有楽町駅近くで「中央区銀座西の住所を見かけた」と言ったら、友人はなぜか怪訝な顔を…<旧町名>でたどる中央区の歴史

2024年4月30日(火)12時30分 婦人公論.jp


「中央区銀座西2−2先」は正式な住所ではない。正しい住所は「無」。存在しないのである(写真提供:二見書房)

「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・中央区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんいわく、「中央区は元々2つの区が合併して誕生した」そうで——。

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京橋區、日本橋區、日本橋區本町


<京橋區、日本橋區>

地図で中央区を見ると、日本橋の付くものとそうでないもの、町名が2種類に分かれているのがわかります。これは中央区が元々2つの区が合併して誕生した表れです。

日本橋が付く方が「日本橋區」、そうでない方が「京橋(きょうばし)區」。江戸・東京の中心だった両区が世界の中心を目指すため、中央区は誕生しました。

<日本橋區本町>

1590年8月1日に江戸入りした家康が最初に行ったのが架橋工事。8月26日に常盤橋が竣工すると、9月1日からは町割に着手します。その第1号がここ、本町(ほんちょう)なのです。


空襲被害を免れた本町には、かつてはこのような戦前の貴重な琺瑯看板が残されていた(写真提供:二見書房)

日本橋本町は江戸時代の始まりであり、令和のいまこの記事を書いている私にも、この記事を読んでいるあなたにも繋がる道の入口なのでしょう。

京橋區新佃島西町、日本橋兜町、京橋區月島通


<京橋區新佃島西町>

空襲被害をほぼ免れた月島・佃島エリアには戦前からの建築物が多々残っていますし、中央区以前の京橋區時代の旧町名も少々現存しています。

こちらは駄菓子などを扱う旧タバコ屋さん。大正生まれのご主人が切り盛りするお店兼住居のこの建物は中央区指定文化財です。

お話を伺うと、店内がドラマロケに使われたりプロの写真家が建物を撮らせてくれと訪ねてきたり等々、文化財ゆえのエピソードがたくさん。写真家が撮ったこの建物が載っている本も見せていただきました。

一方で、固定資産税が高く維持が大変ともおっしゃっていました。区が文化財指定で建物保存を推進するのはとても素晴らしいことなんだけど、とも。我々部外者にはいい部分しか見えませんが、当事者にとってはありがた迷惑な側面もあるんですね。


『旧町名さがしてみました in東京』(著:102so/二見書房)

貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。今度また駄菓子買いに行きますね。

……これが平成21年のお話。令和6年現在、もう駄菓子を買いに行くことはできません。

<日本橋兜町>

銀行発祥の地・兜町(かぶとちょう)に鎮座する兜神社には、平将門を供養するために埋められた伝説の兜があるとか。同じく町内にある東京証券取引所横の鎧橋には、源義家が投げ入れて暴風雨を治めた伝説の鎧が眠るとか。


昭和57年の住居表示実施で丁目が消え単独町名となったため、丁目付き兜町は旧町名扱い(写真提供:二見書房)

ドラクエか何かでしょうか。渋沢栄一が金融恐慌を収めるために研いだ伝説の剣もあるかもしれません。

<京橋區月島通>

えっ? 数がそんなにあっていいの? 2桁丁数に驚愕です。


月島通を中心に、西側に西仲通・西河岸通、東側に東仲通・東河岸通。旧町名にはすべて「通」が付く(写真提供:二見書房)

丁目は概ね4・5丁目までが適当であると、幼少期より叩きこまれてきた我々住居表示世代にとって11丁目は完全に未知の領域。しかも月島通は12丁目まであったようです。

なお、京都に22丁目、北海道には42丁目があるそうですが、それはまた別のお話。

宝町、霊岸島、越前堀


<宝町>

街は生き物であり、姿形は時代とともに日々確実に変化しつづける。旧町名をさがしていると常にその現実を突きつけられます。写真に写る宝町(たからちょう)は平成19年のものですが、開発の波とコンクリートの海に飲み込まれ、いまはその姿も面影も見る事ができません。


発見した平成19年当時の様子は宝町が残っていた建物ふくめ数軒のみの開発待ちだった(写真提供:二見書房)

下の写真の宝町は現町名に併記する形で残されていました。この行為にどのような意図があったのか、いまでは知る由もありませんが、消滅した旧町名に対する所有者の哀悼を感じずにはいられません。


現町名の中央区京橋に併記される旧町名の宝町。消滅は意外と遅めの昭和53年(写真提供:二見書房)

この記事で紹介する旧町名たちは、既に消滅したもの、所有者や地域が大切に残しているもの、忘れられ放置されているものなど、その境遇はさまざまです。ただし共通するのは、彼らが示す旧町名が現役の町名であった当時からそこに存在しつづけていること。いわば歴史の遺構、町の生き証人なのです。

古いものが淘汰されることは受け入れるべき現実ですし、彼らもいずれこの宝町と同じ結末を迎えます。

だからこそ私は彼らを見つけ出し、その街で生きた証を記録しつづけているのです。哀悼を込めて。

<霊岸島>

目を引く「霊」。文字大丈夫? そう思いますよね。明治末までこの地の町名には霊岸島の冠が付きました。後に冠は外れるも、震災後の町名整理で冠どころか町名自体が霊岸島(れいがんじま)となります。


霊巌が寺を創建した島なので霊岸島。霊巌寺は大火によりわずか31年でこの地を去ります。いまはいずこへ(写真提供:二見書房)

ここで住民から挙がったのが「縁起が悪い」。今も昔も思うことは同じでした。元々霊岸島付いてただろ的な説得で収まったそうです。

<越前堀>

震災で閉校した霊岸島尋常小と越前堀(えちぜんぼり)尋常小の合併で誕生したのが明正(めいせい)小学校。校名は「公明正大」と、明治に発展した霊岸島小と大正に発展した越前堀小の元号の合成です。


越前福井藩主松平越前守の屋敷を囲む・巨大な堀が由来。堀の幅はなんと20メートル(写真提供:二見書房)

霊岸島と越前堀、2つの地域に育まれた明正小は、空襲被害で一度廃校になるも、住民の願いで復活。消滅した2つの町名の分まで健在です。

京橋區木挽町、京橋區小田原町、銀座西


<京橋區木挽町>

なぎら健壱さんの写真集で見た木挽(こびき)町。昭和26年消滅のレアさ。見つけたら何か起きそうな気がすると思ったら、発見後本当に何か起きました。


木挽とは造材のこと。昭和24年に三十間堀が埋め立てられ銀座と地続きになったことが町名消滅の原因(写真提供:二見書房)

なぎら健壱さんを見かけたのです。それも2度。手に缶チューハイというレアさ。これは何か起きそうな気がすると思ったら、本当に何か起きました。木挽町2つありました。

<京橋區小田原町>

戦前の東京に出会える大変貴重なエリアです。空襲被害を逃れたお陰で当時からの木造建築や銅板建築が点在して存在しつづけているため、結果的に戦前の京橋區時代の旧町名も残されている傾向にあります。


令和2年11月ごろ解体の建物に発見。京橋區時代なのに文字の向きが區橋京でないのは珍しい(写真提供:二見書房)

それでも10年ほど前はそれらの建物がもっと群として残っていた気がします。この街はいつまで残るか。

<銀座西>

これは、私が実際に体験した話です。

その日私は、銀座で友人らと食事をする予定がありました。普段銀座へは銀座駅を使っていましたが、その日は何故か有楽町駅で下車したのです。

この駅は住所こそ千代田区ですが、中央区銀座の西側に接するため銀座の少し離れた最寄駅でもあります。ただ、普段使わない駅で土地勘がないため、住所を手がかりに銀座へ向かいました。

銀座インズという施設の入口で「中央区銀座西」の住所を見つけ銀座に着いたことがわかり、その後無事友人らと合流できました。食事の席では馬鹿話で盛り上がりましたが、私が銀座に着くまでの苦労を話した瞬間、友人らが怪訝な顔をしたのです。

「え? 銀座西なんて住所ないよ」

どうやら銀座西という住所は昭和43年に消滅したようなのです。でもあの施設のネパール料理店のポスターにはたしかに銀座西という文字がありました。

あの時見たあれは一体なんだったのでしょうか。

そして、そもそも私に友人はいません。彼らは一体誰だったのでしょうか。

※本稿は、『旧町名さがしてみました in東京』(二見書房)の一部を再編集したものです。

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