アメリカからみた幕末日本、ペリーの目的と日米修好通商条約からの日米関係

2024年1月10日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①


ペリー来航とその目的

 日本とアメリカの最初の大きな接触は、天保8年(1837)に起こったモリソン号事件であった。浦賀に来航したアメリカの商船モリソン号に対して、日本人漂流漁民の送還が目的であった。しかし、浦賀奉行所が外国船打払令に従い、砲撃を加えて退去させたのだ。

 その後、弘化3年(1846)に東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航し、通商を求めたが拒否された。幕府は外国船に対して、例外なく鎖国を祖法と強弁し、長崎回航を求めていた。ペリー以前は、どの国も軋轢を回避し指示に従って退帆していたが、ペリーは断固たる信念でこれを拒否することを決めていた。

 そもそも、ペリーはなぜ日本にやって来たのであろうか。当時のアメリカは、西部への領土的野心を露わにし、カリフォルニアの空前のゴールドラッシュもあいまって、領土が西海岸にまで達していた。さらに、アメリカでは産業革命が進展しており、特に綿製品の輸出先として、太平洋の先にある大市場の清(中国)への進出を目論んでいた。望厦条約の締結も相まって、その中継基地として、日本の港は必要不可欠であったのだ。

 また、最盛期を迎えていた捕鯨産業は、北太平洋から日本沿岸に漁場を求めており、その側面からも薪水や食料の補給が大きな課題となっていた。加えて、操業中に頻発する漂流民の安全確保も、極めて深刻な問題であった。日本は貿易対象国として、当初は重きを置かれていなかったものの、優良な漁場に位置することから、日本の存在はアメリカのみならず、世界的に注目を集めていたのだ。


日米和親条約では開国せず

 嘉永6年(1853)6月、ペリー艦隊は浦賀に入港した。長崎への回航要求をかたくなに拒み、江戸湾を北上して測量を強行するなどの示威行動を繰り返した。そのため、なす術がない幕府は、久里浜においてペリーと会見せざるを得なくなったのだ。ここで、日本側は和親と通商を求めるフィルモア大統領からの国書などを受け取った。

 しかし、この段階では一切、外交交渉はなされず、ペリーは1年後の再来を予告して、浦賀入港から9日後には出航した。これは1ヶ月以上の食料や水がなかったこと、清の政情不安から居留民の保護のため、軍艦を差し向ける必要があったことが大きな理由である。

 1年後と言い残して立ち去ったペリーは、嘉永7年1月、半年程度で早くも再来を果たした。ペリーは、日本を開国させた名誉が欲しかったのだ。そして3月3日、日米和親条約が締結された。主な内容は、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、アメリカへの最恵国待遇であった。

 開港というと、まるで開国したような印象を受けるが、日本のすべての港で物資の供給などをすることはできないので、この2港を指定したという意味である。開港というよりは、寄港を許したとする方がより正確である。

 なお、日本にとっての最大のポイントは、通商を回避して和親に止めたということである。つまり、後世の我々が開国と位置付けている日米和親条約は、当時の日本人にとって見れば、アメリカとは国交を樹立したものの、物資の供給(施し)を認めたに過ぎず、鎖国政策を順守したことに他ならない。


日米修好通商条約からの日米関係

 安政5年(1858)6月、タウンゼント・ハリス駐日領事によって、日米修好通商条約が結ばれ、通商開始に伴う外国人の居住を認め、ここに日本は文字通り、開国を余儀なくされた。主な内容は、公使(首都)・領事(開港場)の駐在、両国民の自由貿易、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、内外貨幣の同種同量通用、関税率の協定、外人居留地の設定と遊歩区域、領事裁判権、アメリカ人の信教の自由などであった。

 なお、この条約は当初、必ずしも不平等ではなかった。例えば、関税自主権について、1類(金銀、居留民の生活必需品)が無税、2類(船舶用品・食料・石炭)が5%、3類(酒類)が20%、圧倒的多数を占めた4類(その他)は20%であった。つまり、通商条約の調印時の輸入税は、おおむね20%と考えることができるのだ。実際に不平等になるのは、一律5%に改められた改税約書(1866)からであった。


アメリカの日本外交からの脱落

 ところで、ハリスをはじめ、アメリカ外交官はおおむね日本に好意的であった。他の列強と日本の間に入り、調停役を買って出てくれており、幕府の信頼も厚かった。しかし、アメリカは南北戦争(1861〜5)によって、アジア外交から脱落する。

 これ以降、日本外交はイギリスの独壇場と化した。また、南北戦争が終わって行き場を失った武器が大量に日本に流入したことも、見逃すことができない事実である。これが、戊辰戦争で使用されることになったのだ。

 次回は、アメリカに代わって主役となったイギリスと日本の関係について、詳しく見ていきたい。

筆者:町田 明広

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