赤と黒の天狗が家を訪れ、邪気を祓う。福岡県・大木町の“鍛治屋の天狗まわし”から見えてくる「ローカルの課題」

2023年2月4日(土)11時0分 ソトコト

「今度の11日は、また私たちの番やけん、見に来(こ)んですか」
そう、家中誠治さんに声をかけられた。
誠治さんが黒天狗を務めた「鍛治屋の天狗まわし」の写真を撮ったのは今からちょうど10年前。確実にあの時の天狗たちも、そして私自身も10歳年をとっている。本来、若者が天狗になって家々を回る祭りが、その時点ですでに多少“高齢化”していた。それよりも何よりも、このコロナ禍で祭りそのものがちゃんと続けられているのだろうか。
天狗まわしの現在が気になり、さらには天狗が回ってくるのを断る家も出てきていると聞いていたから、その後の変化も確かめたく、今回同行することにした。





「どっちが左やったかいね、憶えんねえ」と祭壇両脇に立てかけられた天狗たちを見て、宮総代が振り向いてたずねる。赤い天狗は「猿田彦」で黒い天狗は「天宇受売尊(あめのうずめのみこと)」のはずだから左に立つのは……などと口出しはせずに、私は黙って成り行きを見守った。
「天狗まわし」とは「よど祭り(※1)」の一環として行なわれる神事で、赤天狗と黒天狗が露払いを先頭にむら(※2)の家々をまわり、「わ〜ぁ〜ぁ〜っ」と声をあげながら玄関から上がり込み、部屋中をお祓いして回り、最後に住人の頭上に天狗面をかざしてお祓いするものだ。天狗も、もちろんそれを持つ者も、この時は「神様」とされる。
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※1 「よど」は「夜都」とも「夜渡」とも書き、「夜通し」がなまったものだとも言われるが定説は不明。福岡県大木町のある地方でだいたい9月に行なわれる祭りのことです。
※2ここでいう「むら」とは、およそ大字(おおあざ)あるいは小字(こあざ)の集落単位で、なかにはもっと小さい「あざな」や「ほのけ」と呼ばれる集落もありますが、便宜的に祭り行事でまとまりのある集落のことを指しています。











けれども、神事だからといって決して神妙な面持ちなどではなく、お祓いをする天狗持ちもお祓いを受ける住人たちも、笑いながら、じつにフランクな雰囲気なのが意外だった。お汐井桶(※3)を持った一人が、笹で聖水を撒き清めながら先頭を歩いていく。そして家の前に来ると「ここは玄関前で」とか「ここは仏間まで」と赤天狗と黒天狗に指示をしている。さしずめディレクター役といったところか。プライバシーの侵害になるからと、回る家もお祓いをする部屋も事前の申し出に従って、お祓いは慎重にとりおこなわれた。
とはいえ、家々で出されるお酒をほとめくうちに(もてなされるうちに)、赤天狗の持ち手である家中博行さんは、赤天狗と同じくらい赤ら顔になっていた。これは10年前と変わりない光景だ。
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※3本来は清めの海水を聖水として振りまきその場を清めるが、大木町では海から遠いため、お祓いを受けた水を用いて清めています。








そう、その10年前に、数軒の撮影を終えてその場を後にして自転車をこいで帰っていると、「わ〜ぁ〜ぁ〜っ」という天狗たちの声がどこか離れた家から聞こえてきた。きっとその家の中では、天狗さんも住人も笑顔なのだろうな、きょう一日そんな笑顔がこのむらのなかに“充満”するのだろうな。ということは、少なくともこの日一日、むらの人々の笑顔が村の免疫力を増す。なるほど、これが悪霊退散のメカニズムなのだなと、あのとき気づかされた。
10年ぶりに目にした「天狗まわし」は、確かにあのときお祓いを受ける家が40軒だったものが11軒に少なくはなっていた。けれども、天狗が訪れた家々で見る笑顔も、“赤天狗”になっていく博行さんも10年前と変わりがなかった。
この町には、大小50数カ所の神社がある。そのなかで、むらの中心として祭りを行なうお宮は30数カ所。もっとも、祭りとはいっても、宮総代をはじめとする地区の役員さんたちがお宮の本殿に集まり、神官がお祓いをするくらいで、神輿が練り歩いたり祭り装束をつけた氏子たちが踊ったりといった、見物客やカメラマニアが集まってくるような“派手な”演出を伴った芸能的要素のある祭りはほとんどない。あくまでも、自分たちと神様とだけの神事がメインなのだ。
だから、何らかの“シカケ”を伴っているここ鍛治屋の「天狗回し」は珍しい。とはいえ、町内の神社の本殿には同じように赤天狗と黒天狗が立てかけてあるのをよく目にするので、昔は、町内のあちこちで「天狗回し」がおこなわれていたと推測できる。現に天狗回しと同じように、赤獅子と黒獅子が各家々に上がり込んでお祓いして回る「獅子舞い」も同様。神殿に獅子頭があるところは、かつて村むらでお祓いの神事を行なっていたのだろう。
「子ども達がおらんくなったらワシらが代わりをせなならんなぁ」と言うおっちゃんも70代なかば。2014年、大木町の筏溝地区で今なお行なわれている「獅子ごま」の写真を撮っているときに耳にした言葉だ。ことほど左様に、町全体の高齢化に伴って、祭りの存続が危ぶまれている。いや、高齢化に加えてこのたびのコロナ禍が文字通り「禍(わざわい)」になっているように感じる。








祭りのなかでも、神楽や舞いなど何らかの芸能的要素をもった祭りはそうした芸能を引き継いでいく「保存会」などが存在することが多い。そのため、コロナで中止されたとしても、カタチは残っていく。しかし、天狗や獅子のような祭りの言わばシンボルが存在する祭りとは異なり、この町の多くの祭りがそうであるように、神事だけの祭りは、そうした“よりどころ”がないだけに存続が難しくなっている。
「コロナで何でんでけんくなる(何でもできなくなる)。やっぱい、続けないかん」「回られんごとなったら、寂しゅうなるばい」
天狗まわしのお祓いが終わったあと、誰かがポツリとつぶやいた。








秋から冬にむけて町内各地のお宮ではさまざまな祭りが行なわれる。これらの祭りをあらためて見直して、祭りとは何か、その存続の要件は何なのか、いま一度考えてみようと思う。
蛇足ながら、こうしてむらの家々を回り、家の隅々まで上がり込んで若い男性がお祓いをするというのは、かつての農村では一般的に行なわれていた「夜ばい」の下見を兼ねていたのではないかと“下種の勘繰り”をしてみた。そのことを鍛治屋のおっちゃんにたずねてみると「天狗は神様やけん、そげなことはない」と一蹴されたのだった。

ソトコト

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