「マスメディアから黙殺された」オウム真理教を描いた映画監督の、“タブー”を世に問う執念の軌跡

2024年4月20日(土)13時0分 週刊女性PRIME

ドキュメンタリー作家、映画監督・森達也(67) 撮影/伊藤和幸

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 第47回日本アカデミー賞の授賞式がグランドプリンスホテル新高輪で開催された、2024年3月8日。そこには、映画『福田村事件』で優秀作品賞と優秀監督賞を獲得した森達也監督(67)の姿があった。

オウム真理教を被写体にしたドキュメンタリー作家



「こんな企画が本当にできるのだろうか、本当に撮影できるのだろうか、公開は本当にできるのだろうか」

 と悩み、自問自答を繰り返して完成した作品だ、とスピーチで明かした森。そんな複雑な思いが、スポットライトに照らされた瞬間でもあった。

 森といえば、オウム真理教を被写体にしながら、社会を映し出したドキュメンタリー映画『A』『A2』などで知られるドキュメンタリー作家。『福田村事件』は、そんな森が初めて劇映画に挑んだ意欲作だ。

 関東大震災の5日後に、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)と隣の田中村(現柏市)の自警団を含む村人たちによって、香川から来た薬売りの行商団が朝鮮人と疑われ殺害された事件を描いた本作。

 '23年9月1日に公開され、“タブー”として歴史の闇に葬り去られた真実を、100年の時を超え明らかにした。

日本アカデミー賞の舞台に「2人が一緒に上がることになるとは」

 日本アカデミー賞優秀作品賞では、是枝裕和監督の『怪物』や、山崎貴監督の米アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した『ゴジラ—1.0』などと共に受賞。森と是枝は、テレビのドキュメンタリーからキャリアをスタートさせ、付き合いは長い。是枝は、

「まさか日本アカデミー賞授賞式の舞台に、この2人が一緒に上がることになるとは感慨深いものがある」

 と授賞式当日、森の耳元で囁いたという。映画監督として数々の作品を発表してきた是枝に比べ、森が単独で手がけたドキュメンタリー映画は『A』『A2』『FAKE』『i—新聞記者ドキュメント—』のわずか4作に過ぎない。だが彼のドキュメンタリー作家としての才覚について、長年ドキュメンタリーの世界でしのぎを削ってきたテレビ制作会社『テレコムスタッフ』の長嶋甲兵プロデューサー(63)はこう言い切る。

「オウム信者の生活を取材しながら、オウムを見ているメディア、地域住民、右翼といった彼らを取り巻く社会構造を描くことに成功した『A2』。ゴーストライター騒動が報じられた、佐村河内守とメディアとのやりとりを客観的に捉え、真実を突き止めようとする『FAKE』。この2本はまぎれもなく、世界のドキュメンタリー史上最高傑作です」

 とにかく森達也という存在は、一度狙った獲物は逃がさない。 実際、『福田村事件』を映画という形に仕留めるまで20年以上の歳月がかかっている。

 '02年、スタッフルームの片隅で読んだ、ある新聞の地方版に掲載されていた小さな囲み記事に目が留まった。千葉県野田市に関東大震災に関連する慰霊碑が建つことを知り、森の心はざわついた。

「ほとんど資料がなかったものの、現地に足を運び、調べられる範囲で調べ、企画書にまとめてテレビ局の報道番組に企画提案しました。

 ところが被差別部落問題に朝鮮人虐殺という2つのタブーが重なる企画に、どの局も腰が引けていました」

 それでもこの事件のことが頭から離れず、'03年、自著『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(晶文社)の中で《ただこの事実を直視しよう》と題して書き記す。このエッセイで事件を知り、衝撃を受けたフォークシンガーの中川五郎は23番からなる『1923年 福田村の虐殺』という26分に及ぶ長い歌を発表。それを偶然耳にした映画監督・脚本家の荒井晴彦が、

「映画にしよう」

 と決意。旧福田村へも足を運び、シナリオハンティングを行っている。偶然が積み重なる奇跡の連鎖。やがて『福田村事件』のバトンは森の元に返ってくる。

 これが寡作なドキュメンタリー監督が劇映画デビューを飾ったいきさつである。しかし問題は山積みだった。森は当時をこう振り返る。

「作品の内容が炎上案件だけに、誰が出演してくれるのか。俳優が出たいと言っても事務所は嫌がるだろう」

 ところがフタを開けてみると、井浦新田中麗奈、永山瑛太、豊原功補、コムアイ、柄本明、東出昌大といったそうそうたる俳優陣が集結したのだ。

「オーディションには2000人もの俳優たちが集まり“こういった映画に出たい”“世の中にこういう映画が少なすぎる”といった彼らの思いがヒシヒシと伝わってきました」

 さらにクラウドファンディングで3000万円もの当座の資金が集まり、映画はクランクインすることができた。

「撮影は'22年の真夏。暑い盛りに京都付近で合宿しながら行いました。コロナ禍でもあり、もし誰か1人でも罹ったら撮影は中止となり、予算が潤沢にあるわけでもないので映画はお蔵入りの可能性もありました」

 数々の苦難を乗り越えて、20年間温めてきた企画を実らせ、日本アカデミー賞にも輝いた森監督。その姿は、まさにタブーに挑む執念の人。反骨のジャーナリスト魂を持ったドキュメンタリー作家を想像するに違いない。

 ところが素顔の森は、穏やかで物腰の柔らかい、ちゃめっ気たっぷりの男。そんな森監督は、一体どこに牙を隠し持っているのか─。



いじめ、不眠で心療内科に通った幼少期



 1956年、広島県呉市に生まれた森は、海上保安官の父の転勤に伴い、広島、青森、新潟、石川、富山、新潟と幼少期から海辺の街を点々。そうするうちに、すっかり転校生のトラウマを背負うことになった。

「転校生にはうまく立ち回るタイプと立ち回れないタイプがいます。僕は明らかに後者。友達がまったくできずに転校することもありました。

 小学3年のときに吃音に悩み、国語の授業中に指名されても教科書を読むことすらできません。いじめの標的にもされ、髪の毛が大量に抜け始め、夜、寝られなくなり心療内科に通ったこともありました。

 学校の給食が喉を通らなくなったのもこのころ。無理に飲み込もうとしても吐きそうになる。残すと怒られるので仕方なくおかずを全部膝の上のチリ紙に落とし、机の中にしまい込みました」

 これが小学3年生の浅知恵。毎日ため込むばかりで捨てることをしなかった森に、やがて悲劇が訪れる。

「森君の机が臭い」

 と、隣の席の女の子に訴えられクラスメート全員が見守る中、公開処刑の憂き目にあった。

「机が開けられると極彩色のカビに覆われたおかずの塊が現れ、強烈な腐敗臭が立ち上り、ほのかに思いを寄せていた女の子が口を押さえ戻しそうになっているのが見えました。その瞬間、頭の中が真っ白になったのを覚えています」

 その後の記憶は、まったくないという森。いや脳が、当時の記憶を抹消してしまったに違いない。

 こうした経験を重ねるうちに、森はますます自分の殻に閉じこもるようになる。

「そんな僕を心配して、母は小学館の世界の名作文学全集と、偕成社の世界ノンフィクション全集を買い与えてくれました。

 読書には夢中になりました。学校の図書館からもたくさん借りていました。あとは虫。トカゲやカエルを含めて、たくさん飼っていました」

 こういった転校生のトラウマから解放されたのは、中学2年生のとき。転校をすることなくこのまま高校卒業まで新潟にいられることがわかると、森は見違えるように元気を取り戻していった。

「当時人気だった『柔道一直線』の影響もあり、父のすすめる柔道部に入部。中学、高校と部活に励み、友達にも恵まれました」

 やがてそんな森に、映画との出合いがやってくる。



映画の世界の虜になり、作る喜びを知る



 進学校である新潟県立新潟高校に合格した春休み。森は中学の同級生と初めて入った名画座で『イージー・ライダー』『いちご白書』の2本立てを見て衝撃を受ける。

「若者2人がコカインの密売で儲けた大金を手にして、ハーレーダビッドソンに乗って放浪の旅に出る『イージー・ライダー』。学園紛争に引き裂かれていく恋を描いた『いちご白書』。アメリカン・ニューシネマを代表する映画を2回ずつ見て、腰が抜けるほど驚いたことを覚えています」

 '60年代後半から'70年代中盤にかけてベトナム戦争や公民権運動に揺れるアメリカでは、社会や政治に対する反体制的なメッセージを掲げるアメリカン・ニューシネマのムーブメントが巻き起こり、森もたちまち虜になった。

 そんな森を見て、「映画に出ないか」と誘ったのが同級生で、現在、新潟市内の中島医院の病院長を務める長谷川晴彦さん(67)である。

「秋の学園祭に向けて、仲間で8ミリの長編映画を作りたい。そう考えていた矢先、クラスは違うけれど、ロン毛で萩原健一や松田優作のような風貌で異彩を放っていた森を見てピンときました」

 そのときの作品が『あやつり人形のデザートスプーン』。90分に及ぶ大作である。

「この映画は、未来からタイムスリップしてきた女子高生の美しさに目が眩んだ男子高生が何人もアタック。無理難題を言われた末にフラれ、最後にヒーローと結ばれる。いってみれば現代版のかぐや姫です」(長谷川さん)

 しかしこの作品への出演を、森はいったん断っている。

「僕が演じたのは“佐渡島まで泳いだら付き合ってあげる”と言われる役。“こんなバカみたいな役はできない”と言ったところ、“当て書きだからやってくれ”と頼まれ、渋々、日本海を泳ぎました。今思うとやっぱりバカですね。

 でもこの作品が日本映像記録フェスティバルの長編部門で特別賞を受賞。映画作りは楽しいものだと、この作品で認識を新たにしました」

 映画作りの魅力に目覚めた森は、立教大学法学部に入学すると、当時“立教ヌーヴェルヴァーグ”と呼ばれた映画サークル『立教SPP』に所属。そこには、後にカンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭で名を馳せる黒沢清をはじめ、新進気鋭のクリエーターたちが集まっていた。

「毎回脚本を持ち寄り、議論の末、選ばれた作品の脚本を書いたメンバーが監督もできる。僕と黒沢が同票となり、僕の脚本『目が覚めたら僕は戦場にいた』を監督したこともありました。しかし後に、黒沢が撮った『しがらみ学園』がぴあフィルムフェスティバルに入選。その作品に僕が主演していたことから、徐々に俳優としてのオファーが増えるようになりました」

“才能”も“運”もない。絶望の果て─

 森はこのとき、『立教SPP』と並行して新劇の「劇団青俳」養成所にも所属。大学4年を迎えても、就職活動をする気にならず、両親に「しばらくアルバイトで生活する」と宣言して驚かせた。

「父は許してくれましたが、母は“なんで、なんで”と言って頭を抱えていました。そんな母の心配が的中したのか“研究生になれる”と思っていた『劇団青俳』は倒産してしまったんです。

 仕方なくアルバイトで食いつなぎ、黒沢はじめ旧知の監督の映画に出演。他にも学校演劇や大衆演劇の世話になったこともありました。

 そのころの食生活はインスタントラーメン1日1杯。このままじゃビタミン不足になると思い、アパートの周りに生えているハコベを摘んで一緒に食べていました」

 そんな森に大きなチャンスが訪れる。後に大御所監督になる林海象が資金をかき集め、デビュー作『夢みるように眠りたい』を撮ることになり、森は主役に選ばれたのである。

「ところがクランクインの直前、当時アパートで飼っていた猫にひっかかれた傷から骨膜炎を発症。1か月入院している間に映画はクランクイン。この作品が大きな注目を浴び、僕の代役に選ばれた佐野史郎は、その後TBSの金曜ドラマで“冬彦さん”として大ブレイク。演技の才能はないかもしれないと、うすうす気がついていましたが、“運”もないとわかり絶望的な気持ちになりました」

 しかもその時、一緒に住み始めた彼女の妊娠がわかる。人生最大のピンチを迎えた森達也、このとき28歳。生まれてくる子どものためにも、稼がねばなるまい。

 そう決意して俳優への道をキッパリ諦め、背広とネクタイを買って求人誌を手に職探しを始めた。



ドラマ制作の夢のため転職した先は……



 俳優への道を諦めて、小さな広告代理店にコピーライターとして就職した森。

「バブル景気に浮かれていた当時、見たことも行ったこともないゴルフ場やリゾート施設の広告記事を書く仕事に違和感を覚え、半年で退社。次に派手なテレビCMで有名になった不動産デベロッパーの広告宣伝部に入るも合わず、1年ほどで大手商社の子会社に転職しました」

 この会社、給与は良かったものの日がたつにつれ、映画や演劇をやっていたころの日々が思い出され、やっぱりどうしても諦めきれない。

 結局森は、新聞で募集広告を見たテレビ制作会社に飛びつく。ところが入社初日、思わぬ失敗に気がついた。

「テレビドラマに携わる仕事がしたくて入ったはずの会社が、ドキュメンタリー系の番組を得意とする会社だと知りました。でも今さら辞められないし……」

 このうっかりがきっかけでドキュメンタリーの門を叩くわけだから、縁は異なもの味なものである。しかし30歳の森にとってAD修業はそう簡単なものではなかった。



 最初についた番組がタレントの海老名香葉子・美どり親子がタイと香港を旅する番組だった。

「空港でディレクターに“ベーカム(撮影テープ)何本持ってきたの?”と聞かれ“ベーカムって何ですか?”と聞き返し真顔で呆れられたこともありました。そのレベルで仕事をしていました。

 その後もディレクターの編集について仕事を覚えろと言われても、そそくさと帰ってしまうから評判は当然よくない。ADを数本、経験するころには、社内ディレクターのほとんどが僕と組むことを嫌がり始めていました」

 しかし森自身は、「この仕事、なかなか悪くない」と手応えを感じていた。

「香港ロケの最中、凶悪犯や脱走犯のアジトと恐れられた九龍砦の中で香葉子さんが迷子になり、ディレクターに言われて怯えながら探しに行くと、地元の老婦人たちと楽しそうにお茶を飲んでいたんです。

 この仕事についてなかったら、九龍砦の中にもこんな普通の暮らしがあることを絶対に知ることもなかった。つまり、現実性に惹かれたんです。まったく興味がなかったドキュメンタリーだけど、少しだけ続けてみようかと思いましたね」

 当時の森を知るテレコムスタッフの長嶋は、こう話す。

「バンダナ姿に色付きのメガネをかけた森さんは、ADにはまったく見えませんでした。会議でえらそうに発言するものだから“あんた何様ですか?”と言ったことがあります(笑)」

 そんな森も2年余りでディレクターに昇格。ドキュメンタリー作家・森達也の快進撃は、いよいよここから始まる。



撮りたいものと求められるものの間で



 森達也の名前を一躍有名にした作品といえばオウム信者を被写体にしながら社会を撮ったドキュメンタリー映画『A』である。

 '95年に起きた地下鉄サリン事件をきっかけに、テレビ局でオウム報道が加速する。

 幹部信者のインタビューや、修行の様子を撮らせろといったオファーが教団に殺到する中、森はドキュメンタリーという手法でオウムの現役信者にアプローチすることを考えた。 

 撮影対象は上祐史浩の逮捕後、マスコミの前に唐突に現れた広報副部長・荒木浩以外にはいなかった。

「カメラの前でまるで拙い翻訳者のように言葉を模索しながら口ごもり、詰問されては立ち尽くす荒木さんを見て、彼だと直感しました。僕がオウムに感じ続けている強烈な違和感の由来を見定めることができるかもしれないと思ったからです」

 しかし2日間のロケを終えた翌日、TBSが坂本堤弁護士のインタビュー素材をオウム幹部に放送前に見せ、それが弁護士一家殺人事件の引き金になったことが発覚。メディア全般に激震が走った。

「制作部長から呼び出しを受け、反オウムのジャーナリストをリポーターに起用すること、サリン事件被害者遺族のインタビューを構成要素に盛り込むことなどを要求され、即答しなかったんです。なんだか必要ないと思ってしまった。その後もプロデューサーと話し合いを続けるも、危険だと思われたのか、最終的に撮影の中断を命じられました」

 それでも森は「放送する枠は別に探す」と荒木には伝え、ハンディのデジタルカメラを持って撮影を続けた。しかし交渉したテレビ局や制作会社すべてから断られた。

 あげくの果てに「行動が目に余る」という理由から契約していた大手制作会社から契約解除を言い渡され、森は途方に暮れる。3人目の子どもが生まれる、暑い夏のことだった。テレビ業界から追われ、身動きの取れない森に助け船を出したのが、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、進軍』の制作に関わった映画プロデューサーの安岡卓治(69)である。



「オウム報道のあり方はおかしいと思っていたから、自分の視点でオウムを描こうとしている森と意気投合。映画公開に向けて制作だけでなく、撮影や編集も手伝うことにしました」(安岡)

 安岡が援軍に加わり、警視庁によるオウム信者への不当逮捕を偶然にも撮影することにも成功。およそ1年半の撮影期間と半年の編集期間を経て、2時間15分の自主制作映画として、映画『A』は'98年9月に公開された。

「当時オウム報道に関わっていませんでしたが、糾弾するメディアの非常に醜悪な姿は僕自身だと思いました。テレビ局にいたら、森さんのようなドキュメンタリーは作れない。僕にとっては会社を辞めるきっかけになった作品です」

 そう語るのは、元フジテレビ社員で現在、数々のドキュメンタリー作品を手がけている大島新(54)。

 しかし映画『A』は、非難を浴び逆風に晒されることに。森は当時をこう振り返る。

「“見るに値しないオウムのプロパガンダ映画”と、見ない人からの反発があまりに強く、マスメディアの大多数からも黙殺されました。マスメディアはオウムを“凶暴で凶悪な殺人集団”“洗脳されて感情や判断力を失ったロボットのような不気味な集団”として描いてきました。

 ところが映画『A』に描かれている実際のオウム信者は、ほぼ例外なく善良で純粋。あれほど凶悪な事件を起こしたオウムの信者が、自分たちと変わらない普通の存在であることは絶対に認められない。これは社会の願望です。そしてメディアはこれに抗わない。視聴率や部数に大きく影響しますから、むしろ強調します」

 吹き荒れる映画『A』への謂れなきバッシング。テレビ業界には、戻れそうにない。子どもたちのためにも「田舎に帰って仕事を探そう」と考えていた矢先、思いもよらぬ奇跡が起きる。

『A』がベルリンやバンクーバー、香港やロンドン、釜山などの国際映画祭から正式に招待され、森達也はいきなり“時の人”となったのだ。

 海外で高まる評価のおかげで、テレビ業界に戻れたものの、森の苦難の日々は続く。

「ベルリンでスタンディングオベーションを受けた数日後に帰国して、お金がないのでNHK—BSの祭りの中継番組のADをやって“弁当が遅い”とプロデューサーに怒鳴られました。まあこの時期、ほとんどの人が知らなくて当たり前です」

 厳しい現実との闘いの日々は、それからも森を苦しめることになる。



他者への不安と恐怖が増大する社会で



 映画『A』でドキュメンタリー映画監督となった森達也には、最新作『福田村事件』に至るまで、貫かれた信念がある。

「オウム事件にしろ、佐村河内守のゴーストライター騒動を描いた『FAKE』、そして『福田村事件』でもメディアや民意は必ず一方向に向かって暴走を始める。そんな世の中に異議申し立てをする。それが森さんの作品に貫かれているポリシーではないでしょうか」

 と、前出の大島は言う。大島の言葉を森自身は、こう説明する。

「シマウマや鹿などの草食動物は、天敵である肉食獣のように爪や牙を持たないから群れをつくる。危険に対して敏感に反応しなくてはならないから、草食動物たちの群れは、事あるごとに暴走してしまいます。

 肉体的に弱い人類もやはり群れで暮らすことを選びました。さまざまな道具や武器を手にして人類は地球上最強の動物になりましたが、強い警戒心が遺伝子に刷り込まれています。この警戒心が高揚したとき、人は家族や同胞、そして自分を守るために、仮想の敵を攻撃する。こうして起きるのが、戦争や虐殺です」

 しかも人は、悪意や自分の利益のために多くの人を殺せない。むしろ善意や大義、愛するものを守ろうとするときこそ、とても残虐になれる。オウム事件をきっかけに、日本社会の他者への不安と恐怖は増大していると森は言うのだ。

 映画『福田村事件』で劇映画に進出した森達也。次回作について周囲からは、こんな期待の声が上がる。

「オウムのような大きな撮影対象が現れないと森さんの良さが発揮できるドキュメンタリーは撮れない。スキャンダルに翻弄される大谷翔平とか、森さんにとってチャレンジしがいのある対象が現れてほしいものです」(前出・長嶋)

 その一方で、前出の映画プロデューサー、安岡は、

「彼とは昔、刑事物のショートムービーを作ったことがあり、とてもセンスを感じました。次回は社会事件から離れた劇映画をぜひ期待したい」

 はたして本人は、次回作についてどう考えているのか。

「恋愛物、ホラーやアメリカン・ニューシネマっぽい劇映画にも挑戦したい。その一方で形にしたいドキュメンタリーもある。どちらを先に撮るかは気分と風まかせかな」

 そう言って、取材班を煙に巻く森達也。森の次回作への期待は高まるばかりだ。

取材・文/島 右近

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツなど幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わる内に歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』上梓。今年、楠木正成の謎に迫る小説を上梓。

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