静岡の珍地名「金玉落とし」 文献をもとに由来をひもとく

2018年4月7日(土)17時0分 Jタウンネット

2018年4月1日、静岡県菊川市(きくがわし)にある山城跡「横地城(よこじじょう)」で、「横地城跡桜まつり」が開催された。サクラの時期に各地で見られるお祭りのひとつ、なのだが、この祭りの中で開催されているイベントのひとつに「金玉落とし」がある。


読んで字の通り、金色に塗ったボールを斜面から転がし、そのボールを地元の子どもたちが取り合うというもの。過去の静岡新聞などの報道を見ると、2014年から行われているようだ。珍地名好きならすぐに気が付くかもしれないが、このイベント、横地城に残る地名「金玉落としの谷」に由来する。


「金の玉」じゃなくて丸太を落としていた?


「金玉落としの谷」自体はその名前から、これまでにもテレビなど他メディアでもよく取り上げられてきた、知名度の高い(?)珍地名だ。Google Mapなどでもわざわざその名前が表示されるようになっている。


改めて名称の由来を解説するまでもないかもしれないが、現地に設置されている説明板によるとこうだ。訓練のために城兵を急峻な谷の底に待機させ、合図と共に駆け上がらせ、金の玉を谷底に投げる。城兵は駆け下りて玉を探し出し、見つけた兵士がまた駆け上がると褒美を貰えたことに由来する。


地名のユニークさが目立ってしまうが、記者が気になるのはいつごろからこのような呼び名だったのかという点だ。史跡のデータベースなどでは、城跡周辺にはほかにも「千畳敷」「一騎駆け」「身討原」といった地名が残っているとされている。これらの名前はなんとなく由来や意味がわかるのだが、「金玉落とし」だけは明らかに浮いている。


横地城を築城した横地氏は平安末期から存在した古い武家だ。遠州でも名族で、今川義忠に攻められ落城した1467年まで400年近く栄えてきたとされており、「吾妻鏡」や「保元物語(ほげんものがたり)」などにもその名が登場する。


ちなみに両史料には、残念ながら「金玉落とし」という地名は登場しない。


江戸時代に作成された遠州の地図などを調べても、わざわざ城跡に残る地名までは記述されていないので、確認できず。記者の調査では限度があるので、かつて横地城の調査を行った菊川市の埋蔵文化財センターに話を聞くことにした。


一体いつから「金玉落とし」と言われていたのか、Jタウンネットの取材に対し、担当者は「正直なところよくわかっていない」とストレートに回答してくれた。


「江戸時代の郷土史料ではすでに『金玉落とし』という呼称が登場しているのですが、それ以前から呼ばれていたのか、そもそもなぜそのように呼ばれているのか、確たる資料はありません」

ここであきらめるのも残念なので、同センターや、地元の横地城跡保存会の協力のもと、いくつかの郷土史などを当たってみることにした。


まず、幕末〜明治ごろに横地の庄屋が残した記録『横地金寿城(編注:横地城の別名)合戦実記』には「金玉落としは金玉縅(きんたまおどし)の読みが誤って伝わったもの」と記載されていた。「縅」とは甲冑の様式のことで、ようは鎧の名前にちなんだ地名が訛ったという推測だ。語感的にはありそうな雰囲気もあるが、こじつけ感が強い。


前述の「金の玉を転がした訓練」説を唱えているのは、1931年に郷土史家が発表した『史実横地一族』という書籍なのだが、これにも否定的な意見があり、そういう解釈もあるという域を出ないという。


記者が個人的にありそうと感じたのは「丸太を落としていた場所」説だ。これは20年ほど前に発行された郷土史に記載されているのだが、「金玉」ではなく「きんたま」だったというもの。「ん」は助詞の「の」が口語変化しており、「金玉落とし」も「木のたま落とし」ではなかったか、という推測になっている。


「たま」がなぜ丸太なのかというと、『太平記』の中で崖を登ってくる敵兵に落とした一定の寸法に切った丸太を指して、「木のたま」としているためだという。訓練のためなのか、城の構えだったのか、はたまた防衛設備だったのかはわからないが、金の玉を転がすよりも、丸太を落としている方がリアリティはないだろうか。


というわけで、実際に横地城跡に行く際は、是非とも「金玉落とし」で丸太が落とせそうか、ご確認いただきたい。記者もいずれ丸太持参で訪れるつもりだ。

Jタウンネット

「文献」をもっと詳しく

タグ

「文献」のニュース

「文献」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ