名城でなくても一度は行きたい唐津城の魅力「模擬」でも美しい天守は必見

2024年2月9日(金)6時0分 JBpress

(歴史ライター:西股 総生)


史実に基づかない「模擬天守」

 日本全国の城に建っている天守のうち、昔ながらの現存天守は12棟だけ。それ以外は、何らかの形で「再建」された天守で、たいがいはコンクリート製だ。これら「再建」組のうち、史実に基づかないものは模擬天守と呼ばれている。

 今回紹介する唐津城の場合は、もともと天守がなかったところに、戦後になってコンクリート製で建てたものなので、模擬天守である。だから、この天守に歴史的価値はない。ないのだけれど唐津城の天守は、模擬天守の中では全国でもピカイチに美しい姿をしていて、一見の価値がある。

 唐津城を築いたのは、寺沢広高という豊臣秀吉子飼いの武将だ。広高は、朝鮮出兵に際しては兵站の差配を担って唐津一帯を与えられたが、関ヶ原合戦では東軍に属して加増され、唐津・肥後天草で12万石を領した。

 1602年(慶長7)から唐津城の築城に着手した広高は、城下の整備や領内の産業振興に努めた反面、領民からは年貢を厳しく取り立てた。天草領における苛斂誅求は、のちに島原の乱の引き金となったほどである。

 結局、広高の跡を継いだ堅高は、島原の乱ののち自害して寺沢家は断絶してしまい、その後は譜代の諸家が8〜6万石で封じられた。天保の改革で知られる水野忠邦は、唐津藩主から老中となった人である。

 さて、寺沢広高の築いた唐津城は、玄界灘に向かって突き出した丘の上に本丸を置き、山麓の平地に二ノ丸以下を展開させる、典型的な平山城である。ただ、12万石の城にしては少々ボリューム不足の感があり、正直、名城堅城とは評しがたい。

 天草領の支配にも注力せざるをえなかった広高としては、唐津城ばかりにコストや人手をかけるわけにはいかなかったのだろう。経歴を見ると、彼はかなりな現実主義者のようだから、当座の実用に耐える城をサクッと築こう、という考え方だったのかもしれない。

 だから、縄張がすごく巧緻というわけではないし、石垣がさほど壮大なわけでもない。とはいえ、カッチリと築かれた石垣は慶長期の技法をよく伝えていて、やはり一見の価値があるのだ。

 見落としたくないのが、城の裏手の海側に築かれた石垣である。塁線にガキガキと折れを加えているのは、玄界灘の荒波に耐える強度をもたせつつ、海からの接岸攻撃に備えるためだろう。サクッと築きながらも、本当に必要な箇所は手を抜いていないのだ。

 また、この城は二ノ曲輪以下、平地部分の石垣が断続的に残っていて、たどって歩くと全体の広さがわかる。これは、案外貴重な例だ。市役所やバスセンターのあるあたりが三ノ丸の大手口で、その南側につづく外曲輪は唐津駅のところまで広がっていた。

 そうしてみると結構な広さで、城の中心部だけ豪壮に造るより、三ノ丸や外曲輪まで含めた全体で防禦力をかせごう、という算段のようだ。やはり、現実主義者の城なのである。

 それに、唐津は城下町を散策するのが楽しい。コンパクトで歩きやすい街だから、おいしい和菓子を探したり、唐津焼のお店をのぞいたりしていると、時のたつのを忘れる。

 筆者はこんなとき、できるだけ事前に情報を仕入れずに、自分の勘を頼りに歩く。城下町のような歴史的街並みは、時間軸に沿って流れている広がりのある空間だからだ。事前に情報ばかり仕入れてしまうと、点と点を結びながら情報を確認してゆくような歩き方になって、「広がりのある空間」を感じられなくなってしまう。

 ちなみに筆者の場合は、居酒屋でいただいたイカが、忘れられないくらい美味しかったことをご報告しておこう。

[参考図書] 日本の城の基礎知識を身につけたい人、はじめて城を歩く人に読んでほしい、西股総生著『1からわかる日本の城』(JBprees)好評発売中!

筆者:西股 総生

JBpress

「名城」をもっと詳しく

「名城」のニュース

「名城」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ