【舛添直言】戦勝記念日プーチン演説から読み解くウクライナ侵攻の本当の原因

2023年5月13日(土)6時0分 JBpress

(舛添 要一:国際政治学者)

 5月9日、ロシアの第二次世界大戦戦勝記念日に、規模は縮小されたが、赤の広場で軍事パレードが行われた。式典で演説したプーチン大統領は、ウクライナ侵攻をネオナチとの戦いとして正当化した。その演説を聴くかぎり、戦争の短期終結の可能性は極めて低い。


「本物の戦争」という表現

 プーチン演説の内容を検討してみよう。

 冒頭で、この日が、ナチズムから人類を救った記念日であることを強調し、父祖たちの戦いを讃えた上で、「今日、現代文明は再び重要な転換点を迎えている」と述べた。

 つまり、「我々の祖国に対して再び本当の戦争が開始されたが、我々は国際テロを撃退し、ドンバスの住民も守り、我々の安全を確保している」と、ナチスに攻撃された独ソ戦と今のウクライナ戦争を二重写しにさせたのである。

 ヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってロシアに侵攻したように、「欧米のエリートたち」が、ウクライナを支援してロシアに対して「本当の戦争」を始めたという論理である。

 自らが行った国際法違反のウクライナ侵略については不問に付した上で、欧米が、「ロシアに対する新たな進軍を冷笑的かつ公然と準備し、このために世界中からネオナチのろくでなしを集めた者たちによる露骨な報復」をしたと断定した。

 戦勝記念日の演説ということなので、とりわけスターリンがヒトラーとの戦いに勝ったことを強調するが、プーチンの論理と主張は、政権について以来一貫している。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、1991年12月にソ連邦が解体した後のエリツィン政権を待っていたのは、経済の混乱であり、NATOの東方拡大であった。それは、冷戦に勝った西側が、敗者への配慮を忘れた傲慢であり、新生ロシアに苦難を強いることになったのである。エリツィンの後継者として政権に就いたプーチンは、その屈辱を晴らすために全力を上げてきた。

 そして、石油や天然ガスの価格高騰を追い風にして経済を活性化させ、また、チェチェン、グルジア(ジョージア)、シリアなど中東でロシアの威信を回復してきた。その延長線上にクリミア併合がある。


クリミア併合と同じ論理

 1991年8月24日、ウクライナはソ連邦から独立した。12月のソ連邦の崩壊とともに、独立国家協同体(CIS)のメンバーとなった。ウクライナの東南部はロシア人も多く住んでおり、ロシアとの関係が深く、ロシアは強力に梃子入れした。一方、西部や中部は親西欧派が多く、EUへの加盟を求めた。こうして、ウクライナの東西で政治的意見も異なり、国が二分される状況となった。

 2004年の11月の大統領選決選投票で、親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと親西欧派のヴィクトル・ユシチェンコの一騎打ちとなった。選管はヤヌコーヴィチの当選としたが、ユシチェンコ陣営は選挙に不正があったとして、首都キエフを中心に大規模なゼネスト、デモなどの抗議活動を行った。

 EUなどの仲介で12月に再投票が行われ、ユシチェンコが勝利し、大統領となった。「オレンジ革命」である。

 しかし、ユシチェンコ与党の「われらのウクライナ」は、2006年6月の最高議会の選挙で惨敗した。その後、政権内部の抗争で、2010年の大統領選挙では、ティモシェンコと対決したヤヌコーヴィチが当選した。

 2013年、プーチンの圧力で、ヤヌコーヴィチはEUとの政治・貿易協定の調印を見送り、ロシアやその経済圏との協力を強化しようとした。そのため、親欧米派が抗議活動を展開し、騒動は拡大して収拾がつかなくなり、2014年2月22日にヤヌコーヴィチは国外に逃亡したのである。最高議会はヤヌコーヴィチの大統領解任と大統領選の繰り上げ実施を決議した。「マイダン革命」である。

 親露派政権の崩壊という事態に、プーチンはロシア系住民を保護するという名目でクリミアへの軍事介入を決め、秘かに武装集団をクリミアに侵入させたりして周到に準備を進めた。

 3月11日には、クリミア自治共和国最高会議とセヴァストポリ市議会がクリミア独立を宣言した。3月16日にはウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票が行われた。その結果賛成が多数となり、それに基づいて3月18日にロシアはクリミアを併合した。

 クリミアの後のターゲットが、ドンバスであり、戦勝記念日の演説で「ドンバスの住民も守り」という表現を使ったのは、クリミア併合の正当化と同じ論理なのである。


戦後処理:第一次世界大戦の失敗

 20世紀以降の世界歴史を振り返ってみる。1914年には第一次世界大戦が勃発する。1918年に戦争は終わり、ベルサイユで講和会議が開かれ、1919年6月にベルサイユ条約が調印された。

 この講和条約では、ドイツが二度と強国にならないように様々な厳しい措置が決められた。ドイツは、領土を縮小され、巨額の賠償支払い義務を背負い、軍備も禁止された。

 とくに強硬にドイツ封じ込めを主張したのはフランスであった。フランスの最大の関心事は自国の安全保障であり、ライン川を国境にしようというのが本音であった。しかし、ヨーロッパ大陸内でフランスのみが巨大化するのに反対のイギリスは、欧州大陸内のバランスを考慮して、ドイツに対する配慮を働かせ、対独措置を穏健化させたのである。

 しかし、この敗者に対する厳格な仕打ちによって、戦後のドイツは経済困難に陥り、ハイパーインフレ、失業者の増大という未曾有の危機に直面せざるをえなくなった。

 その国民の不満と不安を背景にして台頭したのが、ヒトラーに率いられるナチスである。経済指標が良くなるとナチス党の支持率・得票率は下がり、悪化すると勢いが増した。1929年10月の世界大恐慌以降は、ナチスが躍進し、1932年7月には遂に国会で第一党となる。そして、1933年1月、ヒトラーが首相に就任する。政権に就くと、ナチスは他党を排除して独裁への道を歩むのである。こうして、1939年9月には第二次世界大戦が勃発する。

 第一次世界大戦の戦後処理は失敗だったと言えよう。


戦後処理:第二次世界大戦の成功

 第二次世界大戦は、1945年5月にドイツが、8月に日本が降伏して終結する。終戦前の7月に、スターリン、チャーチル、ローズヴェルト後継のトルーマンが、ベルリン郊外のポツダムで会談した。戦後処理の問題を協議するために、連合国は、カイロ、テヘラン、ヤルタと会談を続けてきたが、これが一連の会議の最後となった。

 日本に対しては7月26日、無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発出された。

 ドイツについては、非軍事化、非ナチ化、民主化という原則では一致したが、賠償問題など多くの点でソ連と英米との見解は一致しなかった。そして、共産主義が世界に拡散することへの警戒心は西側に強く、東西冷戦が始まった。

 トルーマンは、1947年3月、東西冷戦の開始を認め、全体主義によって自由を抑圧されている人々を援助することが自由なアメリカの責務であるとして、自由主義陣営と全体主義陣営の戦いという二元図式を提示した。

 そして、全世界的規模で共産主義陣営を「封じ込める政策(コンテインメント)」の必要性をうたった(トルーマン・ドクトリン)。

 これを受けて、1947年6月5日、アメリカのマーシャル国務長官は、ヨーロッパ経済復興計画を発表した。アメリカが、欧州諸国に大規模な経済援助を行い、戦後復興を助けるという内容で、正式には「欧州復興計画(ERP)」と言うが、「マーシャル・プラン」と呼ばれた。経済の安定によって、西欧への共産主義の浸透を防ぐという政治的目的もあったのである。

 これに対して、同年9月、スターリンは、ポーランドに東欧諸国とフランスとイタリアの共産党を集め、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を結成した。そして、自らの支配下にある東欧諸国にソ連が援助を行うというモロトフ・プランを発表し、これが、1949年1月にコメコン(COMECON、経済相互援助会議)に発展した。

 1949年4月4日には、北大西洋条約機構(NATO)が、アメリカ、イギリス、フランス、ノルウェー、イタリア、カナダ、デンマーク、オランダ、ベルギー、ポルトガル、アイスランド、ルクセンブルクの12カ国によって設立された。

 一方、ソ連は、NATOに対抗して、1955年5月、東欧8カ国とワルシャワ条約機構という軍事同盟を組織した。

 第一次世界大戦後のように、戦勝国が敗戦国に天文学的な賠償を科すような愚は繰り返さず、むしろ経済的に支援するという政策をとったのである。その結果、日本、イタリア、西ドイツは自由な民主主義体制となり、1960年代の高度経済成長を通じて、アメリカの忠実な同盟国となった。

 ソ連とその傘下にある東欧諸国についても、ソ連の援助で戦後復興を遂げていったと言えよう。

 その意味で、第二次世界大戦後の戦後処理は、第一次世界大戦後とは対照的に「成功」したのである。


戦後処理:冷戦の失敗

 ところが、東西冷戦終了後のアメリカは、第一次世界大戦後と同じ対応に先祖返りしてしまった。それがNATOの東方拡大であり、クリントン大統領の1994年後半の政策変更である。

 米ソ冷戦に勝利したと有頂天になったアメリカは、冷戦の敗者の苦難など気にもしなかった。プーチンがウクライナ侵攻を決断した背景には、NATO不拡大という約束を反故にしたアメリカの裏切りがあったのであり、プーチンの根深いアメリカ不信があったのである。

 戦勝記念日の演説で、プーチンは欧米を批判し、欧米の狙いが「わが国の崩壊と破壊を実現し、第二次世界大戦の結果を覆し、世界の安全保障と国際法のシステムを決定的に破壊し、あらゆる主権的な発展の中心地を圧殺することだ。過剰な野心、傲慢、やりたい放題の状態は、必然的に悲劇を招く。ウクライナの人々が現在直面している破局の理由は、まさにここにある」と指摘した。要するに、第二次大戦後の戦後処理は「成功」していたのに、ソ連邦崩壊後、西側がその安定を「覆し」たのだという認識を示したのである。

 ウクライナ戦争の発端が冷戦後の処理の「失敗」にあったことを理解すれば、次はこの戦争の処理の仕方がこれからの国際秩序の形成に決定的な意味を持つことがよく分かるはずである。そのことをゆめゆめ忘れてはならない。

筆者:舛添 要一

JBpress

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