「井上尚弥は天才ではない」と父・真吾が断言する理由とは。「尚には素直さと愚直さがあった。いや、それは今でも」

2024年5月22日(水)12時30分 婦人公論.jp


(書影:講談社)

24年5月6日、東京ドームにて、マイクタイソン以来34年ぶりとなるボクシングのタイトルマッチが開催。世界スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥選手(大橋)が、元世界2階級制覇王者ルイス・ネリ選手(メキシコ)に6回TKO勝ちをおさめました。「日本ボクシング史上最高傑作」とも呼ばれる尚弥選手をトレーナーとして、そして父として支えてきたのが真吾さんです。今回、その真吾さんが自身の子育て論を明かした『努力は天才に勝る!』より一部を紹介します。

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「史上最強の高校生」として早くから注目を浴びて


尚は6歳からボクシングを始め、10歳のころにはプロをしのぐようなシャドーも見せました。

新磯高校(現・相模原青陵高校)一年で、インターハイ、国体、選抜の三冠を達成し、三年間で高校通算タイトルは五冠に輝きました。その他、三年時には、インドネシア大統領杯(プレジデントカップ)で金メダル、全日本アマチュア選手権も制し、高校生初のアマチュア七冠を達成しました。

それまでは現在帝拳ジムに所属している粟生隆寛選手が習志野高校時代に達成したアマチュア高校六冠が記録でした。前人未到とも言われたこの記録を尚が塗り替えると、「史上最強の高校生」として早くから注目を浴びました。

プロ転向後も四戦で日本ライトフライ級タイトルを獲得し、次戦の五戦目でOPBF東洋太平洋ライトフライ級も制しました。六戦で世界チャンピオン、その二戦後の八戦目で二階級王者となりました。そのために事あるごとに「天才」と書き立てられます。

「井上は別格だから」。

アマチュアの高校時代からよくそう評されるようになりました。出稽古で大学生相手にスパーリングに行っても、近い階級の選手は目を逸らし、20歳前後の選手には「やられるかもしれない」という雰囲気がありました。

尚弥は天才か


尚は天才なのでしょうか。


『努力は天才に勝る!』 (著:井上真吾/講談社現代新書)

答えは「否」です。謙遜や嫌味ではなく、尚は決して天才ではありません。センスのあるなし、とよく言いますが、まるでない、とは言いませんが、「普通よりやや上」といったところです。

尚がそれなりに運動神経に恵まれていることは明らかでした。運動会のリレーの選手に選ばれたり、マラソン大会でも上位に食い込んでいました。球技もそれなりにうまいようで、友だちとサッカーをしていても活躍できたようです。

とはいえ、2015年夏の甲子園で活躍した早稲田実業高校の清宮幸太郎くんのような身体能力に恵まれたタイプではありませんでした。

つまり尚にはずば抜けた資質があったわけではないのです。積み重ねた努力によって今の尚があるのです。

尚が中学生のころから、それまではジムごとに非公式に行われていたキッズボクシングが「U−15」と名づけられ、後楽園ホールで全国大会が開催されるように体制が整えられつつありました。キッズボクシングの黎明期でした。

昔も今もボクシングジムに通っているお子さんはいます。ただ練習の成果を披露できる機会に乏しかった。ライバルとなるような同世代の子どもたちとの交流も少なく、競い合うような関係にまで至ることはありませんでした。

当時、ボクシングは高校の部活動ではじめて全国的な大会が設置されていました。野球やサッカーのように中学での全国大会はありませんでしたし、ましてや小学生が参加できるような大会はありませんでした。プロの試合の前座のエキジビションとしてスパーリングを披露する程度で、各ジムで個別に研鑽するしかなかったのです。

高校時代からプロと打ち合えるスキルが備わっていたワケ


それでも各ジムの大会や高校の試合に出場するようになると、野球やサッカーに比べて競技人口は少ないものの、「おや、この子、将来は」と思えるような逸材が数名いました。ツボに入ったときの攻撃力は大人にも通用するものがありました。

他にも、それこそ身長、体格さえあれば今すぐにでもプロと打ち合えるくらいの潜在能力を持った少年たちが数名いました。

ただセンス溢れる選手にありがちなことですが、精神的に脆いとも感じていました。壁に当たって挫折をすると、ボクシングから離れてしまうケースが少なくなかったようなのです。

幼少期からジムで鍛えていた子が高校から始めた子に負けてしまうとプライドを傷つけられ、そのまま足が遠ざかるというケースも耳にしました。

尚はそうではありませんでした。

尚にも高校時代から、プロと打ち合えるようなスキルはありました。しかしそれは小一から積み上げてきたからです。高校入学からわずか四ヵ月でインターハイを制したので、アマチュアボクシング界には激震が走ったようです。でもそれも、尚が小一からやっていたからだったのです。

ごく簡単に言えば、高校ではじめてボクシングを習った子は三年生でもせいぜい二年半程度のキャリアしかありません。一方、尚には16歳で、身体は小さくともすでに約10年のキャリアがあったのですから。

積み重ねのために必要なもの


野球やサッカーも同じだと思いますが、技術は競技に接していた年数に比例します。

パンチ力には先天的な要素もあるでしょう。しかし、拳の一点に体重を集約し、そのパンチを最短距離で相手の急所にピンポイントで打ち抜くことができるようになるまでには、やはり時間を要します。

とは言え、時間をかけて根気よく指導していれば、大概のことは身につきます。パンチ力も練習で身につきます。

そのパンチを的確に相手の急所に当てるのは、日々の積み重ねがものを言います。この積み重ねのために必要なものは──本人のやる気、が第一です。

尚には素直さと愚直さがありました。いや、今でもあります。尚はボクシングに真摯に向かい合っています。地道に練習を繰り返して積み重ねることができました。

一度では覚えられなかったとしてもコツコツと地味な練習を反復することを厭わなかった、だからこそ今がある。自分が常に言い聞かせてきたことですが、おごらずに続けることができたからこそのことなのです。

天才とは


天才とは何か。

ボクシングで一時代を築いたマイク・タイソンを例にあげましょう。

彼は12歳までに51回も逮捕され、少年院に収監。少年院の更生プログラムとして行われたボクシングで頭角を現しました。この稀有な才能の持ち主はカス・ダマトという優れたトレーナーに出会い、厳しい訓練でその才能を開花させ、20歳でヘビー級の世界チャンプとなりました。

しかし、その栄光は長く続きません。ダマトの死後、転落がはじまります。アルコールやドラッグ、女性に溺れ、自堕落に過ごし、ろくな練習もせずに試合のリングにあがる。それでも勝ってしまい、より自堕落に過ごし、挙げ句の果てにレイプ事件で収監されます。

リングでの話題よりもリングの外での話題ばかりが報じられ、トラブルを抱えていく。そのトラブルから逃げるためにアルコールやドラッグにふける。その後のタイソンはといえば米連邦裁判所に自己破産を申請したり、器物破損容疑、コカイン使用で逮捕など悪いニュースばかり耳にしました。引退し、三度目の結婚をきっかけにようやく更生を誓ったと聞いています。

80年代後半までのタイソンは、世界中のどのボクサーも比肩しえないほど光輝いていました。全盛期にはタイソンが構えてにらんだだけで相手がすくみあがっていました。恐怖のあまり、空振りでも相手が腰を抜かしてダウンしてしまうほどの強さがありました。

しかしながら、2002年、世界王座統一の実績のあるレノックス・ルイスが正面から打ち勝つと、以後は畏怖されることも減り、二流の選手相手にもつまずく選手に成り果ててしまいました。

生涯レコードは58戦50勝(44KO)6敗、無効試合2。

「一流のチャンプ」といえなくもない、というレベルの戦績です。才能に溺れずに練習に励むことがあれば全勝全ノックアウト勝ちも夢ではありませんでした。「天から授かった才能をきちんと使えなかった」。悔しさが先に立ちます。

相撲でいえば朝青龍のように銀座のクラブで大酒をあおりながら、翌日の相撲では豪快な上手投げを決める、日本人はそういう選手に拍手喝采をおくる面もあります。しかし、もったいない。もっと精進すれば、白鵬をしのぐ平成を代表する名横綱になれたのに、と自分は口惜しさを感じてしまいます。

尚はといえば、銀座とも六本木とも無縁です。せいぜい海老名あるいは横浜くらいでしょう。覗いたことはありませんが、尚の携帯には「八重樫東」の名前はあってもグラビアアイドルやモデルの子の名前はないはずです。『FRIDAY』がどれだけ張り込んでも何も出てこないと思います。

※本稿は、『努力は天才に勝る!』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。

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