家康家臣の立場で秀吉を叱り飛ばし、利根川の流れも変えた!? 埼玉県伊奈町の由来になった武将とは…<インフラ工事の神>が残した偉業の数々

2024年5月23日(木)6時30分 婦人公論.jp


(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』などには著名な戦国武将が登場します。しかしその裏に、もっと注目されてもいい<どんマイナー>なご当地武将が多く存在する!と話すのが「れきしクン」こと歴史ナビゲーター・長谷川ヨシテルさん。長谷川さんがそんな彼らの生涯をまとめた著書『どんマイナー武将伝説』のなかから、今回は「インフラ工事のレジェンド・伊奈忠次」を紹介します。

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徳川家家臣に至るまでの波瀾の前半生


どの時代も人々が恐れるもの、その一つに水害があります。そのため、河川の工事によって庶民の生活に多大なる貢献をしたお方というのは、その地域で“神様”として尊敬されていることがよくあります。

有名なところだと、「信玄堤」と呼ばれる堤防の基礎を築いたとされる武田信玄は、山梨県民にとって神様そのものです。

そんな神的な人物が関東にもいまして、それがインフラ工事のレジェンド武将・伊奈忠次です!

私は埼玉県出身なのですが、埼玉県民は「伊奈」と聞けば伊奈町を連想する方が多いと思います。そうなんです、伊奈町という自治体名は忠次さんに由来していて、かつて伊奈町に忠次さんの居館である「伊奈氏屋敷」が置かれたことに由来するものなんです。

また、長野県民は伊奈町ではなく伊那市を連想するかと思います。そちらも忠次さんと関係があります。

『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』などでは、伊奈家はルーツを辿ると長野県南部の「伊那」だとされています。ところが、室町時代後半に御家騒動が起きたため、伊奈家はお隣の三河(愛知県)に逃れて故郷の地名を名乗ったそうです。

三河の地で、忠次さんの祖父にあたる伊奈忠基が松平家(のちの徳川家)の家臣となります。他国からの新参者ではありましたが、有能だったのか小島城(愛知県西尾市)の城主となったそうです。小島城の跡地には伊奈家が建立した西方寺(さいほうじ)が今も残っています。

インフラ工事の神・忠次さんの“基礎”


忠次さんは1550年(天文19)に小島で生まれたそうで、徳川家康の8歳年下にあたります。

このまま順風満帆かと思いきや、1563年(永禄6)の「三河一向一揆」(家康に反発した三河の一向宗による一揆)で忠次さんのお父さんの伊奈忠家が、一揆側に味方してしまったため松平家から追放、忠次さんも父に従って三河を離れ、伊奈家は再び流浪の旅に出ることに。

しかし、1575年(天正3)の「長篠の戦い」でお父さんが松平信康(家康の長男)の陣にこっそり参加して活躍。忠次さんは父とともに徳川家に復帰します。

こうして松平信康の家臣となったものの、4年後に家康と対立した松平信康は自害に追い込まれ、忠次さんはまたまた松平家を離れることになります。

先に三河を離れていた伯父(伊奈貞吉)を頼って、父とともに仕方なく堺(大阪府堺市)に仮住まいしていたところ、あの事件が起きます。1582年(天正10)の「本能寺の変」です。

この時、家康は偶然にも忠次さんが暮らしていた堺を観光していて、京都に戻るところでした。しかし、同盟相手の織田信長の死を聞いて、岡崎への決死の逃走劇「伊賀越」を決行します。

堺在住の忠次さん親子は独自にパイプを築いていたのでしょうか、この伊賀越えで大活躍をしたそうで、徳川家に復帰することを許されたそうです。まさに紆余曲折!

忠次さんは1586年(天正14)に家康が駿府城へ移った際に家康の近習(きんじゅう。側近)に大抜擢されます。これがインフラ工事の神・忠次さんの“基礎”です。

秀吉をも叱り飛ばした“サムライ”


忠次さんは最先端の情報や品々が入ってくる堺で土木知識を得たのでしょうか、ハッキリとはわかりませんが、家康からインフラ関係の仕事を任されるようになります。

たとえば、1590年(天正18)の「小田原征伐」(豊臣秀吉が北条家を滅ぼした戦い)。関東を目指す豊臣の大軍が、家康の領地の三河や遠江・駿河(静岡県)を通過することになりました。


(写真提供:Photo AC)

となると、大軍がちゃんと通過できるように、道路の整備や船の準備、その他にも進軍の段取りを組んだり、兵糧の準備や秀吉らの接待などなどをしたりしなくてはいけないわけですが、この実務を任されたのが忠次さんでした。豊臣軍は総勢20万以上といわれていますので、その仕事量を考えるだけで、私はお腹が痛くなりそうです。

このミスの許されない重要な仕事をしっかりとこなす忠次さん。それだけじゃなくて、進軍中の「秀吉を叱った」という武勇伝も『徳川実紀(じっき)』(『台徳院殿(たいとくいんでん)御実紀』)などに残されています。

秀吉が吉田(愛知県豊橋市)まで進軍してきた時、長い雨が続き、強い風も吹いているのに、秀吉がすぐに兵を進めようとしたので、忠次さんはしばらく吉田に滞在するように進言しました。

すると、秀吉は機嫌が悪くなり、「この先、大井川や富士川など大河に水が増せば、大軍は進みづらくなってしまう。だから今、風雨の中でも急いで兵を進めようとしているのだ。汝はどのような思慮があって止まれと言ってくるのだ」と怒ってきたといいます。

私だったら「すいません! 行ってください! お気をつけて!」とペコペコしてしまいそうですが、忠次さんは違います。秀吉を少しも恐れずにこう反論しました。

「急いで軍を進めるのは小軍の時です。40万余の大軍で風雨の中に大河を渡って溺(おぼ)れる者が10人でもいれば、敵には“数百人が溺れた”というように伝わるでしょう。戦いが始まっていないのに、これは味方にとって損が多いことです。戦期はまだ迫っていません。お願いですから、殿下(秀吉)はしばらくここに止まって人馬を休めてください。殿下の武威(ぶい)はすでに関東を併呑していますので、1日の遅れが勝敗に関わることはありません」

なんというスマート回答! 秀吉は大いに感動して、「徳川殿には良き士(さむらい)が仕えている」と話したそうです。

その後、北条家は滅亡を迎えるわけですが、その事後処理も大切です。北条家の居城だった小田原城を引き取ると、城内の蔵に残る兵糧の管理を徳川家が任されることになりました。

関東への領地替えが命じられてドタバタと忙しい家康から、担当に指名されたのが忠次さんです。なんだか武将っぽくない仕事ばかりのようですが、武将にとって合戦はあくまで数ある仕事のうちの一つで、普段は裁判だったり年貢の管理だったり警備だったり工事だったりと、今でいう公務員の方々のような仕事をしていました。

機転のきいた「クレバー」な対応


そんな仕事においてバツグンのアイディアと実行力を持っていた忠次さんは、小田原城の蔵に残る兵糧(粟10万石)を確認する時にも、才覚を発揮します。

兵糧はたくさん残っていたはずなのに、すぐさまその残量を合計して秀吉に報告したのです。「どうやって神速の合計をしたんだ」と家康に問われると、忠次さんはこう答えました。

「蔵に入ってすべての包みをひとつひとつ調べて量ったら、いくら日数を重ねても、成果を得ることは難しいでしょう。蔵の中の兵糧は、たとえ多くても減ることはないし、少なくても増えることはないので、豊臣家の役人と会議して“蔵を封印したまま”受け取りました」

つまり、忠次さんは蔵を開けずに、村役人に納めた年貢の量を記帳させて計算、超時間短縮を行い、さらに「兵糧、盗んだ?」とありもしない疑いをかけられないためのクレバーな対応をしたんです。

この忠次さんの機転に家康は感心、秀吉も「我に家臣は多いといっても、その才幹(さいかん。知恵や働き)が忠次の右に出る者はいない」と大絶賛して、「我に仕えれば禄(ろく。給料)は万石を与えるぞ」とヘッドハンティングしようとしたといいます。

「小田原征伐」の前後で合戦ではなく実務で名を挙げた忠次さんは、家康が関東に移ると武蔵の小室(埼玉県伊奈町)や鴻巣(埼玉県鴻巣市)などに1万石の領地を得て大名となりました。

そして、家康から関東代官頭(他に大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱)に任命され、合計100万石にもなる徳川家の領地の税を司る役人のトップ、いわば徳川家の“財務大臣”的なポジションに就いたわけです。

ちなみにこの後、忠次さんが領地に築いた城館が先に紹介した「伊奈氏屋敷」になります。

忠次さんは年貢の管理以外にも、太日川(ふといがわ。現・江戸川)沿いの市川(千葉県市川市)や松戸(千葉県松戸市)、房川(ぼうせん。埼玉県久喜市)の関所の管理、米の生産量アップのための新田開発、土地の管理や米の生産量を調べるための検地、徳川家の家臣たちの知行管理、宿場町や街道の整備、農民の養蚕や塩作りの推進、桑や麻や楮の栽培方法の普及などなど、とにかく多方面で辣腕(らつわん)を振るいました。

その影響力は江戸時代を通じて続き、忠次さんが始めた年貢の徴収方法(豊作や凶作に関係なく一定の税を徴収する方法)は、その後「伊奈流」と呼ばれるようになり、忠次さん流の検地は「伊奈検地」や「備前検地」、「熊蔵縄」(熊蔵は忠次さんの通称)などと呼ばれました。

忠次さんの偉業


その中でも忠次さんの偉業とされているのが河川工事です。

関東には河川や橋などの名前に「備前」と付いたものが様々な場所にあります。この備前というのは忠次さんの官職名である「備前守」のことで、忠次さんや子孫が手掛けたものに由来しています。

たとえば、私の地元の熊谷市から深谷市と本庄市にかけて「備前渠用水(びぜんきょようすい)」という農業用水路があります。利根川から引いているこの水路は、1604年(慶長9)から忠次さんが造ったもので、長さは約23キロもあります。

地元では「備前堀」と呼ばれるこの水路は、素掘りで掘られた忠次さん当時の遺構がよく残っていて、執筆現在では世界で142ヶ所しかない「世界かんがい施設遺産」(国際かんがい排水委員会が選んだ灌漑施設バージョンの世界遺産)に2020年に選定されています。

また、忠次さんは茨城県水戸市のほうでも千波湖から水を引いた水路を整備していて、こちらも「備前堀」と呼ばれています。大正時代から干拓によって千波湖が縮小したため、現在は桜川から水路を引いていますが、1610年(慶長15)に造った頃と同じルートで流れ、現在も農業用の水路として使われています。

桜川との分岐点には伊奈神社があり、備前堀に架かる道明橋(どうめいばし)には河川工事の指示を出している様子を表現した忠次さんの像が立っています。忠次さんは水戸の備前堀を造った年に61歳で亡くなっているので、その集大成ともいえる河川工事でした。

今に残る数々の治水システム


その他にも忠次さんはビッグプロジェクトの実行者を務めていまして、それが「利根川東遷事業」と呼ばれている大大大工事です。

“日本三大暴れ川”の一つにも数えられている利根川は、群馬県からスタートして埼玉県との県境を流れて東に進み、今度は茨城県と千葉県の県境を流れて太平洋に注がれるわけですが、実は江戸時代以前は全然違うルートだったんです。

途中までは一緒だったんですが、茨城県と千葉県の県境には行かず、そのまま南に流れて東京湾に注がれていたんです。ビックリですよね。

荒川も利根川も江戸のほうに注ぎ込むということで、江戸時代以前は江戸や関東平野は度重なる洪水に悩まされていました。この水害を防ぐために家康は利根川の流れを東に移す大プロジェクトをスタートさせました。そして、その事業のリーダーとなったのが忠次さんだったわけです。

1594年(文禄3)に会(あい)の川という利根川の支流を締め切って流れを遮断(埼玉県羽生市に跡地の川俣締切跡が残る)。

この「会の川の締め切り」を取っ掛かりとして、忠次さんの子である伊奈忠治と孫の伊奈忠克が事業を引き継いで工事を継続、1654年(承応3)の赤堀川の開削によって現在の利根川のルートに変貌を遂げています。スゴいぞ、伊奈一族!

他にも忠次さんは「伊奈流」(関東流とも)と呼ばれる治水システムを確立しています。

たとえば「中条堤(ちゅうじょうてい)」。この堤防も私の地元の熊谷市に残っているのですが、忠次さんは洪水対策として“水を逃す”方法を取りました。

河川を蛇行させて、水が溢れそうな場所で水をあえて溢れさせ、その先に水が逃げる場所(遊水地)を設置しておくシステムです。中条堤も溢れた水を受け止めて遊水地に逆流させるための堤防で、江戸を洪水から守るために存分に機能しました。

また、忠次さんは慶長年間(1596〜1615)に、四方を入間川や吉野川(現・荒川)などに囲まれた埼玉県川島町に街をグルッと守るように「川島領大囲堤」を築いています。

こちらも後世に受け継がれ、慶安年間(1648〜51)に川越城主の松平信綱によって増築が行われました。現在も大部分の堤防が現存していて、一部はサイクリングロードになっています。

伊奈町の自治体名の由来


忠次さんだけでなく、事業を受け継いだ息子の伊奈忠治も河川工事のスペシャリストで、栃木県から茨城県に流れる小貝川に洪水対策と農業用水のための「山田沼堰」を築造。この堰はのちに下流へと新たに設置されて「福岡堰」と呼ばれ、現在も用水路として使用されています。

そのため伊奈忠治は、福岡堰の東にある伊奈神社に祭神として祀(まつ)られていて、父・忠次さんと同じく、茨城県のほうの伊奈町の自治体名の由来となっています。

茨城県伊奈町は2006年(平成18)に合併してつくばみらい市となりましたが、埼玉県伊奈町と茨城県つくばみらい市は伊奈親子繋がりということで、現在、友好都市提携が結ばれています。

さらに伊奈忠治は、埼玉県川口市にあった赤山陣屋(赤山城とも)を拠点にしたことから、赤山陣屋跡の赤山歴史自然公園や川口駅の東口のビル、キュポ・ラに像が立てられています。

ちなみに忠次さんのお墓は、領地の一部だった鴻巣の勝願寺にあり、妻や息子の伊奈忠治夫婦のお墓も並んでいます。

伊奈親子のお墓以外にも、本多忠勝の娘で真田信之(幸村の兄)の妻となった小松姫(こまつひめ)や、漫画『センゴク』の主人公となった仙石秀久のお墓もありますので、ぜひご参拝いただければと思います。

※本稿は、『どんマイナー武将伝説』(柏書房)の一部を再編集したものです。

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