小説家夫婦の馴れ初めとは?「結婚したら小説が書けなくなる」とプロポーズをいなす津村節子に、何度も口説き続けた吉村昭

2024年3月8日(金)12時30分 婦人公論.jp


菊池寛賞を受賞した吉村昭(左)と、『玩具』で芥川賞を受賞した津村節子(右)夫妻(写真提供:新潮社)

『星への旅』で太宰治賞を、『戦艦武蔵』や『関東大震災』で菊池寛賞を受賞した吉村昭と、『玩具』で芥川賞を受賞した津村節子。小説家夫婦である2人は、どのようにして結ばれて人生を共に歩んだのか、そして吉村を見送った後の津村の思いとは。今回は、2人の馴れ初めをご紹介します。

* * * * * * *

吉村昭の人柄


吉村昭といえば、手堅く厳格なイメージがある。

同じ昭和2年生まれで親交のあった城山三郎は、2006年(平成18年)、吉村の訃報を伝える新聞で、

〈欠点がない人でした。まじめで、きちんと約束を守る。(略)人の悪口も言わず、愚痴をこぼさない。〉(朝日新聞 平成18年8月2日朝刊)

と追悼した。丹羽文雄(にわふみお)が主宰する同人雑誌「文学者」の仲間だった文芸評論家の大河内昭爾(おおこうちしょうじ)は、

〈吉村さんはストイックな人ですし、照れ性でしたね。〉(「小説新潮」平成19年4月号)と言い、同じく「文学者」出身の評論家・秋山駿も、次のように記す。

〈いつも温和な笑顔で優しく話しかけてくれるこの人は、実は、こわい人ではあるまいか。自分で自分の心に誓ったことだけは必ず断行する。あるいは強行する。そういう勁さを生きる人だ。しかも、その勁さを秘めて、温和な風情を見せている。〉(「群像」平成18年10月号)

ベタ惚れした津村と結婚


さらに吉村が世に出る前から編集者としてつき合いのあった文芸評論家の大村彦次郎は、「吉村さんのけじめのつけかたのきびしさに、思わず驚いたほどでした」と弔辞で述べた。

菊池寛賞を受賞した代表作『戦艦武蔵』や『関東大震災』などの一連のドキュメント作品、読売文学賞と芸術選奨文部大臣賞を受賞した『破獄』といった小説や、記録文学の大家としての業績の印象もあるかもしれない。

もちろんそういう一面は確かにあるだろう。

だが私生活となると、イメージはくつがえされる。

吉村が津村にベタ惚れで結婚したというのは事実のようだ。昭和ひと桁生まれの日本男児にもかかわらず、

〈「アバタもエクボ」式のほとんどベタ惚れの域〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)と自身の筆でも書いている。

精神科医の斎藤茂太と評論家の渋沢秀雄との鼎談では、次のように語っている。

〈私の場合はよく冷静だと人にいわれるんですけど、決して冷静じゃなくて、私は女房に惚れ過ぎるぐらい惚れちゃっていっしょになりました。(笑)〉(「素敵な女性」昭和54年12月号)

それに対して斎藤に、作品同様、女性の問題でも非常に慎重だとにらんでいますと言われている。


『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(著:谷口桂子/新潮社)

思い込んだら一直線の吉村


一方の、ベタ惚れされた津村の側に立つと、どうなるか。

〈夫の求婚の強引さは、今思い出してもくたびれてしまう。ここと思えば、又あちら、というように行く先々に現われて、これは到底逃げられぬと覚悟し、小説を書かせてくれることを条件に結婚した。〉(「別冊文藝春秋」昭和51年9月号)

今で言えば、ストーカーだと疑われるのではないかと案じてしまう。一生を懸けようとした小説と同じように、思い込んだら一直線だったのか。

異性に対して、吉村は決しておくてではなかったようだ。

〈少年時代から現在まで、女性を見る時、この女(ひと)と結婚したらどうなるか、と思うのが常である。つまり結婚相手として好ましいかどうかが、女性の価値判断になる。
少年時代から、ということを妻はおかしがり、ずいぶんませた少年だったのね、と笑う。〉(『縁起のいい客』文春文庫)

東京の下町・日暮里生まれの吉村は、五歳のときから映画館に通い、映画監督を夢見たこともあった。スクリーンに映る映画女優を見ても、お嫁さんにしたらどうだろうと想像をふくらませた。

ひと目みて結婚を意識


結婚相手には理想とする一つの像があった。世話女房であるということだ。

〈世話女房という言葉は、男にとって実に快いひびきを持つ言葉だ。東京の下町に生れた私は、隣近所で、よく世話女房といわれている奥さんを目にした。いそいそと主人の身の回りに心を配り、亭主も頑是(がんぜ)ない子供のようにそれに身をまかせている姿を目にして幼心にもああいう人をお嫁さんにしたいな、とませたことを思ったりしたものだ。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)

この女と結婚したらという空想の中で、世話女房型かどうかを見定める癖があったようだ。
では、そういう女性と出会えたかというと、ある時期まで一人もいなかった。一生独身かも知れないと思っていたところ、めぐり合ったのが津村だった。

学習院大学の文芸部に入部するため、部室に入ってきた津村をひと目見て、

〈「大人びた女だなあ。こういうのと結婚したらいいかもしれない」〉(「週刊文春」平成12年1月20日号)と思ったことを明かしている。

出会いは1951年(昭和26年)で、吉村は24歳、津村は23歳。吉村は結核を患(わずら)い、左の肋骨五本を切除する胸郭成形術を受けるなどして、大学の入学が遅れた。一方の津村も、短期大学に入学するまでは自立を目指してドレスメーカー女学院に通い、疎開先の埼玉県入間川町(現狭山市)で洋裁店を開くなどしていた。

互いにまわり道をしたからこそ出会った千載一遇の縁だった。

口説き続けた末に


女学生の津村に対して、〈典型的な世話女房型であるという確信をいだいていた。〉(『蟹の縦ばい』中公文庫)というから、ストーカー顔負けの積極的接近は当然だったというべきか。司(長男の吉村司)は次のように証言する。

「父に言われました。結婚というのは、他の女は一切目に入らないという女性に出会ったときにするものだと。芸能人だろうが、道ですれ違った女であろうが、そんなものは一切視野に入らないというような。父は母と出会って、母しか目に入らなくなった。父の経験からの持論でしょう。結婚については、そういうすり込みがありました」

文芸部の委員長だった吉村は、いつも冗談を言って部員を笑わせていた。入学1年目にプロポーズされたときも、津村は最初冗談だと思って取り合わなかった。

結婚したら小説が書けなくなるので、一生結婚しないつもりだと津村が答えると、書けなくなるかどうか結婚してみないとわからないから、試しにしてみてはどうかと吉村は執拗に口説いた。

吉村の初期の短編『さよと僕たち』などに登場する弟の隆も、自分が結婚するかのように熱く兄の後押しをした。

結核の大手術を受けているので、吉村は「左身状態良好ナルヲモッテ治癒セシモノト認ム」という診断書も津村に送っている。肋骨を失い、大学中退で定職なしの身ゆえ、必死だったのだろう。

父の影響を受けた息子


晴れて1953年(昭和28年)、上野の精養軒で式を挙げた。

「司、死に水というのを知っているか? 臨終間際に、女房が自分の唇に水を含ませる行為だ。そのときに、やめてくれ、と思わないような女と結婚しろ、とも言われました」

つまり一生添い遂げても悔いのない女ということだろう。

結婚はこういうものだとすり込まれた司は、それが潜在意識にあったのかもしれない。自身の結婚は31歳のときだった。

相手の女性が通勤で使う駅で始発から待ち伏せ、いきなり腕をとって「結婚しよう」とプロポーズした。

意を決したら、果敢にアタックする。それも吉村の影響だという。

※本稿は、『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を再編集したものです

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