95歳の頑固な父を、67歳の娘が老々介護。免許の更新を諦めついに施設へ。「ここはいい所だ」父の言葉に救われて

2024年3月7日(木)12時30分 婦人公論.jp


撮影◎本社 奥西義和 以下すべて

作家の森久美子さんによる『婦人公論.jp』の人気連載「オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく」が1冊の本となった。誇り高く頑固な認知症の父親を前期高齢者の長女が1人介護する悲喜こもごもがつづられている。認知症を疑うもどうしたらいいのか、元気の証と信じている運転をあきらめてもらうには——。悩みや戸惑い、怒りが率直に記されているけれど、心豊かな人生を全うさせたいという愛情があふれている。自らの老後にも思いをはせる老々介護の日々を振り返り今、伝えたいことは?
(構成◎山田道子 撮影◎本社 奥西義和)

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一層「俺様」になってしまった


ーー森さんは父を「パパ」と呼んでいる。昭和1桁生まれで、戦後流入したアメリカ文化に憧れていたようだ。広告代理店に勤めていたのでトレンディなことに飛びつく傾向がある“モダン”男性。プライドも高い。54歳の時に妻を急病で亡くして以来、男やもめでたくましく元気に暮らしてきた。スポーツクラブに車で通い「スーパーマン」を自認する父。米寿を過ぎたころから、なんだかおかしいと感じるようになった。

本のタイトルの「壊れていく」は、私の感じからすると「変化」ではなくて「変容」です。食べ物の好みが変化したとは言いますが、変容したとは言いません。トータルに様子全体が変わったのです。

まず何より、プライドがさらに高くなりました。父はとても有名な会社でバリバリ仕事をし、現在に残る業績をあげてきたことを誇りにしています。言葉を変えると、一層「俺様」になってしまった。例えば、「あいつらは小さな会社にいたからな」とか差別的な物言いが激しくなってきたのです。

私は聞き捨てならなくて「パパ、そういう考えは失礼だよ」と諭したりしました。でも、人に対する思いやりのなさが増えてきた。元々、父は他人に対するやさしさを持っていただけに、人が変わってしまったように感じてきたのです。

地域包括支援センターの存在


ーー著者は毎日、食事や家事のために父の家に通っていた。日々の暮らしや会話の中で、認知症ではないかとの疑いが募っていく。テレビショッピングの番組で紹介されたものをすぐ注文してしまう。1ヵ月分処方された睡眠導入剤を半月もしないうちに飲んでしまった……。ただの老化現象ではないのでは? 試行錯誤のなか、動き始めた。

父に睡眠導入剤を処方してくれる先生に聞いたら、認知症系の病院には行く必要はないとの判断でした。埒があかないので駆け込んだのが、地元・札幌市の区役所の健康保険の窓口。

「父の感じが変わってきたのだけれど、どこに相談したらいいか分かりません。教えて下さい」と尋ねたら、「地域包括支援センターで相談して下さい」とのこと。地域包括支援センターは、介護・医療・保健・福祉などの側面から高齢者を支える「総合相談窓口」です。

父に同行を求めたら断られたので1人で行きました。そして「父が今認知症かどうかは分からないけれど、今後本格的になってくる可能性がかなり高いので、誠に勝手ではありますがカルテのようなものを作って下さい」と頼みました。

私の中にはこの程度で相談していいのかという気持ちはありましたが、家族関係などまでいろいろ聞いてもらいすっきりしました。介護保険がつくかどうか様子をみましょうとセンターの人が言ってくれたものの、父はそれも断固拒否でした。


私の場合、区役所に行って地域包括支援センターの存在を知りました。知らない人も多いかもしれないので今、みんなに一生懸命教えています。いざという時に備えて全く必要性のない時から、地域包括支援センターを含め地元自治体の介護や医療などのサービス体制について情報収集をしておくことをお勧めします。

自宅の車庫入れで事故を起こした


ーー森さんの最大の懸案は父の運転問題。免許証は老いてからの父のプライドの拠り所だった。2021年、コロナのワクチン接種に行った時、受付で身分証明書の提示を求められると、父は嬉々として運転免許証を取り出し得意げに話した。 
「93歳になりますけど、まだ車を運転しています。無事故無違反で、ゴールド免許なんです」
困惑する受付の人の表情に森さんは「まだ返納させないのか」と責められているように感じた。父は高齢者が自動車事故を起こすニュースを見ても、人ごととして受け止めていた。が、ついに恐れていた事故を起こした。

父が運転免許証を取得したのは1958(昭和33)年。2、3年のうちにマイカーを購入できたのがステータス、「男の勲章」となっていたのではないでしょうか。

スポーツクラブは自動車でないと行けないところにありました。健康維持のためと容認してはいましたが、事故を起こす前に運転を止めさせなければならないと常に考えていました。免許証の返納を何度頼んでも父は同意してくれませんでした。

2021年末、自宅の車庫入れで車を大破させる事故を起こしました。アクセルとブレーキを踏み間違えて車庫と車を破損し、ギアを入れ替え向かいの家に突っ込んだのです。

父は胸を打撲し救急車で病院に運ばれました。「車は廃車。これで運転は終わり」と、私は父に通告しました。ところが、父は事故を起こしたこと、救急車で運ばれたことを「覚えていない」と言うのです。

認知機能検査のレベルが低すぎる


車は廃車になりました。でも、運転免許証は残っているのです。翌年は3年に1度の免許更新年。「認知機能検査及び高齢者講習」のハガキが届きました。父は家族に内緒で検査に行き、パスし、3時間の講習を受けてしまった。

誕生日の1ヵ月前、「運転免許更新連絡書」が届き「更新会場に車で送ってくれ」というので、「乗せていかない」「娘としては運転させられない」と断言しました。

父の更新に対する執着は続きましたが、その後、熱中症になって運ばれた病院の待合室で、高齢者の自動車事故のニュースを見て言いました。「こういう事故を起こしたら、大変だよな」と。私が「パパも免許証はもういらないんじゃない?」と言うとやっとあきらめてくれました。

今親の運転問題で悩んでる方に言えるとしたら…。免許証の返納は本人にその意思がないとできません。だから、「流せばいい」のではないでしょうか。流すというのは更新しないこと。認知症の程度によりますが、免許証更新に関する郵便物を管理するなどして更新できないようにするのも1つの方法ではないでしょうか。

免許の更新で気づいたのは、認知機能検査のレベルが低すぎること。父は事故まで起こしたのに、クイズ形式には強いので認知機能検査に受かってしまった。運転する身体能力や脳の機能に特化した検査が必要ではないかと痛感しました。免許更新については制度を変える必要があると思います。

また、運転をさせないというのは、本人が自分で運転してやっていたことを誰かが代わりにしなければならないということでもあります。これは覚悟、準備が必要です。

病気なのだから変えられない


ーー認知症の疑いがあるので物忘れ外来やメモリークリニックに連れて行きたいけれど、本人に持ちかけると拒む。連れて行く家族の側も、まだ認知症ではないのではという気持ちを捨てきれない。悩んでいる人は多いのではないだろうか。

車を大破させる事故を起こした数日後、父は寝室で倒れ、救急車で病院に運ばれました。異常はありませんでしたが、血圧が急に上がったのが原因のようです。そこで、内科に連れていく機会に認知症の検査も受けさせたい、と考えました。

地域包括支援センターの人に相談すると、内科と神経内科があるクリニックを紹介してくれました。クリニックで、MRIによる頭部撮影と長谷川式認知症スケールの結果を総合して、認知症と正式に診断されました。

親をどうやって認知症専門の病院に連れていくかで困っている方がおられます。私の場合、「睡眠導入剤をもらいに行く」を理由にしました。「物忘れ」を全面に出した病院でないこともよかったのかもしれません。

介護保険の認定にもかかわるので、機会を逃さず早く診断を受けてもらうことです。父の介護保険の認定は要支援1だったのが、認知症と診断された後、要介護1となりました。

「認知症」と専門医に言われて、私は気が楽になりました。それまで自分本位の父と喧嘩をしたり、父の言動に傷つけられたりして、優しくモダンな“パパ”に戻ってほしいと願っていました。でも、病気なのだから変えられない。「合った対応をしよう」と考えればよいのではと、ある種希望を持つことができたのです。

最低限何を守ってあげたいかを考えておく


ーー父が認知症と診断され、森さんの介護は変わったという。許すことができるようになった。介護ではトイレ問題に最も心を砕いた。

「褒める介護」を心がけるようになりました。かかりつけのお医者さまには「森さんが手をかけすぎたから依存するようになった」と言われました。だから、「人に必要とされているということを1つでも残してあげよう」と。

例えば、父はお米をたくのが得意。冷たい水で研いで氷を1つ入れるのがコツと自慢していました。私がお米を2合持っていき「研ぐのと、氷を入れるのはパパがやって」とか、「今私は料理をしていて手が濡れているので、明日買ってくるものをメモして」とか。

そして、「ご飯たいてくれたの、偉いね」などと褒める。「誰かの役に立っている」という感覚を持ってもらうことを大事にしました。

自分が心してやってよかったなと今思うのは、トイレの自立です。父が少しでも尊厳を守って生活するためには、トイレの自立が最重要。父は認知症になる前から「ちびらない」と自慢し、「おむつをするようになったら施設に入る」と言っていました。脚のリハビリを頑張ったのも、トイレに自分で行きたいからでした。

私は祖母の介護の経験もあります。その時はおむつかえがとても大変で、体の小さい祖母でさえ、私の体はダメージを受けたので、父がおむつになったら介護は難しいと考えていました。「おむつを替えたくないので施設に入って」と言うのも嫌でした。トイレはできるだけ見守って促してあげるほうが、介護する方も楽です。

その過程で、私自身が高齢になった時に何を自立していたいかを見つめました。結論は3つ。「トイレに歩いて行く」「自分が好きなものを食べる」「自分で歯を磨く」です。介護をする時、自らの老後を思い浮かべ、最低限何を守ってあげたいかを考えておくことも大切ではないかと思います。

絶対失いたくないものはやめないでほしい


ーー『オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく』を読んでいて、印象的なのは森さんが仕事と介護を両立させるべく奮闘している様子だ。小説やエッセイの執筆以外にもいくつかの公的機関の委員を務め、講演やラジオ出演もあり、大学院にも通っていた。睡眠時間を削って両立させた。父が自動車事故を起こした時は東京に出張中。以降の仕事をキャンセルして飛んで帰った。出張の時は父のカレンダーに〇をつけ、行き先を書いた。

私は出張に行けるチャンスがあると、仕事という大義名分で介護を離れられて一息つくことができました。それだけではありません。仕事は自分が生きる支えです。

だから、これから介護に携わる人に訴えたいのは、仕事でもいいし趣味でもいい、自分が絶対失いたくないものはやめないでほしい、ということです。


『婦人公論.jp』 の連載をまとめた『オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく』が、2月21日に刊行された。電子版とAmazonPODのほか、北海道内の紀伊國屋書店でペーパーバック版として発売中

2022年の統計では介護離職は10万人を超えたそうですが、とにかく仕事は辞めないで。

自分の時間を作るのは決して悪いことではなく、大切なことです。それがあってこそ
介護する相手に優しく接することができるのです。

いつも誰かが見ていてくれる


ーー自動車を運転しなくなった後、父はめっきり弱ってしまった。家を訪ねてもベッドから起きてこない。用意しておいた食事をとっていない。目力がない。急激に痩せてきた。病院に連れて行っても入院は断固拒否。結局、歌手と名字が同じことから父が「まりあちゃん」と呼ぶお気に入りのケアマネージャーの勧めで、やっと入院を受け入れた。「病院は、いつも誰かみてくれているのがいいな……」と父。「ごめんね」と森さんは心の中で謝った。現在、父は施設に移り安寧な日々を過ごしている。

入院してまずよかったのは、父から「ここはいいところだ。御飯もおいしいし」と連絡が来ることでした。初めて救われた気がしました。私は長女体質で「自分が責任を持って全部やらなければならない」と気負ってやってきました。

今、思い返すと、毎日夕方私が行くまで、父は飲まず食わず。誰もいない時に体調が悪化し、1人で知らないうちに死んでいたら…という恐怖と向き合っていたのでしょう。

現在入っている老人ホームでも「いつも誰かが見ていてくれる」という安心感があるようです。そして今、自分は1番死なないと思っているのではないでしょうか。

罪の意識を感じないで


そんな父が最近、落ち込んでいます。1番よく電話をくれていた元の職場の友人が亡くなったからです。長生きすると思い出を共有する人がいなくなってしまうのです。

施設などを見学していて気づいたのは男性と女性の違い。女性はママ友をつくったり、地域の行事に参加したりで人間関係が広い。だから、知らない人にも積極的に接し、人間関係を作るのが上手いように感じました。

一方、男性は仕事一筋だった人が多い。父もそうですが退職すると元の職場の人間ぐらいしか話し相手がいない。男性は働いている時から、職場以外で友達を作っておくことが、豊かな老後のために大切だと思います。

家族が家で介護するほうが病院や施設に入れるより、介護される側は幸せだと私も父も思い込んでいましたが、そうではありませんでした。介護の負担に苦しんでいる方々に、病院や施設に入れることに罪の意識を感じないで、と伝えたいです。

婦人公論.jp

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