ブラジルで人口の約7割が利用する電子決済「PIX」は、なぜクレジットカードを超えるほどの市民権を得たのか?

2024年12月18日(水)4時0分 JBpress

「ブラジル」と聞くと、多くの読者はコーヒー、サッカー、サンバといったキーワードを真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。ところが、現在のブラジルはそうした既存のイメージを覆し、グローバルサウスを率いる国家へと急成長を遂げつつある。とりわけ金融面では、独自に構築した電子決済システムで世界市場を狙い、日本以上にIT化が進んでいる。本連載では『ブラジルが世界を動かす 南米の経済大国はいま』(宮本英威著/平凡社新書)から、内容の一部を抜粋・再編集。フィンテック領域の躍進や日本企業との関係を中心に、国際社会において存在感を増している南米の大国の「いま」を探る。

 第2回は、2020年のサービス開始以来、瞬く間にブラジル総人口の約7割が利用するようになった電子決済システム「PIX(ピックス)」を取り上げる。高い利便性だけではない、急速な普及の背景にあったブラジル特有の金融事情とは?


人口の7割が利用する「PIX」

 ブラジルで急速に聞く機会が増えた言葉がある。PIX(ピックス)だ。

 銀行口座間の送金を、素早く可能にする決済システムで、24時間365日、夜間や休日もその場で送金が完了する。「PIX使える?」「PIXで支払います」というように使われている。

 日本の「PayPay」「メルペイ」のようなシステムと考えてもらいたい。日本ではQRコード決済が乱立しており、基本的には支払う側と受け取る側が同じサービスを利用していることが決済の条件となる。

 ブラジルではこの中央銀行が導入した即時決済システムPIXを大半の市民が用いている。

 電子決済なので、現金を持ち歩く必要はなくなる。クレジットカードに比べて、店舗側が支払う手数料は少ない。専用端末も必要ない。スマートフォンで全てが完了する。利用者は納税者番号や携帯電話、メールアドレスのどれかがあれば、開設は簡単だ。

 実店舗やオンラインでの支払いだけではなく、割り勘にも広く使われている。例えば、誕生日プレゼントを共同で購入した場合、「後でPIXするね」「PIXのキーは携帯番号?」といった会話が日常生活の決まり文句になっている。

 ブラジル中銀がPIXを始めたのは2020年11月16日だ。ほぼ1年後の21年12月時点の個人利用者数は1億979万人、法人の利用は854万社まで増えていた。その後も順調に増加して24年6月時点では1億5680万人、1652万社だ。利用者数は全人口2億1400万人のうち、約7割に達している。成人で利用していない人はほぼいないような状況だ。


投げ銭は電子送金で

 ダニロ・アンドラジ(32)は毎朝、サンパウロのビジネス街パウリスタ大通りに「出勤」する。子供を肩車して、手にはメッセージを書いた紙を掲げる。「助けが必要です。4人の子供がいますが、失業中です。困難な状況に陥っています」。赤信号でとまった車両の間を歩き、運転席に座った人に小銭を求める。ここまでならよくある光景だ。

 アンドラジが掲げる紙には「PIXも持っています」と、「口座」に相当する11ケタの数字が書かれている。PIXについて書いたのは2021年11月に遡る。

 ある日、いつものように小銭を求めて車両の間を歩いていたところ、車に乗っていた女性から「小銭はないけど、PIXでなら送るわよ」と声をかけられたのがきっかけだ。それ以来、8人からPIXで小銭が届いた。それぞれは「20レアル50レアルぐらい」だが、貴重な「収入」となった。

 中銀のロベルト・カンポス・ネト総裁はPIXの導入から1年を迎えた21年11月、「毎月のようにPIXの利用は伸びている。足元の状況は予想を上回った」と喜んだ。

 なぜこのように活用が急速に広がっているのか。理由は便利だからにつきる。利用者は携帯電話や電子メールアドレスなどの中から「PIXキー」を選んで登録し、自らの口座とひもづけるだけで登録は終わる。PIXに専用のアプリは必要なく、各自が持つ金融機関のアプリを通じて送金を実行する。

「PIXキー」から相手を探し、送金先を設定する仕組みだ。相手の口座情報も必要ない。平日の昼間はもちろん、休日、夜間でもわずか数秒でお金を送れる。電子商取引の場合はパソコンに表示されるQRコードを読み取ることで手続きでき、店頭でもスマートフォンで読み取れば、簡単に支払いが完了する。現金を持ち歩く必要性は劇的に低下した。

 小売り大手ポンジアスカルのフレデリコ・アロンソ取締役は「現在は現金やデビットカードを使っている支払いの大部分がPIXに置き換わる可能性が高い」とみている。電子商取引大手メルカドリブレでは22年時点で、出店者の7割がPIXに対応していた。対応している店舗の売上高は、未対応の店舗よりも平均で1割多いという。


クレジットカードを上回る決済数

 PIXの2023年の年間決済件数は約420億回で、金額は17兆レアルだった。2023年10〜12月の決済件数は約131億回と、デビットとクレジットカードの合計(約120億回)を上回り、逆転した。

 オンライン決済を仲介するイーバンクス(EBANX)の報告書は、電子商取引(EC)でのPIXの決済額は24年の1110億ドルから26年には1845億ドルに増えると予測している。占有率は24年の34%から26年には40%となり、クレジットカード(42%)に匹敵すると予測している。

 銀行の口座から振り込む場合には1件あたり1020レアル程度の手数料がかかるのが一般的だ。個人でPIXを使う場合は手数料がかからない。国際通貨基金(IMF)が23年7月に公表した報告書によると、企業がPIXを使う場合は取引額の0.33%かかる。

 それでもデビットカード(1.13%)やクレジットカード(2.34%)に比べると大幅に安い。銀行振り込みが減る一方で、全体の決済数は増えている。PIX経由で電子決済を使う人が増えて、送金需要を喚起している実態が浮かぶ。

 中銀が即時決済システムを構想し始めたのは16年に遡る。17年に中銀内での議論が具体的に始まり、18年にはワーキンググループが立ち上がった。19年には約1500人を対象にした調査を実施し、より具体的な準備が始まった。当初は民間銀行やIT企業への委託なども検討したというが、「十分な関心が示されなかった」(中銀でPIXを担当しているブレノ・ロボ)という。

 予算は19年から20年にかけては600万レアルで、今後はメンテナンスに毎年400万レアルかかるという。中銀内の担当者は60人程度で、それ以外に外部の担当者が20人ほどかかわっている。

 中銀としては「金融包摂につながる」(カンポス・ネト総裁)のが大きな利点だ。ブラジルでは銀行の口座開設には多くの書類が必要で時間もかかる。低所得者層や非公式に就労する人を中心に銀行口座すら持っていない人も多い。

 ブラジルには全国で5500以上の自治体があるが、このうち4割強に銀行の支店はない。地元紙フォリャ・ジ・サンパウロによると、20年3月から21年8月までに2080の支店が閉鎖となり、今後も削減は加速するとの見方が主流だ。

 ネット銀行ヌーバンクは低所得者層や銀行の支店がない地域の人々を顧客として開拓し事業を拡大した。21年12月にニューヨーク証券取引所に新規株式公開(IPO)を果たした際の初値での時価総額は約520億ドルと、上場ブラジル企業で3番目の規模となった。

 PIXはそうしたネット銀行からも漏れている人々を取り込める可能性も秘めている。例えば、先に取り上げたアンドラジは銀行口座を持っていない。自身の「PIXキー」を、電子商取引大手メルカドリブレが手がける決済サービス「メルカドパゴ」の「口座」にひもづけている。銀行ほどは審査が厳格でないフィンテック企業の口座を対象にすれば、PIXを使える層は広がる。

 アンドラジはもともとはマンションの清掃員として働いていたが、新型コロナウイルスの感染が広がり始める直前に失業し、ここ2年は就業していない。道路での「収入」をおむつや牛乳といった生活必需品の購入にあてている。

 サンパウロ州サンマテウスに自宅はあり、ホームレスではないが、妻と11歳、7歳、3歳、2歳の4人の子供を抱える苦しい生活の一端は、PIXというインフラが支える可能性も大きい。

<連載ラインアップ>
■第1回 メルカドリブレ、アマゾン、エリクソン…ブラジルのEC市場はどう急成長し、ネットは貧民街をいかに変えたか?
■第2回 ブラジルで人口の約7割が利用する電子決済「PIX」は、なぜクレジットカードを超えるほどの市民権を得たのか?(本稿)
■第3回 「今後は銀行の実店舗が消える」ブラジル発のネット銀行「ヌーバンク」はいかにして南米の金融市場を変革したのか?
■第4回 SOMPO、ダイハツ、味の素…ブラジル駐在経験者が企業トップに就くケースが目立ち始めた理由とは?(1月8日公開)

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筆者:宮本 英威

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