「天皇の容体急変」「リクルート事件」歴史の転換期に生み出された『代議士の妻たち2』。<平成初のドラマ>を手掛けることになった制作者の狙いとは

2024年4月24日(水)12時30分 婦人公論.jp


『代議士の妻たち2』初回の長良川ロケで。左から左右田一平、佐藤慶、筆者、渡瀬恒彦(写真:『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』より)

昭和天皇崩御にリクルート事件。様々な現象や事件が、立て続けに昭和の最後に起こりました。そんな歴史の転換期に、「平成」初のテレビドラマ『代議士の妻たち2』をつくったのが、元TBSプロデューサーで現・日本映画テレビプロデューサー協会事務局長の市川哲夫さんです。今回、著書の『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』から、知られざる当時のドラマ制作の裏側を教えていただきました。市川さんは「いわゆる社会派ドラマを作る気はなかった」と言っていて——。

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「昭和」の終わりが近づく


『代議士の妻たち2』は、はからずも「平成」初のテレビドラマとなった。それは、まったく偶然という他はないのだが、正に「歴史」の転換点に、このドラマを作っていたというのは、私のドラマ人生でも特筆される出来事なのである。

1988年秋、天皇の「ご容体急変」が報じられてからの社会の「空気」の変化は、異様なものだったが、少し具体例を挙げてみよう。

某人気歌手と女優の結婚式が延期となったり、日産自動車「セフィーロ」のTVCMの井上陽水の「お元気ですかぁ!」との呼びかけが取り止めになったり、6年ぶりにセ・リーグを制覇した中日ドラゴンズの「ビールかけ」が「自粛」となったりと、はっきりと変化が見てとれた。

バブル景気は続いていたが、夜の賑わいもまた、表面上では「自粛」ムードに覆われていった。

同じ時期、世間を騒がせていたのが「リクルート事件」であった。これはいかにもバブル期に相応しいとしかいいようのない事件。政界、官界、財界の大物に「司直のメス」が入らんとする気配が漂っていた。

9月5日の夜、私は『代議士の妻たち2』のシナリオ・ハンティングで滞在していた岐阜の宿で脚本の重森孝子とディレクターの坂崎彰と何気なくテレビを観ていた。NTVのニュース番組だったと思う。

そこで流されていたのは「国会の爆弾男」といわれた社会民主連合の楢崎弥之助代議士に対して、リクルートコスモス社の社長室長が贈賄の申し入れをする生々しいやりとりだ。

NTV得意の「どっきりカメラ」の手法を思わせる。この映像のインパクトは凄かった。

「こんな映像、どうやって撮ったんだ?」という疑問と、「テレビ」がこんな仕掛けに使われる時代になったのかという驚きだった。

後でわかったことは、一月前に社長室長は一度「贈賄」の申し出をして断られていたが、楢崎代議士に後日「再訪」を促され、再度の「贈賄」申し入れをさせられたという経緯である。その現場を、楢崎から情報を得たNTVが「動かぬ証拠」として撮影した。

報道の手法を巡っては、アンフェアではないかという「異論」も出たが、その「映像」の迫真力の前に押し流された。

「政策論議」を展開するつもりはなかった


政界が舞台のフィクションを作る身としては、視聴者の「政治」への関心が高まるのは「追い風」だが、反面どうやってドラマの「リアリティ」を担保するか、パート2は前作以上に周到なストーリー展開を用意せねばと痛感した。

放送回数は11回であり1989(昭和64)年1月9日が初回、3月20日が最終回の長丁場である。いわゆる「社会派」ドラマを作る気はなかった。この頃、私のドラマは「社会派」とのレッテルが貼られつつあった。

しかし、その括りには一寸反発したい気持ちがあった。私のドラマは「政治」を題材にはするが、別に「政策論議」を展開するつもりはなかった。「それは、ニュースや報道番組でやってくれ」、私はエンタテインメント・ドラマに徹して、視聴者に「カタルシス」を味わってもらう、これが制作者としての狙いだったのだ。

「天皇のご容体」「リクルート事件」というビッグニュースが、連日テレビで報じられる中で併走するように、ドラマのストーリー構成と制作準備に取り組んでいった。

10月中には、ほぼキャスティングが固まった。

主人公夫婦は構想通り、渡瀬恒彦と賀来千香子。筆頭秘書が佐藤慶。佐藤の腹心の女性秘書が真野あずさ。渡瀬に常に同行する秘書は田山涼成。派閥担当記者が益岡徹。渡瀬の母親には乙羽信子、中学生の娘が小川範子、そして、派閥の領袖が芦田伸介。

パート1で、小松方正が演じた大物秘書の末永要三は今や政治評論家に転じている(これは、誰にも明らかだったが、あの早坂茂三をモデルにした)。そして芦田、渡瀬の御用達の高級料亭の女将が、加賀まりこという布陣を敷いた。

前作に匹敵するキャスティングが実現した。全11回の中では、総理・総裁や副総裁、重要閣僚も登場する。ここでも大物俳優を起用することになるだろう(実際、総理役には池部良、蔵相役には松村達雄、副総裁役には直木賞作家・胡桃沢耕史を起用した)。

スタッフでは、演出が坂崎彰と竹之下寛次。APは前作でもパートナーだった富田勝典。

ここまでは私の希望通りのシフトだったが、ある日、演出一部(ドラマ部)長の佐藤虔一から「市川、今度のドラマは全員TBSの社員ADで、現場をやってもらいたいんだ。いいよね」といわれた。良いも悪いもない、そうしてくれということだった。

AD事情


ここで、この頃のドラマのAD事情について説明しておこう。

ADにはTBSの若手社員もいたが数は少なく、一つのドラマでせいぜい1人、主力は制作プロダクションから派遣されたスタッフが勤めるというのが常態だった。

通常ADは4人、チーフ、セカンド、サード、フォースとはっきりしたヒエラルキーがある。

正に「ドラマ好き」でなくては勤まらない苛酷な現場で、自らAD経験を持つ遊川和彦の脚本で、『ADブギ』(P八木康夫)という悲喜劇が作られた程だった。

TBS社員のADは、ともすれば「客分」扱いされがちで、現場の仕切りは制作プロのADが主導権を握るというのが実態だった。


(写真提供:Photo AC)

現場ADが全員TBS「社員」というのは、初の試みだった。上司としては「社員」を育てたいという思惑があったのだ。

シフトされたのは入社6年目の久保徹、3年目の戸高正啓、山田亜樹、2年目の田沢保之の4人だった。

「現場」が通常よりは混乱するかも知れないが、プロ野球チームに例えれば「育成」と「勝利」の両方を目指さねばならないのだ。

思わぬ事態


11月いっぱい準備を重ねて、12月1日に制作発表を済ませた。撮影は主人公代議士の地盤に設定した岐阜のロケから始まる。12月3日に現地入りして4日から5日間の撮影である。主要なキャストは、ほぼ全員参加する。

ドラマの冒頭、代議士夫妻(渡瀬恒彦と賀来千香子)がヘリコプターで、「お国入り」するシーンの撮影は2日目の12月5日(月)。撮影用と合わせて中日本航空の2機のヘリコプターを調達した。

初日の岐阜市内のロケーションは順調にスタートすることができた。

しかし翌12月5日、思わぬ事態が出来した。

朝から天皇の「ご容体、重篤」のニュースが飛び込んできた。

「五日 月曜日 未明より血圧の低下及び多量の体内出血が認められ、胃に溜まった血液を鼻から通した管で吸引する処置を受けられる。一時最高血圧が四十台まで低下したが、八百ccの緊急輸血をお受けになり、その後、血圧は回復される」(『昭和天皇実録 第十八』宮内庁編修、東京書籍刊)。

9月19日夜の「ご容体急変」以来、最も「深刻」な状況となった。

とりあえず、午前中のヘリコプター撮影は見合わせることにした。宿で待機していたが、ようやく昼のニュースで「小康状態」が報じられ、午後ヘリコプター撮影を行なうこととなった。午後からは好天にも恵まれ、無事撮影は終了した。

撮影開始時点で、全11回のストーリーラインはラストまでおよそ、こう構想していた。

(1)代議士の「再婚」が裏目に出て、総選挙で苦戦
(2)最下位当選
(3)娘の継母への「反抗」
(4)新内閣で想定外の入閣、運輸相に
(5)秘書の「裏口入学」工作発覚
(6)スキャンダル揉み消しと妻の「妊娠」
(7)過激派のハイジャック事件と妻の「流産」
(8)「法」か「人命」か〜「総理の決断」
(9)「政界」を震撼させる「疑獄」事件発覚
(10)側近の大物秘書逮捕で窮地に
(11)運輸大臣辞任・ふたたび「解散」「総選挙」へ・無所属での出馬

——という具合だ。

視聴者が、なんとなく思い当たる出来事を盛り込んだ。結果として、この目論見は成功した。

さて、初回放送は昭和64年(1989年)1月9日。私には、ほとんど年末年始休みなどなかった。世間的にも、天皇の「ご病気」でいつもの「正月気分」とは違ったものだった。

※本稿は、『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』(言視舎)の一部を再編集したものです。

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