戦国最強・上杉謙信が<唯一負けた>天才軍師は名前の読み方すら不明で…れきしクンも「何者なんだよ!」と唸る人物のナゾに迫る

2024年5月22日(水)6時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』などには著名な戦国武将が登場します。しかしその裏に、もっと注目されてもいい<どんマイナー>なご当地武将が多く存在する!と話すのが「れきしクン」こと歴史ナビゲーター・長谷川ヨシテルさん。長谷川さんがそんな彼らの生涯をまとめた著書『どんマイナー武将伝説』のなかから、今回は「謎の天才軍師・白井浄三」を紹介します。

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上杉謙信を破った天才軍師


“戦国最強の武将”のアンケートを取れば、必ず上位にランクインしてくるのが上杉謙信です。

軍記物だけでなく史実でも確かに強かった上杉謙信ですが、唯一敗戦を喫した合戦が千葉県に伝えられています。それが1566年(永禄9)3月23日の「臼井城の戦い」です。

上杉謙信(当時の名は輝虎)の本拠地は越後(新潟県)でしたが、敵対する小田原城(神奈川県小田原市)の北条家との戦いのため、毎年のように三国峠を越えて関東に攻め込み、北条方の諸城の攻略に取り掛かっていました。

この年も正月から関東に進軍すると、2月に北条方の小田氏治の小田城(茨城県つくば市)をあっという間に攻略。

続いて臼井城(千葉県佐倉市)に攻め寄せました。臼井城を守るのは原胤貞。下総(千葉県)の有力大名だった千葉家(北条家に従属)の家臣でした。上杉軍を前に絶体絶命!

そんな不利な戦況から大逆転して上杉謙信を破ったといわれているのが、謎の天才軍師・白井浄三だったんです。

天文学と占いを駆使した名采配


浄三さんに関するパーソナル情報ですが、ほとんどが不明です。当時の史料では確認できず、登場するのは後世の軍記物のみになります。

名前についても軍記物によって「白井入道」(『小田原記』など)、「白井入道浄三」(『三好記』)、「白井四郎左衛門入道浄三」(『関八州古戦録』など)、「白井下野(しもつけ)入道胤治(たねはる)」(『千葉伝考記』)というように様々です。


『どんマイナー武将伝説』(著:長谷川ヨシテル/柏書房)

さらに「浄三」の読み方についても不明でして、史料的な価値はないものの、『真書太閤記(しんしょたいこうき)』(江戸時代後期の豊臣秀吉の一代記)にある振り仮名から判断すると、「浄」は当時「じょう」と読んだようですが、「三」にはルビがないので読みは「さん」「ざん」「み」「ぞう」なのかはわかりません。本記事では私の好みで「じょうざん」としています。

浄三さんの経歴について、『関八州古戦録』には「千葉家の一族で、武者修行のために上方に行って、三好日向守長依に仕えたが、この間、下向して当城(臼井城)にいた」とあります。

三好日向守長依とは、おそらく三好長逸(ながやす)のことで、織田信長が政権を握る前の三好政権の有力者だった“三好三人衆”と呼ばれるメンバーのひとりです。

また、浄三さんの能力については「天文の巧者にて、軍配を考え、その利を示す」とあるので、天体や空に関する知識があり、それによって有利な軍勢の配置や進退を考えて助言していたようです。

『三好記』には、旗雲(はたぐも。旗のようにたなびく雲)が出現して多くの人々が吉凶どちらの兆しかが気になっていたある時、浄三さんが「味方の吉事」と占ったと記されています。

さらに『三好記』では「無双の軍配名誉」、『小田原記』では「無双の軍配の名人」と称されるなど、その軍配能力は当時ナンバーワンだったといいます。

ちなみに、1915〜19(大正4〜8)にかけて刊行された『大日本国語辞典』という辞書の「軍配」の項目の中では、代表的な軍配者として、有名な山本勘助(武田信玄の家臣)とともに、浄三さんが紹介されています。

“先に動いたら負け”戦法で謙信撃退


それでは浄三さんは、いかにして屈強な上杉軍を撃退したのでしょう!?

実はこの戦、臼井城にとっては、劣勢も劣勢でした。

その戦況は上杉謙信に従っていた武将(長尾景長)の書状に残っていまして、「臼井の地は、実城(みじょう。本丸)の堀一重に至って、諸軍は取り詰めていて、夜白(やはく。昼夜)の隙無く攻めているので、落ちないはずがない」とあるので、書状が書かれた3月20日の段階で落城寸前だったようです。

しかし、『小田原記』によると、浄三さんは味方と敵の軍勢の“気”を見て、こう分析したといいます。

「敵陣の上に気が立っているが、いずれも殺気であり、囚老に消える。味方の陣中に立つ軍気は、皆律気にして王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」、つまり「敵陣の気は悪くて、味方の陣の気は良いから、敵の敗北は間違いなし」ということですね。それを聞いた城兵たちは「皆頼もしく(心強く)」思ったそうです。

一方、上杉謙信は「これ程の小城、何程のことかあるべき。唯、一攻めに揉み落とせ」と下知して、一気に攻め掛かります。

それに対して浄三さんは、鬨(とき)の声を上げさせて城門をいきなり開いて突撃!

中でも、原胤貞の家老の佐久間主水介と、援軍として駆け付けていた北条家臣の松田康郷(孫太郎)が一騎当千の活躍を見せて初日の猛攻を退けました(『関八州古戦録』)。

浄三さんの読みが的中!


そして翌日、戦いはクライマックスを迎えます。

前日、攻勢に出た臼井城勢でしたが、この日は一転して沈黙。


(写真提供:Photo AC)

それを不思議に思った上杉謙信が、「城中で草臥(くたび)れているのか。または今日の風雨を恐れて出ないのか。攻めてみよ」と言ったところ、重臣の本庄繁長が、「城中には、誠でしょうか、軍配の名人・白井入道が籠っているとのことです。今日は千悔日(せんかいび)という先負の日であるため、城中より出ないのではないでしょうか」と答えます(『小田原記』)。

この時代は特に占いの結果を大事にしていましたので、浄三さんは“先に動いたら負け”を意味する先負の日を「悪日」として動かず、上杉軍の動きを見定めていたようです。

そんな状況に痺れを切らした上杉謙信は、再び臼井城への攻撃を命令。長尾顕長(あきなが。おそらく長尾景長の間違い)の軍勢が猛攻を見せて、大手門を落としそうになったタイミングで、浄三さんの“先に動いたら負け”の読みが的中します。

なんと空堀(からぼり)の崖がいきなり崩れ落ちて、攻め寄せていた敵軍へ崩れ掛かったのです!

この“空堀崩れ”、浄三さんの仕掛けとしたいところですが、本文に「思いも寄らず」とあるので、土砂崩れのような自然現象のものだったということのようで、上杉軍の雑兵(ぞうひょう)が80〜90人ほど圧死したそうです(『関八州古戦録』)。

“空堀崩れ”での死傷者続出を受けて、上杉謙信は撤退を命じますが、そこを狙っていたのが松田康郷など勇敢な臼井城の城兵たちでした。再び出陣した臼井城の城兵たちは、撤退する上杉軍を激しく追撃します。

松田康郷は赤い甲冑を身にまとっての活躍だったことから、上杉謙信から“赤鬼”と称されたとあるように、「臼井城の戦い」のもう一人の主役でもあります。

この最後の突撃作戦の件は“浄三さんの策”とは書いていないんですが、流れ的に浄三さんが追撃の采配を振るっていたと脳内で補完しています。

こうして、上杉謙信は臼井城の攻略をあきらめて撤退。上杉謙信との大一番は、浄三さんに“軍配が上がった”のです!

三好家、明智光秀、加藤清正にも兵法指南?


と、ここまで軍記物をベースに臼井城の攻防戦をご紹介しましたが、「上杉軍の敗北」はキチンとした“史実”です。

小田原城の北条氏政(うじまさ)が同年3月25日の書状(武田信玄宛)に、「臼井の敵には手負い(負傷者)や死人が千人出た。(敵の)敗北は必定(ひつじょう)である」という内容を記し、4月12日の書状(松田康郷宛)では、「手負いや死人は敵に5千余人出た。翌日(敵は)敗北した」と死傷者数の上方修正と、敵が敗北した確定情報を記しています。

ただし、この軍勢を上杉謙信が実際に指揮していたかどうかは軍記物にあるだけなのでわからないんですよね。しかも、江戸時代にまとめられた『上杉家御年譜』などの上杉方の史料には、「臼井城の戦い」は登場してこないんです。大人の事情をぷんぷん感じます(笑)。

実はこの時の上杉軍の主力は、北条家と対立する安房(あわ。千葉県)の里見(さとみ)家や上総(かずさ。千葉県)の酒井家だったのですが、長尾顕景(あきかげ。のちの上杉景勝)が家臣(下平右近允)に宛てた書状で、臼井城攻撃時に「最前に攻め入って、傷を負ったこと」を褒めているので、上杉軍も最前線で戦っていることは間違いないんですよね。

一方、戦いの関係者やその末裔からしてみたら「謙信に勝った」というのはアピールしまくりたい歴史ですので、関東戦国史を扱った軍記物には、“謎の軍配者・白井浄三”を中心に臼井城の攻防戦がドラマチックに描かれているのだと思います。

そういえば、上杉謙信が敗れた合戦として、他に1561年(永禄4)の「生野山の戦い」(埼玉県本庄市)が挙げられることがありますが、こちらも確かに当時の史料で「上杉軍が負けた」ことはわかるのですが、「上杉謙信が指揮していた」という記載は、当時の史料だけでなく軍記物にも登場してこないので、“上杉謙信の唯一の敗戦”として「臼井城の戦い」を取り扱わせていただきました。

さて、ちなみにですが、浄三さんはこの4年後、阿波(あわ。徳島県)に姿を現します。それは『足利季世記(あしかがきせいき)』(戦国時代の畿内の合戦記)の「三好衆重蜂起之事」という章。

織田信長によって京都を追われた三好三人衆の勢力が政権を奪還するために、京都に近い場所に要害(城郭)を築こうと、勝瑞城(徳島県藍住町)で軍議を開いたそうです。

その時に「白井入道浄三」という者が、「摂州(せっしゅう)の野田と福島の地が、無双の勝地である。西は大海であり、四国・淡路(あわじ)へ船の往還の通路がある。南北東は淀川が流れていて、里の周りは沼田である。寔(まこと)に要害は、これに勝る所は無い」と述べて、その案が採用されたと記されています。

この後、野田城と福島城(どちらも大阪市福島区)は実際に三好方の拠点となって信長との「石山合戦」で使用されていますが、『足利季世記』も軍記物ですので、実際のところは不明です。

あ、あと『真書太閤記』に登場してくる浄三さんですが、こちらでは、明智光秀(あけちみつひで)に中国に伝わる3種類の占いの「三式」(太乙式、遁甲式、六壬式)を、また加藤清正に対しては「進放待(すはま)」(陣形の一種とされる)を教えたと描かれています。

いや、何者なんだよ! 浄三さん!!

※本稿は、『どんマイナー武将伝説』(柏書房)の一部を再編集したものです。

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