アイデンティティとジェネリック

2024年1月15日(月)16時0分 ソトコト


「古き」を考える稽古と型


これまでの人生で、空手や書道や茶道などの習い事をしてきました。習い事を習得するために稽古が行われます。稽古とは古きを稽(考)えること。現在では「型」を繰り返すことが上達するための稽古であると考えられています。こうした芸事を多くの一般庶民がたしなむようになったのは江戸時代中期のこと。社会が安定し、経済的にもゆとりができた時期に都市部に暮らす人たちを中心にそのような需要が生まれました。習う側からは身につける芸を保証する基準として型が求められ、教える側はそのことで権威を強化することができました。例えば茶道は大名や有力商人など特権的な人々が行うものだったものを、江戸千家をつくった川上不白などが町人にまで裾野を広げています。  


日本の芸能のなかで型について考えられた源流とされるのは世阿弥の『風姿花伝』(以下、『花伝書』)です。そこでは大工仕事などで使われる枠組みを表す「形木」という言葉が使われ、後にそれが型であると解釈されるようになります。


伝承者に直接教えることができるのならば、そこに型は必要ありません。しかし、その芸能が発展して関わる人数が増えていけば、直接教えることには限界が訪れます。型をつくることは、芸を形骸化する危険性を孕みますが、逆の見方をしてみれば、「一部の者が独占していた芸が、多くの人々に開かれ、一般化する契機ともなった」と考えることができます。世阿弥が後の世の後継者に芸の真髄を伝えなければならないと考え、『花伝書』を書き残したのも、社会の移ろいの中に芸の伝承の困難を予見してのことなのかもしれません。そして後継者たちは、形骸化した型から抜け落ちた本質を復元するために、繰り返し稽古を行い、先人たちが所作や考えに残した芸の本質を自らに内在させようと努力してきたのでしょう。


しかし、芸が広く浸透していくことで、芸が薄まり、優秀な者は増えるけれど突出した個が現れにくくなるとも感じます。現在ではIT技術の発展によって、オンライン動画を通してさまざまな習い事を学ぶこともできるし、自らが動画の出演する側になることも容易で、それらの内容は似たり寄ったりです。


ありふれた私と差異と類似性


こうした極度に一般化、大衆化した文化を「ジェネリック」と呼び、それを都市論に落とし込み論じたのが、オランダの建築家のレム・コールハースでした。建築に携わる人の必読書ともされる著書『S,M,L,XL』のなかで、どこも似たり寄ったりになりつつある、ありふれた都市の姿を「ジェネリック・シティ」と表現しました。コールハースはジェネリックな都市は空港と同じだと述べます。ジェネリックな都市において空港は際立って個性的であり、超ローカルと超グローバルの濃縮ミックスで、そこでは平均的な人間が一つの街で体験しそうなすべてが可能でなくてはならず、同時に、壁の写真や植物や民族衣装が地元のアイデンティティとして現れるとします。ジェネリックな都市は中心の束縛、アイデンティティの拘束から解放された都市であり、そこでは常に薄っぺらい新しいアイデンティティがつくり出されているとします。たしかに自分がここ数年で訪れた東京も仙台も福岡も、韓国のソウルも台湾の台北もタイのバンコクも、変わり映えのしない街になりつつあるように思えました。  


1990年代半ばに執筆されたコールハースのこの論考は、未来を予見した“卓見の書”であったと思います。しかし、世界がどれだけジェネリックになっても、「人間はアイデンティティから自由になんてなれないのではないか」と自分は考えています。2001年にニューヨークで起きた「9.11同時多発テロ」はジェネリックへ向かう社会に対する強烈なカウンターでした。


アイデンティティは私たち自身の存在を語る物語であり、私たちを母のように優しく包み込みます。しかし私たちを幸福で満たしてくれた物語は、いつしか物語を成立させるために私たち自身に犠牲を払うことを要求してきます。人は理由さえあれば勇敢にも、残虐にもなることができます。物語はその理由を私たちに与えてくれるのです。物語はまず共同体の中で語り継がれる神話として現れ、やがて政治的な意図によって編集されます。時代ごとに影響を受け、変化しながら近代に入ってからはイデオロギーや科学や経済に姿を変え、私たちに近づきます。他者との差異がなくなればなくなるほど、人は不安に苛まれ、私とは“何者”なのかを探してしまうものです。  


コールハースはまた、均質化する都市が「差異を離れて類似性へと向かうよう意図された行程」だとしたら? と疑問を投げかけてもいます。アイデンティティの差異によって争いの絶えない世界を見ていると悲観的になることもあります。しかし自分は私たちの差異よりも類似性を見つけ出す仕事をしたいと望んでいます。それには私たちのアイデンティティを過去に遡り、深く掘り下げていく必要があるのだと考えています。稽古に励まなければなりません。



文・題字・絵 坂本大三郎


さかもと・だいざぶろう●山を拠点に執筆や創作を行う。「山形ビエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」「リボーンアートフェス」等に参加する。山形県の西川町でショップ『十三時』を運営。著書に『山伏と僕』、『山の神々』等がある。


記事は雑誌ソトコト2024年2月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

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