『光る君へ』清少納言が仕えた中宮・藤原定子、15歳で一条天皇に入内し最期まで寵愛された短い生涯

2024年4月1日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』第13回「進むべき道」で、元服して間もない一条天皇に入内した、高畑充希が演じる藤原定子を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

母は才媛

 藤原定子は、貞元元年(976)に生まれたとされる(貞元2年説あり)。

 紫式部の生年も諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、定子が3歳年下である。

 父親は井浦新が演じる藤原道隆、母親は板谷由夏が演じる高階貴子だ。藤原道長は叔父にあたる。

 定子の母・高階貴子は、高才と謳われた学者・高階成忠の娘である。

 貴子自身も漢詩文に造詣の深い才媛であり、坂東巳之助が演じる円融天皇に仕えた。

 凰稀かなめ演じる赤染衛門が作者ともいわれる歴史物語『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」には、「女性ではあるが、漢字などを実に見事に書いたので、内侍に任命され、高内侍(こうのないし)と呼ばれた」と記されている。

 同母のきょうだいに、三浦翔平が演じる藤原伊周、竜星涼が演じる藤原隆家などがいる。

 定子は母・貴子から高度な教育を受けていたという。

 永祚元年(989)10月には着裳(成人式)が行なわれ、定子は翌年、一条天皇への入内することとなる。


15歳で一条天皇に入内

 定子が入内した一条天皇は、天元3年(980)6月、段田安則が演じる外祖父・藤原兼家の邸宅である東三条第で生まれた。

 定子より4歳年下となる。

 父は坂東巳之助が演じる円融天皇、母は吉田羊が演じる藤原詮子だ。

 寛和2年(986)6月、本郷奏多が演じる花山天皇が出家および、退位すると(「寛和の変」)、数えで7歳にして即位した。

 摂政には、一条天皇の外祖父・藤原兼家が任じられている。

 正暦元年(990)正月5日、一条天皇が11歳で元服すると、同月25日に定子が15歳で入内し(『権記』では14歳)、翌月11日に女御の宣旨を受けた。


立后を強行

 兼家は定子の入内から4ヶ月後の正暦元年5月に関白となったが、病のため出家し、7月2日に62歳で没した。

 兼家のあとを継いだ藤原道隆は、権力基盤を固めるため、兼家の喪中にもかかわらず、娘の定子の立后を急いだ。

 当時、「中宮」とは皇后の別称であり、円融の中宮である中村静香が演じる藤原遵子(橋爪淳が演じる藤原頼忠の娘)がいたが、道隆は遵子を皇后とし、定子を中宮とするという、前代未聞の手段を強行した。

 ここに、皇后と中宮は分離した。

 これは、後述する道長が実現させた「一帝二后」に、繫がることになる。


一条天皇の寵愛

 強引な立后であったが、一条天皇は、定子を厚く寵愛した。

 二人の睦まじい様子は、定子に仕えたファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)の『枕草子』に詳しい。

 清少納言のみならず、定子には才女が女房として仕え、文化的なサロンを開いた。

 また、道隆の嫡男・藤原伊周(定子の兄)が内大臣に任じられるなど、後世「中関白家」と呼ばれる道隆の家筋は栄華を極めた。

 しかし、長徳元年(995)4月10日に、道隆が持病により死去すると、中関白家は急激に衰えていく。


定子と「長徳の変」

 道隆が没すると、4月27日、道隆の弟・玉置玲央が演じる藤原道兼が関白となった。

 その道兼も疫病が大流行するなか、関白就任から間もない5月8日に没してしまうと、定子の叔父・藤原道長が、「内覧」に任じられ、政権の中心に躍り出た。これは、道長の姉で一条天皇の母・藤原詮子の意向だったとされる。

 長徳2年(996)正月には、伊周と本郷奏多が演じた先帝・花山院がトラブルになり、弟の隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 この事件後、定子は内裏を出て、「二条北宮」と称される、定子が里邸としていた邸宅に退出した。兄と弟が不祥事を起こしたことによる、自主的な謹慎であったという(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 事件を重くみた一条天皇は、伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守として左遷し、事実上の流罪とすることと決めた。

 伊周と隆家は二条北宮の定子のもとに身を寄せていたため、一条天皇は、同年5月1日、懐妊中であった定子を牛車に移したうえで、検非違使を二条北宮に突入させた。

 隆家は捕らえられ、伊周もいったんは逃げたものの、やがて捕まり、二人とも左遷された。

 このとき、『栄花物語』巻第五「浦々の別」には、定子が自ら髪を切り落としたとあり、『小右記』長徳2年5月2日条にも、定子が出家したことが記されている。

 だが、錯乱のあまり髪を切ってしまっただけで、真の出家はしていなかったのではないか、とみる説もある(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 伴瀬明美「第八章 藤原定子・清少納言——一条天皇の忘れ得ぬ人々」)。


25歳での死

 長徳2年12月16日、定子は一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を産んだ。

 一条天皇は、定子が出家しても寵愛し続け、公然と宮中に呼び寄せている。

 定子の後見が没落したため、次々と有力公卿たちが娘を入内させるようになり、道長も、長保元年(999)11月1日、見上愛が演じる12歳の娘・藤原彰子を入内させた。

 同年11月7日、彰子に女御宣旨が下ったが、同じ日に、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産した。

 皇子誕生に焦りを覚えたのか、道長は翌長保2年(1000)2月に、彰子の立后を決行し、定子を皇后、彰子を中宮とする、先例のない「一帝二后」(一人の天皇に正妻が二人)を現出させた。

 ところが、それでも一条天皇の定子への寵愛は変わらなかった。定子は第三子を懐妊する。

 同年12月15日、定子は媄子内親王を出産するも、後産が下りず、翌朝にこの世を去ってしまう。まだ25歳(『権記』では24歳)の若さであった。


定子の辞世歌

『栄花物語』巻第七「とりべ野」には、御帳台にくくられた定子の辞世歌が記されている。

 これらの歌は、定子が出産に耐えられない身体であるのを悟っていたことを思わせる。

よもすがら契りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき

(夜どおし約束した言葉をお忘れにならなかったら、この世を去る私を恋しく思い、流す涙の色が知りたいです)

知る人もなき別れ路に今はとて心細くも急ぎたつかな

(誰も知る人のない死出の旅路に、今はこれまでと、心細くも急ぎ出で立つことです)

煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ

(煙や煙となって空に漂う身ではなくても、草葉の露を私と思って、眺めてください)

(現代語訳参照 校注/訳 秋山虔 山中裕 池田尚隆 福永武彦『栄花物語① 新編日本古典文学集 31』)

 一条天皇はどんな色の涙を流して、定子を偲ぶのだろうか。


【藤原定子ゆかりの地】

●鳥戸野陵

 定子が葬られた陵。陵がある鳥戸野は、平安時代から葬送地の一つとして有名である。

筆者:鷹橋 忍

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