思わず叫びたくなるほど(笑)。でもこれこそが、幼い頃から私が知っている母の姿なんですよね。


『人生、上出来 増補版 心底惚れた』(著:樹木希林/中央公論新社)

巻末に解説を書いてくださった武田砂鉄さんの文章も素敵です。「世の中の端切れまで鋭く眼差しを向け続けた、実に攻撃的な人」「あの穏やかな表情を顕微鏡でのぞいたら、とっても鋭利な感情で構築されていたんじゃないか」「誰とも群れることなく、個として生き、淡々と死んでゆく。人と、異性と、対話を重ねるなかでも、私という個人の輪郭を守り、あくまでも自分という存在を自分で嗜んでやろうと企むことを決心した」。

母の生きざまを正確に掬い上げてくださったこの文章に、救われるような思いがしました。母は連載中、芸能界で「アレとは対談するな」と言われていたようですが(笑)、そんな姿勢も、なんだか肯定されるような気がしたのです。

「人は一人で生まれ、一人で死んでいく」が口癖だった母は、私に対しても「親子」と言うより、個として接していました。子ども扱いされたこともいっさいありません。母親であることよりも、いかに自分の命を全うしていくかということに必死だったので、私は母から常にヒリヒリするような殺気を感じていました。

たとえばリンゴの皮の剝き方を教えるときも、「1回しかやらないから、絶対に見逃さないように」と緊張感を漂わせ、教えた後は私が手を切ろうがどうしようが気にかけない。

母が仕事で忙しかったので、私はご飯をつねに一人で食べていました。お釜で炊いた玄米とおかずが1品、切ったぬか漬けを用意してくれましたが、「お味噌汁は自分で作りなさい」と。私は、家に帰ったら「おかえり」と迎えてくれるような温かな母親に憧れていたけれど、無邪気に甘えられる存在とはかけ離れていましたね。

その反動で今、私は自分の子どもたちに「早くしなさい」「片づけなさい」と、同じことを何百回も繰り返す“過剰な母親”になってしまいました。(笑)


母の遺骨をポケットに入れて


今回、『人生、上出来』と題を変えたこの本には、新たに「四十年後の結婚観」という母のインタビューが収録されました。これを読んで、改めて両親のことを思い出すのもまた、感慨深いものがあります。

私が思春期だった頃、母がなぜ父と結婚生活を続けているのか、まったく理解できなくて。父は家にいないどころか、母が一生懸命稼いだお金を根こそぎ持っていってしまうし、私とも親子らしい時間をまったく過ごしてくれない。そんな人を内田家の大黒柱として君臨させている理由がわからずに、「なぜ夫婦を続けるの? 別れてほしい」と、母に訴えたんですね。

そうしたら、「私が生きていくには、あの人のような重しが必要なの」と。インタビューでも語っていますが、母にとって父との結婚生活は人生修行。「ダイバダッタという、どうにもままならない弟子がいなければ、お釈迦様は悟りを開けなかったように、私にとって内田はダイバダッタなんだ」と言っています。次々と無理難題をふっかけてくる内田がいるおかげで、人間として、次のステージに進めるということだったのでしょう。

とはいえ、たまに顔を合わせれば大げんかを繰り返していた両親も、自分たちの体が弱ってくるにつれ、お互いを慈しみ合うようになりました。「腕を組んで、一緒に温泉に行ったのよ」なんていう話を後から聞いて、ビックリしたことも。

母が亡くなったとき、父は本当にしょんぼりしちゃって。母の亡骸(なきがら)と対面したとき私に向かって、「なあ、啓子(希林さんの本名)、きれいだよなぁ」と言うんです。

さらに、火葬場で荼毘に付した母のお骨を家族で拾い、骨壺の蓋を閉じようとしたときのこと。車椅子に座っていた父が「ちょっと、待て!」と、いきなり立ち上がったんですよ。「また何かとんでもないことを言うに違いない!」と、私は真っ青になったんですが、父はそのまま黙って手を伸ばし、骨壺のお骨をひとつ摘んで。咄嗟に、夫がハンカチを出してお骨を包んで渡したら、「ありがとう」と言って、自分のポケットに入れて帰りました。あれは、父の心の底から湧き起こった、母への純粋な愛情表現にほかなりません。


ところが、この話には後日談があって。しばらくしてから、「あの骨な、うちにあると怖(こえ)えんだ」と父から電話がかかってきたんです(笑)。仕方ないので私が引き取りに行ったのですが、その後すぐに父も亡くなってしまった。

実は、母が亡くなる前に私は、「あんなめちゃくちゃなお父さんを残されても、私はどうしていいかわからない」と泣きついたことがあったんです。そうしたら、「大丈夫。私が絶対に連れて行くから」って。本当にその通りになったので、やっぱり母は恐ろしい人なんですよ。(笑)

そんな型破りの両親のもとに育ち、父にも母にも甘えられなかった私は、結婚したら今度こそ夫に甘えられると思っていました。ところが、夫も「家族とも誰とも群れたくない」という人だったんです。おかげで、結婚当初はかなり気持ちが砕けました(笑)。けれど、「人は一人で生まれて、一人で死んでいく」という母の言葉を思い出し、夫婦といえども、それぞれがわが道を行き、時折足を止めて、「ああ、そこにいたね」と思えればいいと吹っ切れてからはラクになった。

でもね、今でも時折、私のなかの子どもの部分が「甘えたい!」とムズムズと動き出すんです。「一人にしておいてほしい」という夫に近寄りすぎて、夫婦喧嘩が勃発する(笑)。家族のためにお金を稼いできてくれて、子育てにも協力的な夫には、本当に感謝しています。それでも、私の”インナーチャイルド”が安心して過ごせる日は永遠にやってこないのかもしれません。


「面白い大人」に会わせてくれた


振り返ってみれば、こんな両親のもとに生まれ育って、よくグレなかったと思います(笑)。父も母もあまりにも激しかったので、それが反面教師になったのでしょう。性格も、どちらにも似ませんでした。ただ、人と対話をすることで自分自身を整えていこうとするところは母と似ています。エッセイや翻訳のお仕事もしていますが、私の人生のテーマは人と対話をすること。実際に、20代の頃から現在に至るまで、対談のお仕事を多くさせていただいています。

実は私は、母が『婦人公論』の対談連載をしていたときにお腹にいました。もしかしたら、さまざまなお相手と丁々発止のやりとりをする母の声が胎教になっていたのかも(笑)。幼い頃から、母に「面白い大人に会っておきなさい」と、魅力的な人たちにたくさん会わせてもらったことも影響しているのだと思います。

そういう点では、父も同じです。私が母の対談集に登場するお相手で唯一お会いしたことがある故・五代目中村勘九郎さん(十八代目中村勘三郎)は、「最高に面白い人がいるから、ちょっと来い!」と、いきなり父から電話で呼び出され、私が20代の頃に飯倉の「キャンティ」というお店でお目にかかったんですよ。そういえば、夫と出会ったのも、父がプロデュースした映画の打ち上げの場に「今すぐ来い!」と、呼び出されたときでした。

そう考えると、母と父が遺してくれたものは今でも私のなかで脈々と息づいています。「もう一度、この両親のもとに生まれたいか?」と、神様に聞かれたら遠慮したいけど(笑)、今日の私があるのはやっぱり両親のおかげなのでしょう。

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