「靴磨きさえした」ジャニー喜多川の戦後アメリカ“貧困生活” 現地ルポ《写真発掘》

2024年9月30日(月)7時0分 文春オンライン


1949年、18歳のジャニー喜多川は、幼少期に離れて以来となるアメリカでの生活を再開する。しかし、当時のアメリカは根強い日系人差別が残っており、そこでの生活は決して恵まれたものではなかった。アメリカ在住のノンフィクション作家・柳田由紀子氏が徹底取材した。



◆◆◆


惨めだった日系アメリカ社会


 ロサンゼルスの日本人街、リトル東京から東に車でほんの10分、ロサンゼルス川を渡ったところにボイルハイツという町がある。戦前、アメリカ社会のメインストリームからはじかれたユダヤ人やロシア人、そして日系人など、雑多な人種が住んでいた地区だ。現在、ボイルハイツの住民はすっかりメキシコ系が中心だが、今でも、かつて日系人のために作られた病院や宗教施設の建物が残る、うらぶれたなかにもなんともノスタルジックな一帯である。


 喜多川家が、1933年(昭和8)にロサンゼルスを引き揚げるまで暮らしたのは、ボイルハイツの借家だった。76年(昭和51)に、ジャニー喜多川の姉、メリーを取材した記者はこんな文章を綴っている。


「彼女の手元にある古いアルバムには、当時、一家が住んでいた家の前で、親子三人が写ったスナップがあるが、玄関の前に猫のひたいほどの庭があり、そのすぐ前に道路と土地の広いアメリカにしては窮屈な感じの立地条件で、ただ、あふれるばかりの陽光がまき散らされていた」(「女性自身」同年5月6日号)



ロサンゼルスの高野山米国別院にて。右端が戦後、渡米直後のジャニー喜多川氏 Photo Courtesy of Mrs. Minnie Takahashi


 ボイルハイツには、第二次大戦後も多くの日系人が住まったが、誰もが一様に貧しかった。大半の家には何家族もが同居していたし、住処さえない者も多く、そんな人々は、ボイルハイツやリトル東京の日系寺院を頼った。事実、ジャニー喜多川の父、諦道(たいどう)が戦前、主監(住職)をつとめた高野山米国別院(当時は大師教会。以下、別院)でも、何十名もの日系人が肩寄せ合って暮らしていた。


 皆、収容所帰りだったからである。


 日米開戦から約2カ月後の42年(昭和17)2月19日、ルーズベルト大統領は、「国防上危険な者の退去を可とする」大統領令9066に署名した。その結果、約12万人の日系人がカリフォルニア州を含む軍事指定区域から、全米10カ所の荒野に急拵えされた収容所へと送られた。収容所といっても、アメリカはナチスのような虐殺は行っていない。とはいえ、4年間の収容所暮らしはあまりに長かった。


 戦後、日系人がボイルハイツやリトル東京に戻ると、アパートや借家にはもちろん別の人々が住んでいたし、持ち家でさえ不法占拠されていた。


 第一、職がなかった。


 しかも、差別はまだ続いていた。日系人は、映画館では入場を拒否されたし、ガラ空きの長距離列車でもわざわざトイレ付近の座席に座らされ、ダイナー(食堂)に入ったところでウエイターもウエイトレスも注文を取りには来なかった。国全体は豊かな“アメリカの世紀”を迎えていたのに、日系人はあいかわらず蚊帳の外で生活再建に手一杯だった。


 ジャニー喜多川が、2歳足らずで後にしたアメリカに16年ぶりで戻った時、身を寄せたのがこのボイルハイツだった。


3度目の寄寓


 姉、メリー、兄、眞一(まさかず)とともに横浜港から日本を出国したジャニーは、12日間の船旅を終え、49年(昭和24)11月24日、サンフランシスコ港に到着した。日本はいまだ連合国占領下という特殊事情のため、航行には米軍用船のゴードン号が使用され、目的地のロサンゼルス直航ともいかなかった。渡航費は、「アメリカで働いて月賦で米政府に返済する」条件だったという(「女性自身」前出号)。


 ボイルハイツに辿り着いた姉弟は、ここでまたしても他家に寄寓する。父の主監時代に、別院の檀家代表だったヤオゾウ・ウエダ夫妻の家である。別院では、戦中途絶えていた日本との文通が、この2年前頃から再開していた。ジャニーらは、こうした文通を通じて渡米後の目処を立てたのだろう。姉弟の米国入国記録のアドレス欄にも、ウエダ家の住所が記されている。


 ウエダは若くして和歌山から渡米、苦労の末に海産物事業で財を成した。ボイルハイツの自宅も、周囲とは一線を画す堂々たる楼閣風3階建て。しかし、収容所から戻ると、この家にも「見ず知らずのメキシカンが住んでいた」と、ウエダの孫で故シカコ・ソガベさん(第1話参照)の長女、タエミ・ウエスタさん(82/ロサンゼルス在住)は語る。


「ヒー坊も泰子ねえちゃんも——私たちは、ジャニーやメリーを日本名からこう呼んでいました——しばらくの間、祖父母宅に住んでいました。ただ、祖父母の家には、当時のご多分に漏れず他の日系人たちも住んで手狭だったので、そのうちに、ヒー坊はリトル東京にあった日系人の散髪屋さんのところに、泰子ねえちゃんは私の叔母、オクニの家に越したと、亡くなった母から聞きました」


 米国籍とはいえ異国に等しいアメリカで、親もなく、姉弟も離れ離れとはどんなに心細かったことか。そのうえ懐も寂しかった。ジャニーは、元ジャニーズJr.で彼の被害者だった長渡康二さん(41)に、「アメリカでは靴磨きさえした」と話したというが、メリーも、強気な彼女にしては珍しく苦労話を打ち明けている。


「決して楽な生活ではありませんでした。ベビーシッター(子守り)もやったし、ショップ・ガール(売り子)もやりました。学校が終わると、アルバイト先に直行したり……」(「女性自身」前出号)


ブロマイド売りのアルバイト


 アルバイト先には、高名な日系人カメラマン、トーヨウ・ミヤタケ(1895〜1979)の写真館もあった。ミヤタケもまた別院の檀家で、自宅をボイルハイツに構えていた。


 ミヤタケの次女、ミニー・タカハシさん(86)をロサンゼルス郊外の自宅に訪ねた。


「ヒー坊たち姉弟は、うちでパートタイムしたと思います。あの頃の写真館には、現像、紙焼き、撮影助手と、いくらでも仕事があったので。母は幼い頃の彼らを知っていたし、世話好きな人だったから姉弟はよくうちに遊びに来ていましたよ」


 そう語ると、タカハシさんは戦前、別院で開かれたハロウィーン・パーティの集合写真を見せてくれた。右端に、仮装した人々にまじってトーヨウの妻に抱かれた、着物姿であどけない表情のメリーが写っている。


「私は、10歳くらいだったかしら。お昼すぎにひとりで家にいたら、渡米直後の泰子が訪ねてきたんです。やさしくてプリティで、大好きになった。泰子の話で印象的だったのは防空壕。戦争中、爆撃機が飛んでくるとそこに逃げ込んだんだ、と。収容所でそういうことはなかったから、私、驚いちゃって。泰子がくれた写真がこれ、ずっと大事に持っているんです」


 タカハシさんが指差す先に、襖の前に伏し目がちに座る娘らしい姿のメリーがいた。渡米前に日本で撮ったものだろう。後年、女傑や女帝と称された彼女からは想像がつかない奥ゆかしさだ。


 ミヤタケ写真館は、別院の目と鼻の先にあった。「あの頃は路面電車が走っていて、ボイルハイツからリトル東京へは簡単に行けた」と、タカハシさんは説明する。リトル東京は、日系人が不在だった間に黒人街に変貌したものの、戦後4年を経て元の姿に戻りつつあった。


「父は、日本から来た有名人のブロマイドも撮影して、これは物凄く売れました」


 ブロマイドは別院でも販売されたが、年配の檀家は、「ヒー坊もここへ来て働いていたわね。……ブロマイドを売っていたのを覚えています」と証言している(『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子/新潮社/2009年)。


 ジャニー自身はブロマイドについて、日本の芸能人はお金に苦労していたので、「(トーヨウに)無料で撮ってもらうように頼んだんです。そして、(別院の)場内でそれを売って、その売り上げを全部、日本から来たアーチストにあげたんです」(「Views」95年8月号)。


 ところが、この記事をタカハシさんに英訳して伝えると、


「多忙とはいえ、我が家の暮らしに余裕はありませんでした。収容所帰りだったので、父は一からやり直したのです。それに、うちにもほかに住処のない3家族が同居していたし。ブロマイドの全売上げを渡すなんて鷹揚なことはできなかったですよ」


 と、首を傾げた。


 大方この話も、ジャニー特有の“小さな脚色“だったのだろう。


ハウスボーイとハウスガール


 タカハシさんもウエスタさんも、「ジャニーが学校に通っていた」ことを憶えている。しかし不思議なことに、ウエダ邸の学校区であるルーズベルト高校の、ジャニー滞米中数年間の卒業アルバムには彼の名前も写真も載っていない。日本を出国したのが新制・新宮高校3年の秋だから、ハイスクール3年に編入したはずなのだが……。


 考えられるのは、ルーズベルト高を卒業する以前に他所に越したということ。というのも、姉弟はある時期からハウスボーイやハウスガールになったからだ。ハウスボーイ、ガールとは、住み込みの家政夫(婦)の意。日中は通学し、空いた時間で働く形態も多く、戦後の窮乏時代に日系の若者がこの職に就くのは珍しいことではなかった。


 無論、ハウスボーイ、ガールの立場で姉弟同居は叶わない。そのため、メリーはハリウッドの、眞一はビバリーヒルズに並ぶ高級住宅地、ベルエアの、そしてジャニーは(おそらくは)グリフィス展望台付近に散り散りになって住み込み、高校やシティ・カレッジ(公立の短大、専門学校)への通学を続けた。


 彼らがそうした理由に、いつまでも日系人に頼るわけにもいかなかったことのほかに、英語の学習が挙げられる。タカハシさんの甥、カール・ミヤタケさん(64)によれば、「眞一さんは、日系社会にいたのでは日本語を使ってしまうので飛び出したと、言っていました」。


 それに、「どうしても日系米人の社会に同化できなかった(メリー喜多川談)」(「女性自身」前出号)という事情もあった。そもそも日系人自体がアメリカにあってマイノリティだが、長年日本で育った姉弟は、そのなかでもマイノリティだった。日本居住後アメリカに戻った人々は「Kibei(帰米)」と呼ばれるが、アメリカで生まれ育った生粋アメリカ人の日系人とは文化が異なるため、しばしば感情や意見が対立してしまう。たとえば、テレビで真珠湾攻撃の様子が映されたとしよう。大半の帰米は日本の戦闘機を応援するが、日系人は日本の戦闘機を撃ち落とす米軍機に喝采を送る。姿形は似ていても両者の溝は深いのだ。


 人種差別や偏見のなか、赤貧で、親類もなく、言葉も不自由なうえに“二重のマイノリティ” ——あれほど夢に見たアメリカは、ロサンゼルスは姉弟に冷たかった。渡米後のジャニーは、幾度も「こんなはずじゃなかった」と身悶えたことだろう。そうして、境遇が苦しければ苦しいほど、離れ離れになればなるほど姉弟の精神的な結びつきは深まったろう。




本記事の全文(約12,000字)は「 文藝春秋 電子版 」に掲載されています( 日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」第3話 戦後の米国でハウスボーイの赤貧生活、疑わしい「美空ひばりの通訳」履歴、徴兵で朝鮮戦争へ )。



【連載】日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」
・第1話  僧侶の父、アメリカでの虚実、母の早逝、和歌山への移住


・第2話  那智勝浦湾に浮かぶ「島」への移住、空白の16年、敗戦後ふたたびアメリカへ


・第3話  戦後の米国でハウスボーイの赤貧生活、疑わしい「美空ひばりの通訳」履歴、徴兵で朝鮮戦争へ



(柳田 由紀子/文藝春秋 電子版オリジナル)

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