【100歳 甲子園球場物語】大球場を生んだ阪神電鉄トップの英断 鳴尾がパンク...一大事業を推進

2024年4月23日(火)7時0分 スポーツニッポン

 甲子園球場は100歳を迎える8月1日の誕生日まで、きょう23日でちょうど100日となる。あらためて大球場建設に至った経緯と開場当日の模様を振り返ってみたい。100年の歩みを刻んだ年表も掲載する。  (編集委員・内田 雅也)

 甲陽中(現甲陽学院高)の一塁手・山野井萬(2006年、99歳で他界)は押し寄せる人波に「そりゃあ、怖かったですな」と語っていた。1923(大正12)年8月19日、第9回全国中等学校優勝野球大会(今の高校野球選手権大会)準決勝の試合中である。

 当時の会場は鳴尾球場。15(大正4)年に始まった大会は当初、豊中球場で、第3回大会から鳴尾で開かれていた。阪神電鉄が経営する鳴尾競馬場の中に2面のグラウンドを設けていた。

 野球熱は年々高まっていた。そして、事件は起きた。当日は日曜日で、地元近畿勢3校が準決勝に残り、朝から超満員だった。甲陽中—立命館中の一戦が始まって間もなく、何千人もの観衆がグラウンドになだれ込み、試合続行が不可能となった。山野井から生前「ファウルラインまで人が押し寄せていた」と聞いた。1時間半も中断し、第2試合の和歌山中—松江中を第2球場で同時進行させ、観衆の分散をはかった。

 事態を重く見た阪神電鉄は都市交通視察のため渡米中の車両課長・丸山繁に「鳴尾がパンク」と電報を打った。「球場設計図を持って帰れ」。ニューヨークで受電した丸山はポロ・グラウンドの設計図を手に帰国した。

 阪神電鉄は既に用地を手に入れていた。江戸時代から洪水を繰り返していた武庫川の支流、枝川と申川を廃川にした跡地を22(大正11)年10月、兵庫県から払い下げを受けた。買収費410万円は相当高価だが、沿線の住宅・レジャー開発に社運をかけていた。

 今の阪神・甲子園駅は道路をまたぐ形となっているが、この甲子園筋が枝川の跡である。甲子園球場周辺は当時「狐狸(こり)の里」と呼ばれた。竹やあし、松が生い茂り、人が寄りつかない場所だった。

 廃川地に大球場建設を決断したのが阪神電鉄専務・三崎省三である。当時は社長制を敷いておらず実質ナンバーワンの地位にあった。

 兵庫県黒井村(現丹波市春日町黒井)出身の三崎は19歳で自費で米国留学、電気工学を学んだ。8年間の米国暮らしで野球人気に触れた。帰国後の1899(明治32)年、阪神電鉄に入社。玉置通夫『甲子園球場物語』(文春新書)によれば、1908(明治41)年1月の日記には野球場の距離やポジションの図が描かれ<頭の中ではスタジアム建設の夢が渦巻いていたことがわかる>。

 三崎は廃川地買収後の23年春、京大から入社2年目の技師、野田誠三(後の社長、球団オーナー)に「完成したばかりのヤンキースタジアムに匹敵する大球場を建設してみたまえ」と設計を命じた。同年8月の「鳴尾がパンク」事件で建設を急ぐことになった。

 事件に出くわした甲陽中は決勝で3連覇を狙う和歌山中を下し優勝を果たした。夏休みを終えた秋、山野井は学校の洗面所で1年後輩が声をかけてきた。「今度、おやじがでっかい球場つくりまんねん」。三崎の息子だった。「そりゃあ、ええこっちゃなあ」と返事したのを覚えていた。

 球場建設は11月28日の取締役会で正式決定した。当時の名称は「枝川グラウンド」。甲子園の命名は三崎だろう。四男・悦治が書いた小説『甲子(こうし)の歳』(ジュンク堂書店)に23年元日、初詣に出向いた西宮神社で「大正十三年甲子之歳」の看板を見つけた下りがある。十干十二支のともに先頭、甲子(きのえね)の年は縁起がいいとされる。

 着工は3月11日。完成は7月31日。現在でも難しいとされる4カ月半で仕上げる突貫工事を請け負ったのは大林組だった。

 球場すぐ横の学校に通った山野井は連日、工事の模様を見ていた。「大林はようやりましたなあ。夜中でもカンテラつけてコンクリートミキサーを回しておりました」。牛にローラーを引かせ、阪神電車の架線から電気を引き、裸電球をつけて徹夜で作業した。

 竣工・開場式は8月1日。三崎は「皆さん、ただいま、アメリカのどこにも負けない立派な大運動場を持つことができました」とあいさつした。阪神沿線の小学校150校、2500人による体育大会が開かれ、花火が打ち上げられた。甲子園球場の誕生だった。

 山野井は「三崎さんの夢とロマンが詰まった英断が大球場を生んだ」と語っていた。 =敬称略=

スポーツニッポン

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