島崎藤村、文学者としての成功の礎となった「悲恋」とは?教え子に恋するも告白できずに小説に綴るじれったさ

2024年5月16日(木)8時0分 JBpress

詩集『若菜集』で浪漫主義詩人として人気を博し、その後『破戒』で自然主義文学の作家としての地位を確立した島崎藤村。その礎となったのは、小説『桜の実の熟する時』で描かれた、教え子への秘めた恋心だったのかもしれません。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)


姪との不倫事件でフランスへ逃亡

『若菜集』を刊行した2年後の明治32年(1899) 4月、小諸義塾の教師となった藤村は秦冬子という女性と結婚します。7人の子をもうけますが、1905年に三女、その翌年には次女、長女を失い、妻の冬子も1910年、四女を出産する際に死んでしまいます。

 そして兄の娘、つまり藤村にとって姪にあたるこま子が家事手伝いとしてやってくるのです。藤村はなんと、親子ほども年齢差のあるこま子と関係を持ち、妊娠させてしまいます。さらにこの現実に耐えかねてひとりでフランスへ逃げてしまうのです。

 大正2年(1913)に渡仏し、渡仏中に書いたのが、自伝的小説『桜の実の熟する時』(雑誌『文章世界』1914〜15年に連載)でした。

思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅(か)いで見て、お伽話(とぎばなし)の情調を味(あじわ)った。

それを若い日の幸福のしるしという風に想像して見た。

   島崎藤村『桜の実の熟する時』巻頭言(新潮文庫)

 新潮文庫はこの作品を「『春』の序曲をなす、傑れた青春文学である。」と宣伝しています。『春』は明治41年(1908)に東京朝日新聞に連載したのち自費出版した作品で、自身や北村透谷、平田禿木といった雑誌『文学界』創刊当時の同人をモデルにした初の自伝的小説です。

『桜の実の熟する時』は果たしてほんとうに傑れた青春文学だったのでしょうか? 藤村はさらに冒頭で、得意の上から目線で、若い人に勧めたいと豪語していますが……。

これは自分の著作の中で、年若き読者に勧めて見たいと思うものの一つだ。私は浅草新片町(しんかたまち)にあった家の方でこれを起稿し、巴里(パリ)ポオル・ロワイアル並木街の客舎へも持って行って書き、仏国中部リモオジュの客舎でも書き、その後帰国してこの稿を完成した。この書は私に取って長い旅の記念だ。

島崎藤村『桜の実の熟する時』(新潮文庫)

 前編で少し触れたように、『桜の実の熟する時』は岸本捨吉という主人公が年上の女性・繁子との交際に破れ、その後、教鞭をとっていた女学校で出会った勝子という教え子との恋愛にも挫折するという物語です。小説は捨吉が関西に向かって旅に出たところで終わっていますが、現実はこれで終わりではありませんでした。


傷心の藤村、年上の女性との愛欲にまみれる

 明治21年(1888)、17歳の藤村は共立学校時代の恩師・木村熊二というプロテスタントの牧師の影響で木村から洗礼を受け、キリスト教徒となります。そして明治25年(1892)、木村が創設した明治女学校の校長・巌本善治が発行していた雑誌の手伝いをしていたことから、巌本から明治女学校の授業を持つように言われます。藤村はこの時20歳でした。女学校で『桜の実の熟する時』の鉄子のモデルである佐藤輔子と出会った藤村は、彼女への恋心を募らせます。

 藤村の輔子への気持ちは周囲の知るところとなりますが、藤村には、輔子に愛を告白する勇気がなく、『桜の実の熟する時』に書かれているように、突然休職して旅に出てしまいます。

 この時、のちに作家となる同僚・星野天知から、旅先で困ることがあったら神戸にいる広瀬恒子という女性を訪ねれば良い、と言って紹介状を受け取ります。星野天知は『桜の実の熟する時』に登場する教師仲間の岡見のモデル、恒子は『桜の実の熟する時』と『春』に登場する「峰子」のモデルとなった女性です。

 恒子はもともと明治女学校の生徒で、卒業後はそこで教鞭をとっていました。同僚だった星野と深い関係になりますが、星野が恒子を鬱陶しく思ったことから神戸の実家に戻ることになったのです。

 恒子を訪ねた藤村は、そこにしばらく滞在します。その間にふたりは肉体関係を持ち、神戸滞在中、藤村は恒子との愛欲にまみれたのでした。

 藤村はある日、恒子に自分には輔子という好きな女性がいると告白します。輔子は教師時代の恒子の教え子でした。そして恒子は輔子に、自分は藤村と深い関係になったと書いた手紙を送るという、ちょっと怖い女性でした。


輔子への想いを作品に綴る

 やがて東京に戻った藤村は、どうしても忘れられないと知人に頼んで輔子を呼び出してもらいました。しかし輔子を目の前にすると「いや、あの、あの……あの〜」と口籠もるばかりで、自分の想いを伝えることができなかったそうです。

 輔子は「先生をお慕いしていますが、すでに親が定めた許婚者がいるので悩んでいます」と打ち明けます。すると藤村は「よい人だそうですね。私も一度お目にかかりたい」と言い、輔子は「会ってごらんなすったらよいでしょう」と返したのだそうです。

 思わず「がんばれよ! 藤村!」と叫びたくなります。

 せっかく相手も自分を想ってくれていたことがわかったのに、その気持ちに何もできないことを恥じた藤村は、再び旅に出るのです。

 今度は東北に向かい、輔子が少女時代を過ごした一関を訪ねて、さらに輔子への想いを強くしたのでした。

 失恋をすると旅、そうして心の傷を癒やすことって、昔も今も、みんな一緒ですね。

 ひとり旅は、失ったものを結晶化させる力があるのです。

 さて、明治28年5月、輔子は結婚しますが、3か月後の8月に札幌の病院で亡くなってしまいます。

 藤村の小説『春』には輔子の姉が輔子の親友に宛てた、次のような手紙が引用されています。

 妊娠のため——ツワリとかが烈しく、自然に体の弱りしため心臓病を引起せしとのことに有之(これあり)、それに神経の鋭敏なるためむつかしきよし申され候。

   島崎藤村『春』(新潮文庫)

 輔子は結婚したのちも藤村の写真を大事に持っていたそうです。また、藤村への想いを記した明治25年(1892)9月から12月末までの日記が、木曽馬籠の藤村記念館には保管されています。藤村はこの日記を読まないまま、昭和18年(1943)8月22日に亡くなっています。

 輔子の死後、藤村は文学者の道を歩み始め、その詩や文学に輔子への想いが深く綴られています。

 藤村の文学者としての成功は輔子との悲恋が礎になっているのかもしれません。

筆者:山口 謠司

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