「刀伊」来襲で老人や児童は斬殺、400人以上拉致されるも対応に遅れ…『光る君へ』で竜星涼さん演じる藤原隆家らは外敵とどう戦ったか

2024年5月23日(木)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマでは藤原道長と伊周の権力争いが描かれましたが、伊周の弟・隆家が花山院に矢を放った「長徳の変」をきっかけに、兄弟は力を失っていきます。しかしその隆家、実は日本を救った英雄と言われているのはご存じでしょうか? 道長の全盛期に九州へ異民族が襲来。老人・子供は殺害、壮年男女が捕虜として連れ去られました。特に対馬・壱岐は壊滅状態に…。突如瀕した国家の危機に対応、外敵を撃退したのが隆家だったのです。歴史学者・関幸彦先生の著書『刀伊の入寇』よりその一部を紹介します。

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対馬・壱岐への侵攻


そもそも刀伊の入寇とは…

藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬・壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部の女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。

道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。

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寛仁3年(1019)3月末より、対馬・壱岐から北九州一帯を襲ったこの外寇事件について、基本となる『朝野群載』(平安後期に編纂された詩文・文書集)を参考にしながら跡付けていこう。

寛仁3年3月28日、刀伊の兵船五十余艘が突如、対馬に現れ、殺人・放火をほしいままにした。

同じ日、壱岐も同様に彼らに攻略されるところとなった。

刀伊による横暴


この突発的な「賊徒」の来襲は即日、対馬から通報がなされ、4月7日に大宰府に伝えられた。また壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)の常覚も、単身脱出して同じ日に大宰府に着き、壱岐守藤原理忠以下、多くの島民が殺されたことを報じた。


『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書)

刀伊の兵船は、大宰府に一報が伝えられた4月7日には既に筑前(福岡県北西部)の沿岸に現れ、怡土(いと)・志摩・早良(さわら)の3郡に侵攻。「人・物ヲ奪ヒ民宅ヲ焼ク」などの横暴をなした。

賊徒の船の長さは12尋(ひろ)から8〜9尋で、船には楫が三、四十ばかり取り付けられ、五、六十人から二、三十人の人々が乗船していた。

彼らは刃を振り回し、弓矢を持ち、楯を保持していた。

戦闘部隊が繰り出され、山野を駆け、乱暴を働いた賊徒は、牛馬を殺し食すなどの横暴に及んだ。

また老人や児童は斬殺され、「男女ノ怯者(抵抗しない者)」は船に載せられ、数は四、五百人に及んだ。さらに各地で穀米が奪取され、被害は甚大だったという。

防戦


突然の出来事で対応に遅れが出たうえ、「要害ノ地(防御の地)」の沿岸線は広く、召集の兵力が集まらず、賊船迎撃の船も整わなかった。

しかしながら大宰府から派遣された武者や怡土郡の住人文室忠光たちが合戦に臨み、賊徒に被害を与えたという。また、迎撃したわが国の勢力の中には、賊徒と激戦を展開し、首級を挙げる成果もあった。

その後の4月8日、那珂郡能古島(現福岡市西区)に刀伊の賊船が来着。

これに対応すべく、前将監(さきのしょうげん)大蔵朝臣種材(たねき)・藤原朝臣明範・散位(さんい)平朝臣為賢・平朝臣為忠・前将監藤原助高・傔杖(けんじょう)大蔵光弘・藤原友近らを博多警固所に派遣して防衛させた(警固所は能古島の南方に位置した)。

同9日早朝、刀伊軍は再び来襲し警固所を攻撃したため防戦に努めることになった。

矢戦では賊徒十余人を討ち、そのため刀伊軍は前進かなわず能古島に帰ったという。その後の2日間は風波が強く戦闘不能だったが、大宰府側では11日未明、早良郡から志摩郡船越津(現在の糸島半島の陸繋島にあった津)に精兵を配備し、敵の来襲に備えたという。

激戦、そして追撃へ


4月12日の酉刻(夕方6時頃)、賊徒が上陸して激戦が展開された。

この戦闘では大神守宮(おおがのもりみや)や財部弘延らの住人勢力が迎撃・合戦に及び、賊徒三、四十人を矢で射すくめて2人を生け捕りとした。また大蔵種材・藤原致孝(むねたか)・平為賢・同為忠らの兵(つわもの)が活躍して、船三十余船で追撃した。

その後、賊徒は同13日、今度は肥前国松浦(まつら)郡に出没し、沿岸の村々に侵攻した。

これを迎撃すべく前肥前介源知(さとす)らが郡内の兵士を率いて戦い、数十人を矢で倒し、捕虜1人を得たとする。そのため刀伊の賊船は侵攻もままならず退去するところとなった。

大宰府側も兵船四十余艘が追撃に臨んだという。

事件の経過


戦闘後に捕虜を尋問したところ、いずれも高麗の人だったという。彼らは対馬来襲以前に賊徒軍に捕らえられた人々であった。

以上、『朝野群載』所収の4月16日付の「大宰府解状(げじょう)」からの要約である。長文で内容は多岐にわたるが、刀伊来襲のおおよそが理解できるだろう。

この解状にもとづき、改めて日付ごとに事件の経過を整理すれば、左のようになろうか。

 ・3月28日 刀伊軍、五十余艘で対島・壱岐に来襲。

 ・4月7日 対馬・壱岐両島を攻略後、筑前国怡土・志摩・早良3郡に侵攻。

 ・4月8日 那珂郡能古島を攻略、同島に刀伊軍布陣。

 ・4月9日 刀伊軍、博多警固所を襲撃。

 ・4月12日 刀伊軍、志摩郡沿岸を攻略。

 ・4月13日 刀伊軍、肥前国松浦郡を侵し退去。

*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。

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