大河ドラマ『篤姫』から注目された小松帯刀こそ、明治維新の真の立役者だった

2024年2月7日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


小松帯刀のイメージ——極端な知名度の低さからの脱却

 読者の皆さんは、小松帯刀をご存じであろうか。小松と言えば、大河ドラマ『篤姫』(2008年)によって初めてクローズアップされた人物ではなかろうか。しかし、実像とはかけ離れた描写による、優柔不断な平和主義者的なイメージが定着した感が否めない。また、『西郷どん』(2018年)で再浮上したものの、消化不良な描かれ方に終始したと感じている。

 小松について、これまでどのような文献類が存在したのだろうか。瀬野冨吉『幻の宰相 小松帯刀伝』(改訂復刻版、宮帯出版社、2008年)、高村直助『小松帯刀(人物叢書)』(吉川弘文館、2012年)をあげることが出来る。つまり、意外と最近の相次ぐ刊行によって、実像への接近が計られているのだ。なお、桐野作人「曙の獅子」(南日本新聞、2018〜9年)といった連載小説なども登場している。

 筆者は、小松帯刀を極めて高く評価している。小松なくして、西郷隆盛・大久保利通は存在せず、島津久光の活躍も不可能であると確信するからだ。文久・元治・慶応期の中央政局におけるキーパーソン的存在こそ、小松帯刀である。個人的には、「維新の三傑」(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)から「維新の双璧」(小松帯刀・木戸)への変更を提唱したいと、常々考えている。

 小松の早世(明治3年、1870)により、新政府には外交のスペシャリスト、閣内調整役が不在となった。条約改正の長期化、明治6年政変や西南戦争が惹起したのは、小松不在が遠因ではなかったのか。今回は、幕末維新期の真のキーマンである小松帯刀の生涯を6回にわたって紐解いてみたい。


小松の生い立ちと島津斉彬の登場

 天保6(1835)年10月14日、父は喜入領主・肝付兼善、母は島津久貫の娘の第3子として生まれた。通称は尚五郎、帯刀、諱は清廉、官位は従四位玄蕃頭である。島津久光は18歳、西郷隆盛は8歳、大久保利通は3歳年上であり、松平容保、有栖川宮熾仁親王、松方正義、五代友厚、篤姫、坂本龍馬、土方歳三、岩崎弥太郎、福沢諭吉、前島密は同年生まれである。

 横山安容(造士館助教授・漢学者)から儒学を、八田知紀(幕末・明治の歌人)から歌道を、それぞれ学修した。幼少時から示現流を学び始め、少年時から演武館で修練した。しかし、幼年期から病弱なため、剣の道からは遠ざかり、母の勧めで年に数回は湯治に出かけていた。10代後半には、周りから諌められるまで薩摩琵琶に没頭しており、独行を好み、名士と親交していたのだ。

 嘉永4年(1851)、次期藩主の座をめぐって、斉彬派と久光派が争ったお由良騒動が勃発した。斉彬擁立を支持していた老中阿部正弘の介入を受けて、第10代藩主島津斉興が失脚し、世子斉彬が第11代薩摩藩主に就任した。斉彬は、わずか7年半の間に驚異的な藩政改革を実行し、薩摩藩の富国強兵に尽力した。

 例えば、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を展開し、かつ積極的な人材登用を行い、短期間で薩摩藩を最強の先進技術・軍事大国化することに成功したのだ。 


斉彬による抜擢と小松帯刀の誕生

 安政元年(1854)3月、斉彬は2度目の参勤交代で江戸に向かった。安政2年(1855)1月15日、小松は奥小姓・近習番を拝命して江戸詰を命じられ、5月18日、兵具方足軽・家来・下人とともに鹿児島を出発した。6月28日、小松は江戸芝藩邸に到着した(「肝付尚五郎日記」『小松帯刀日記(鹿児島県史料集22集)』参照)。ほどなくして、斉彬より吉利領主小松清猷(きよもと)の養子とすることを下命されたのだ。

 斉彬は将来、小松を抜擢することを考えており、その布石と考えられる。この命を受けた小松は、わずか2カ月余りで江戸滞在を切り上げ、9月3日に江戸を出発し、10月8日には鹿児島に到着した。そして、安政3年(1856)1月27日、清猷の後を継いで小松家を相続した。この時、小松は22歳であり、清猷の妹で29歳となった千賀(近)と結婚した。なお、安政5年(1858)3月1日、帯刀清簾と改名している。


帯刀が養子となった小松家とは?

 ここで、小松家について触れておこう。平清盛の嫡男である平重盛は、六波羅小松第を居所としていたため、小松殿ないし小松内大臣と呼ばれていた。その重盛の孫高清の子清重が大隅国大隅郡禰寝(ねじめ)院に下向して、禰寝氏を呼称し始めたのだ。

 戦国末期、島津氏に臣従して豊臣秀吉による島津征伐後の文禄4年(1595)に薩摩国日置郡吉利郷(現日置市日吉町)に移封された。家老を務めた小松家24代清香の代の宝暦元年(1761)、小松と改姓している。小松帯刀は、29代で3人目の家老であった。

 義父である28代清猷について、文政10年(1827)に生まれ、斉彬によって文武に優れた英邁さを愛され、嘉永5年(1862)に小姓組番頭に、そして、翌6年(1853)に琉球守衛の御軍役総頭取に抜擢された。安政2年4月、琉球国守衛として赴任後、わずか2カ月弱の6月に現地で急死したのだ。まだ、29歳の若さだった。

 次回は、文久期(1861〜4)の激動期、藩の最高権力者である島津久光を補佐しながら、国事周旋を繰り広げ、また、生麦事件・薩英戦争という薩摩藩にとって最大の国難を乗り切り、久光の朝政参与を実現した小松帯刀の活躍を追ってみよう。

筆者:町田 明広

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