鈴木おさむ「SMAP 5人旅、震災後10日のスマスマ生放送…長年のライバルであり、一番褒めてほしい人たちを失い、僕は引退を決めた」

2024年5月30日(木)12時30分 婦人公論.jp


32年間、放送作家として活躍してきた鈴木おさむさん

32年間務めた放送作家の仕事を、2024年3月、51歳という若さでで引退すると発表した鈴木おさむさん。ともに歩んできたSMAPとの時間を小説『もう明日が待っている』という形で上梓した。引退を決めた理由やSMAPのメンバーとの思い出、数々の仕事について振り返っていただいた。(構成◎上田恵子)

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2024年3月31日をもって放送作家を引退


19歳の時から32年間、放送作家としてバラエティー番組の構成をメインに活動してきました。なかでも代表作をひとつ挙げるとしたら、20年9ヵ月続いた『SMAP×SMAP(通称スマスマ)』になるでしょうか。立ち上げ当初から携わった、僕にとって特別に思い入れの深い番組です。

バラエティー番組以外にもドラマや映画の脚本を多数手がけてきましたが、2024年の3月31日をもってこれらすべての仕事から引退しました。現在は、若者の起業を応援するスタートアップファクトリーを運営しています。

スタートアップ支援は6〜7年前から本業と並行してやっているものですが、彼らを見ていると昔のテレビ業界を思い出すんですよね。働き方改革とは無縁の、誰もが結果を出すために睡眠時間を削って一心不乱に打ち込んでいたあの時代。

今は「俺もあんな感じだったなあ」と少し前の自分と重ねながら、若い人たちの頑張りを応援しています。

リーダーから「5人だけで旅をする企画がしたい」と


『スマスマ』は、ゴールデン・プライム帯で男性アイドルが活躍する先駆けとなった番組です。高倉健さんやマイケル・ジャクソンの出演をはじめ、伝説的な回や人気を博したコーナーがいくつもありました。

なかでも話題を呼んだのが、2013年にメンバー5人だけで大阪を旅した「SMAP 5人旅」です。

当時SMAPは結成25年、『スマスマ』は番組がスタートして17年。裏番組に追い上げられ、スタッフに焦りが出ていた時期でした。

そんな時、グループのリーダーである中居正広から「5人だけで旅をする企画がしたい」と提案されたのです。「世間の人は俺らが仲が悪いと思ってる。だからこそやりたいんだよ」と。

東日本大震災から2年がたち、時代は和、つまりグループの“わちゃ” を求めていました。そういう時期にSMAPのように緊張感があるグループが“わちゃ”をやる、そのギャップが面白いんじゃないかと彼は考えたんですね。有名ゲストを呼ぶことで頭がいっぱいになっていた僕らがその提案を実行に移せたのは、かなり後になってからのことでした。

すべてが上手くかみ合った「SMAP 5人旅」


彼らには旅の当日にサプライズで今から出発する旨を伝えましたが、100%行き当たりばったりでは安全なロケができません。スタッフは彼らの行動を先読みして、出演しているCMへの配慮を含め、できる限りの準備をしておく必要がありました。

「SMAPは今セブンイレブンのCMに出ているから、コンビニに寄る際はセブンイレブンに行くはず。あらかじめ彼らが車で通りそうな店舗に旅行雑誌を置いておこう」「USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)にも行くだろうから、旅行雑誌のそのページの記事を差し替えて、広報直通の電話番号を明記しておこう。そして開いてほしいページには開き癖をつけておこう」等々。

食事についても同様です。スタッフが事前に撮影可能な店を何軒か下見して、ここぞと思う店にスタッフの名前で予約。もしも5人が違う店を選んだ場合は、店に迷惑をかけないようスタッフが食事をするという流れです。

結果、彼らはその店に立ち寄り、お好み焼きや生姜焼き定食といったメニューを楽しんでいました。彼らのリアクションはとても自然なものでしたが、実はこういう画を撮るのはものすごくハードルが高いんです。なぜなら人は、カメラが回っているとついつい過剰に反応してしまうものだから。

でも彼らは見事にやり遂げてくれて、2時間スペシャルの「SMAP 5人旅」は視聴率20%を超える神回となりました。

テレビ関係者からは、いまだに「うちでも5人旅みたいな企画をやりたいんだけど」とよく言われます。でも、うまくいかないんですよね。あの企画を成功させるには、タレントの老若男女を問わない知名度とメンバーの絶妙な関係性、そしてスタッフの並々ならぬ熱量が必要になりますから。「SMAP 5人旅」はそのすべてが揃った、稀有な成功例だったと思います。

2011年3月21日の生放送


2011年3月11日に発生した東日本大震災。『スマスマ』では震災から10日後の3月21日、「いま僕たちに何ができるだろう」をテーマとした生放送を行いました。

まだ余震が続くなか、ゴールデン・プライム帯で生放送をしているバラエティー番組などなく、実行するには多くのリスクがありました。不謹慎だと批判を受ける可能性もあります。それでも「こんな時だからこそ」という彼らのマネージャーの熱い思いを受け、放送は行われました。

番組には、視聴者の皆さんの気持ちが綴られたファックスが大量に届きました。それを、メンバーが次々に読み上げていきます。SMAPが東京にいて、こうして生放送を行っているーー。あの日5人の姿を観て安心した人は少なくなかっただろうと思います。

番組の最後には、メンバーが被災地への義援金を告知。この告知は2016年に『スマスマ』が終了するまで、1度も欠かすことなく続けられました。

『27時間テレビ』の企画で福島へ


また、その年の夏には『27時間テレビ』の企画で、木村拓哉・稲垣吾郎チームが被災地の岩手に、草彅剛・香取慎吾チームが福島県を訪れています。現地で出張料理をふるまい、被災した方々を励ますためです。

僕と番組スタッフは、企画に先駆けて震災から2カ月後の福島を訪ねていました。その際地元の方から「震災後、いろいろな芸能人が岩手や宮城に行ったが、福島には来ない。唯一来てくれたのは八代亜紀さんだけだ」と言われていたのです。

それを聞いたSMAPのマネージャーは「絶対に行かせよう!」と即決。7月23日の本番では、彼らが大量の料理を作り、現地の方々にふるまう様子が放送されました。皆さん本当に喜んでくれて、会場となった体育館は笑顔でいっぱいに。『27時間テレビ』の料理企画は大成功に終わりました。

リーダーはその後もプライベートで頻繁に被災地を訪れ、僕自身も何度かお米券を配って歩きました。毎年3月11日になると、今も被災地の方から「その節はありがとうございました」というお礼のメッセージが届きます。きっとSMAPのメンバーは僕の何万倍も感謝されたでしょうし、つらい思いをされた方々の光になったことと思います。

自分の心臓がなくなったような空虚な気持ちに


20年以上続いた『スマスマ』は、2016年12月26日に終了。SMAPも解散となりました。

気持ちの整理もつかぬまま、2017年の1月には僕が脚本を担当したドラマ『奪い愛、冬』がスタート。このドラマが話題になったことが自信になり、「俺は俺で頑張っていこう」と自分なりに気持ちのスイッチを入れ直していました。

ところが時間がたつにつれて、「やっぱりちょっと違うな」と思うようになってきて……。

僕にとってSMAPは、長年のライバルであり、一番褒めてほしい人たちでした。彼らも彼らのまわりにいる人もすごい人たちばかりで、「俺だってヒットを出せるんだよ、褒めてくれよ!」と、常に彼らを意識しながら頑張ってきたのです。

でもSMAPがいなくなって反射鏡が消えたと言いますか、自分の心臓がなくなったような、とてつもない空虚さを感じるようになってしまったんですね。それは時間がたっても消えることはなく、仕事をしていても以前のように120%の力を出すことができなくなっていました。

ふと気づけば僕も51歳。何かを始めるなら今しかありません。考えたあげく抱えているすべての仕事を終わらせ、引退することを決めました。


鈴木さん公式インスタグラムより

仕事で体を酷使し、間質性肺炎を発症


引退を決めた理由は他にもあります。僕は数年前、肺胞の壁に炎症や損傷が起こる間質性肺炎を患いました。これは進行の度合いによっては、5年生存率が30%程度になるという非常に怖い病気です。

僕には笑福(えふ)という8歳になる息子がいるのですが、病気を発症したのは彼が生まれて2年目くらいの時でした。医師から説明を聞いた時は本当にショックで、「こんな小さな子がいるのに、ここで死んじゃったらどうするんだ」と目の前が真っ暗になりました。

毎日のように〆切があり、寝ていてもうなされて熟睡できない。ストレス過多で心身ともにギリギリの状態でした。仕事量を減らせばいいと言っても、僕の場合、自分でやりたいことを増やしちゃっているのでどうにもならないんですよ(笑)。そこで思い切って、仕事そのものを辞めることにしたのです。

妻(「森三中」の大島美幸さん)に「引退しようと思うんだけど」と告げた時は、一言「おせーよ!」と言われました。彼女も僕のことを、相当につらそうだと心配しながら見ていたそうです。

SMAPへの思いは、今回出版した僕の小説『もう明日が待っている』に込めました。最後まで義援金の告知をしていた彼らに倣い、この本の著者印税はすべて能登半島地震の義援金として寄付すると決めています。


『もう明日が待っている』(著:鈴木おさむ/文藝春秋 )

書く才能を伸ばしてくれた「学習計画ノート」


引退して自分の人生を振り返ってみると、やっていることは昔も今も変わらないなあとしみじみ思います。

僕はスポーツ用品店と自転車屋さんを合わせた店を営む家に生まれ、寡黙な父と明るい母のもとで育ちました。余談ですが僕が25歳の時に、学校との受注契約が切られたことが原因で、父は1億円の借金を抱える立場に。打ち明けられた際は途方に暮れましたが、そんな僕に某テレビ局のディレクターは「その話、面白いから会議で話してよ!」言うではないですか。

そんな馬鹿なと思いつつ会議で披露したところ、本当にウケて。「そうか、この業界ではこういうことも面白がるくらいでないとダメなんだ」と気持ちを立て直し、数年かけて無事に完済することができました。

ものづくりの楽しさを知ったのは小学6年生の時です。当時、僕は生徒会長をやっていたのですが、学校では毎月、全校生徒の前で「この町の人口は」とか「ここで獲れる海産物は」といったことを発表をする決まりがありました。

でも、そんなの全然面白くないじゃないですか。そこで大映ドラマのパロディーを自作して皆の前で演じたところ、これがものすごくウケて(笑)。その後も国語の時間に友達をモチーフに小説を書いたら、先生が「独創的で面白い」と褒めてくれたりして、すっかり創作の楽しさに目覚めてしまったのです。

なかでも大きかったのは、中学時代に提出していた「学習計画ノート」です。他の生徒は2年生くらいになると出さなくなるのですが、僕は先生が書いてくれるコメントが嬉しくて、そして先生を楽しませたい一心で、毎日せっせと書き続けていました。

やっぱり自分の書いたものにリアクションしてもらうと張り合いが出るんですよね。僕の場合、大人になってからはそれがバラエティー番組の構成やドラマの脚本に変わっただけで、やっていることは当時と同じ。僕の才能を伸ばしてくれたのは、間違いなくあの時の先生とのやり取りだったと感謝しています。

息子への教育としてやっているのは、映画館で映画を観ること


放送作家の仕事から離れて1カ月以上たちますが、今日までテレビはほとんど観ていません。と言うか、基本的に家では息子の笑福(えふ)がYouTubeを観ているので、テレビを観る機会がないんですよ。我が家のテレビは、今や完全にネットのモニターと化しています。

子育てについては息子に親の理想を押し付けることはしたくないですし、勉強も最低限のことをしていればいいと思っています。唯一教育としてやっているのは、映画館で映画を観ることでしょうか。映画館にこだわるのは、家で観るより集中できるからです。

彼は毎年、夏休みの自由研究で、観た映画のベストテンを発表しています。去年は夏の時点で12〜13本くらい観ていたので、そこからランク付けをしていました。彼が書いた文章を読んでいると、1年の時より2年、2年生の時より今のほうが明らかに上手くなっている。子どもってすごいなと感心しています。

昨日も一緒に映画を観に行きましたが、それを入れて今年はすでに8本観ています。ちなみに小1の時のナンバー1は『トップガン マーヴェリック』でした。理由は「CGじゃないから」だそうです。今の子はYouTubeでメイキング映像を観ているので、ブルーバックで撮ることを知っているんですよね。彼としてはブルーバックじゃないことに驚いたようです。

息子に対して、「将来こうなってほしい」という希望はありません。ただ、自分の「好き」は早く見つけてほしいかな。何でもいいので、楽しみながら打ち込めるものを見つけて欲しい。それだけでじゅうぶんです。

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