『光る君へ』藤原伊周(これちか)はどんな人?道長より先に出世、光源氏のモデルのひとりともいわれる貴公子の生涯

2024年4月15日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』で、三浦翔平が演じる藤原伊周(これちか)をご紹介したい。

文=鷹橋 忍

『枕草子』にも登場

 藤原伊周は、天延2年(974)に生まれた。紫式部の生年には諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、伊周は紫式部より一つ年下となる。

 父は、井浦新が演じる藤原道隆。母は、板谷由夏が演じる高階貴子だ。道隆が、数えで22歳のときの子である。

 藤原道長は叔父にあたり、伊周より8歳年上だ。

 すでに道隆には、天禄2年(971)に藤原守仁の娘との間に生まれた藤原道頼という男子あったが、嫡男は伊周であった。

 道隆と貴子の間には、伊周をはじめ、高畑充希が演じる定子、竜星涼が演じる藤原隆家など、7人の子が誕生した。

 貴子は高名な学者でもある高階成忠の娘で、貴子自身も漢詩文に造詣が深い才媛であった。貴子の教育により、伊周も漢学・和歌に長じていたという。

 妹の定子に仕えたファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)の随筆とされる『枕草子』の「大納言殿参り給ひて」には、定子が中宮となった一条天皇(父は坂東巳之助が演じる円融天皇、母は吉田羊が演じる藤原詮子)のもとに伊周が参内して漢文の話をし、それが例によって深夜に及んだという記述がある。


中関白家の栄華の始まり

 ドラマでも描かれたように、寛和2年(986)6月、本郷奏多が演じる花山天皇が出家を遂げ、退位すると、伊周の従兄弟にあたる一条天皇が、7歳で即位。一条天皇の外祖父(母方の祖父)・段田安則が演じる藤原兼家が摂政となった。

 権力を掌中にした兼家は、道隆をはじめ息子たちを次々と昇進させていき、伊周も出世していった。

 伊周は同年7月に昇殿を許され、8月に侍従、10月に左兵衛佐に任ぜられた。

 翌永延元年(987)には、14歳で蔵人となっている。

 正暦元年(990)正月には、伊周の妹の定子が15歳(14歳とも)、11歳の一条天皇の後宮に入内し、寵愛された。

 同年5月、伊周の祖父・兼家は関白となったが、病のため5月8日に落飾入道し、関白を内大臣であった道隆に譲ると、同年7月2日に、62歳で死去している。

 政権の座に就いた道隆は、その基盤を固めるため、同年10月に、娘の定子を中宮に立てた。そして、兼家と同様に、伊周や伊周の同母弟・隆家など自分の子を昇進させていく。

 後世に「中関白家」と称される、道隆の一族の栄華が始まった。


叔父・道長を超える昇進

 伊周の出世はめざましかった。

 同年9月には17歳で蔵人頭に、翌正暦2年(991)正月には参議となって公卿に列し、同年9月には権中納言となっている。このころ、代明親王(醍醐天皇の皇子)の子・源重光の娘と結婚したと思われる(倉本一宏『ミネルヴァ日本評伝選 藤原伊周・隆家——禍福は糾へる纏のごとし——』)。

 渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』正暦3年(992)8月28日条によれば、権大納言であった源重光は、女婿の伊周にその職を譲ったという。

 伊周は19歳にして権大納言に任じられ、正暦2年に権大納言となっていた27歳の叔父・藤原道長と並んだ。

 さらに、疫病が流行し始めた正暦5年(994)の8月、道隆は3人を超越(ちょうおつ)させて、21歳の伊周を内大臣に任じている。

 道隆は内大臣から関白に就任しており、これは伊周の関白継承への布石であったといわれる。

 道長はこのとき、伊周より二階級も下の権大納言だった。伊周は8歳年上の伯父を、追い抜いたのだ。

 だが、中関白家の栄華も終焉が近づいていた。


父・道隆の死

 道隆は、正暦5年(994)の11月ごろから持病が悪化し、病床に伏してしまう。

 道隆が患っていたのは、糖尿病だとみられている(服部敏良『新装版 王朝貴族の病状診断』)。

 疫病が蔓延する翌長徳元年(995)の3月、病が重くなった道隆は、嫡男・伊周への関白継承を図ったが、一条天皇はそれを許さなかった。

 王朝時代には、摂関には天皇の外祖父、または外伯叔父(そとおじ/母方の伯父、叔父)が就任することが望まれていたという(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 伊周は、一条天皇の従兄弟にすぎなかった。

 だが、一条天皇は「道隆の病の間」という期限付で、伊周を臨時の内覧(天皇に奏上する文書や、天皇から宣下される文書を先立って内見する役目のこと。関白に准じるとされる)に就けている。

 道隆は同年4月10日、43歳で没した(『小右記』長徳元年4月11日条)。

 同年4月27日、一条天皇は道隆の弟・玉置玲央が演じる右大臣藤原道兼を、新関白に任じた。道兼は伊周よりも上位であり、順当な継承であった。

 ところが、道兼も病に冒されており、同年5月8日、35歳で死去してしまう。

 この年、疫病により多くの貴族層が亡くなっており、上半期だけで関白、左大臣、右大臣、大納言、権大納言の8人のうち、6人が薨じている(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。

 政界の中枢部で生き残ったのは、内大臣の伊周と、権大納言の道長だけであった。


道長との後継者争い

 道兼の後継者は、一条天皇の叔父である道長と、中宮定子の兄である伊周の二人に絞られた。

 定子を寵愛する一条天皇は、伊周を推していたともいわれる(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第四章 藤原道長 ——紫式部と王朝文化のパトロン)。

 だが、一条天皇が選んだのは道長だった。

 一条天皇は道兼の死去から3日後の長徳元年5月11日、道長に内覧の宣旨を下している。

 これは一条天皇の生母で、道長の同母姉である詮子が、道長を強く推したからだといわれる。

 政権の座に就いた道長は、同年6月19日、右大臣に任じられ、伊周を超えた。

 以後、伊周と彼の弟の藤原隆家は、道長と対立を深めていく。

『小右記』には、伊周と道長が会議の席で激しく口論したこと(同年7月24日条)、道長と隆家の従者が七条大路で合戦となったこと(同年7月27日条)などが記されている。


長徳の変で自滅?

 翌長徳2年(996)正月には、伊周と先帝・花山院がトラブルになり、弟の隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 この罪に、女院(詮子)を呪詛したなどの罪も加えられ、伊周は大宰府に左遷された。

 翌長徳3年(997)3月、特赦により帰京するも、権力の座につくとこはなく、寛弘7年(1010)正月、37歳で、道長よりも早く死去している。


光源氏のモデルの一人?

『栄花物語』巻第五「浦々の別」には、「御かたちとゝのほり、ふとり清げに、色合いまことに白くめでたし。かの光源氏もかくや有けむと見奉る」と記されており、伊周は優れた容貌の持ち主だったようである

 光源氏のモデルといわれる人物は何人かいるが、伊周もその一人である。


【藤原伊周ゆかりの地】

●積善寺

 伊周の父・藤原道隆が建立した堂。伊周の祖父・藤原兼家の二条京極邸跡の法興院内にあった。

 道隆により、正暦5年(994)2月に大規模な法要が営まれ、その様子は『枕草子』に描かれ、伊周も登場する。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

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