笠谷幸生さん死去 ジャンプ界が追悼 葛西「子供の頃から憧れの存在」原田氏「悲しい思いでいっぱい」

2024年4月26日(金)15時23分 スポーツニッポン

 1972年(昭47)札幌冬季五輪のスキージャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で優勝し、日本初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが今月23日に虚血性心疾患のため死去したことが26日分かった。

 これを受け、ノルディックスキー・ジャンプの葛西紀明(51)、長野五輪団体金メダリストで雪印メグミルクスキー部アドバイザーの原田雅彦氏(55)が同日追悼コメントを発表した。

 葛西紀明は所属する土屋ホームを通じて「私が生まれた年の札幌オリンピックで金メダルに輝かれた笠谷さんは子供の頃から憧れの存在でした。日本のスキージャンプ界を代表する偉大な方の訃報に接し哀悼の意を表しますとともに心よりご冥福をお祈り致します」とし「株式会社土屋ホーム スキー部選手兼監督 葛西紀明」と添えて追悼した。

 また原田雅彦氏は「ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。突然の訃報を聞き、悲しい思いでいっぱいです。笠谷さんは札幌オリンピック金メダリストとしても勿論憧れの選手でしたが、私は指導者となられてから大変お世話になりました」とコメント。

 続けて「常に寄り添い、たくさんのことを教えて頂き、私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれた事、今でも忘れません。そのおかげで自信を持ち、ジャンプ選手として成長出来たと思っています」と回顧し「スキー連盟やJOC理事などの時も、オリンピックのたび、ジャンプを助けて頂き、長野では世界一へと導いてくれました。本当にありがとうございました。心から感謝し、尊敬しています」と感謝の思いをつづった。

 1943年8月17日、北海道の現・仁木町で生まれた笠谷さんは、98年長野五輪時にジャンプ部長を務めた兄・昌生さん(故人)とともにジュニア時代から活躍。余市高時代から海外遠征組に入り、明大1年時の64年1月に全日本選手権を制して日本のトップジャンパーとなった。64年のインスブルック大会で冬季五輪初出場。ニッカウヰスキー入社後の68年グルノーブル五輪を経て、71年には札幌で行われたプレ五輪の70メートル級を制して、初の日本開催となった冬季五輪のメダル候補として期待される存在となった。

 伝説の71〜72年シーズン。年末年始のジャンプ週間4連戦で開幕から3連勝し、日本人初の総合優勝は確実といわれたが、札幌五輪代表選考会が重なったため帰国した逸話は、今も欧州では語り草だ。72年2月6日、宮の森競技場で行われた70メートル級は1回目のリードを守り切り、日本人初の冬季五輪金メダリストに。銀に金野昭次、銅に青地清二と日本が表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

 76年インスブルック五輪後の10月に引退したあとは海外留学を経て、日本ジャンプ陣の強化に尽力。2010年のバンクーバー五輪では日本選手団副団長も務め、2018年には文化功労者として顕彰された。

スポーツニッポン

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