【曹操・劉備・孫権の人心掌握術】稀代のトリックスターか英雄か、劉備の魅力

2024年5月17日(金)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


曹操よりも人気がある?劉備の破天荒ぶり

 三国志における主役の一人、劉備。漢の皇室の血筋と言われた彼は、161年に生まれ、221年に60歳で蜀の皇帝になりました。徒手空拳、なにもない境遇から一人の男が一国の皇帝になった瞬間です。

 劉備はわらじを売る貧乏な少年期を過ごしました。漢の皇室につながるといってもはるか以前のことで、父は彼が幼いころに亡くなり、母子家庭で生活に苦労した子供時代でした。彼は、たった1つのものを除いて、何一つもっていなかった。それは、彼自身であり、彼の人間としての魅力です。

「口数こそ少なかったが、よく相手をたてて、めったに感情を表すことはなかった。男どうしのつきあいとなると、それを大事にしたので、人々は争って彼に交際を求めた」(書籍『三国志の世界』)

 劉備が24歳のころ、黄巾の乱が起こります。劉備は義勇軍を結成して戦いに参加。そのときすでに関羽と張飛は仲間でした。関羽、張飛は、のちに魏軍から「1万の兵に匹敵する」と言われたほどの勇猛な武人です。

 若き日の劉備に自分の命運をかけたその他の人物に、簡雍、孫乾、麋竺などがいます。彼らは自らの才能、財産を捧げて劉備を支えました。劉備軍団は黄巾の乱以降、さまざまな陣営に属し、また離れました。しかし、劉備を信じる者たちは一貫して劉備と同じ流浪の道を選び、ともに歩み続けます。


劉備を稀代のトリックスターにした兵法書『六韜』の力

 兵法書『六韜(りくとう)』を、中国古典に詳しい人はご存じだと思います。古代周王朝を築いた文王・武王を補佐した太公望という人物が描いたとされる兵法書です。劉備は、『六韜』を読むように息子の劉禅(りゅうぜん)に遺言しています。

 では、劉備が愛読した『六韜』は、どんな内容なのでしょうか。

『天下は君主ひとりのものではなく、天下万民のものです。天下の利益を共有しようとすれば天下を手中に収めることができますが、独り占めにしようとすれば天下を失ってしまいます』(書籍『六韜・三略』プレジデント社より)

 天下の利益を共有する者が天下を手にする。これは、自分に付き従い、挑戦を乗り越えた者にその成果を惜しまず与えることを意味します。劉備は天下を得ることを目指しますが、賛同者が、劉備の夢と自らを同化できるように仕向けたのではないでしょうか。

『天下を蓋うほどの度量があって、はじめて天下の人々を包容することができるのです。天下を蓋うほどの信義があって、はじめて天下の人々をまとめていくことができるのです。天下を蓋うほどの仁徳があって、はじめて天下の人々に慕われるのです』(同じく『六韜・三略』)

 劉備は、相手の肩書や生まれなどで差別をせず、見どころのある人物を君子、勇将として認めて受け入れました。今でいえば、「相手の承認欲求を満たす」人付き合いと対応。満たされない想いや夢を描いていた者たちは、自分の心を満たしてくれる相手である劉備に夢を重ね、彼と同じ道を歩むことに奮い立ったのではないでしょうか。


三国志を勇壮な物語にした、劉備の果敢な生きざま

 トリックスター(Trickster)という言葉には、2つの意味があります。1つ目は破壊と創造をもたらす者、物語を展開させていく者という意味。2つ目はペテン師、詐欺師という意味です。前者の「物語を展開させていく者」という意味では、劉備はまちがいなく三国志における最大のトリックスターです。

 劉備は、人生の後半から反曹操と漢王朝の復興という大義を掲げて中国大陸を奔走します。曹操に敵対する勢力を糾合した、赤壁の戦い(208年)は曹操、劉備、孫権が登場する時期の三国志のクライマックスであり、劉備は物語の盛り上げ役にふさわしい活躍をします。

 破壊と創造、そして物語を展開させていく者として、史実でも三国志演義という物語においても、劉備はトリックスターの役割をこれ以上ないほど果たして人生を駆け抜けました。


加入した組織がことごとく崩壊する劉備の「裏の顔」

 では、トリックスターの2つ目(ペテン師、詐欺師)の意味ではどうだったか。劉備には、「転がり込む能力」という特殊な才能がありました。大軍団となる過程で、劉備陣営はいくつもの別集団に転がり込んだのです。

●黄巾軍を討伐するも出世できず、学舎の先輩(公孫瓚)を頼り参謀になる
●公孫瓚から離れ、陶謙のもとに身を寄せる
●かくまった呂布に裏切られて敗走し、曹操を頼る
●曹操に英雄の資質を言い当てられ、出陣を兼ねて逃げ出す
●曹操に敵対するも破れて、袁紹のもとに走る
●官渡の戦いで袁紹が曹操に敗れて、荊州の劉表に身を寄せる

 劉表に身を寄せていた206年に、劉備は孔明に出会っています。劉備陣営は、自分より規模の大きい軍団に転がり込んでも、彼と部下たちは吸収されませんでした。この理由も恐らく劉備が学び続けた『六韜』にあったと思わせる記述があります。

『謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、なにごとも相手の意に逆らわず、頼りになる味方だと思わせるのです。こうして信頼を得たら、ひそかに策をめぐらして切り崩しをはかります。いずれ相手は自然に崩壊するにちがいありません』(『六韜』より)

『六韜』は鷹揚な仁義だけを推奨する甘い兵法書ではありません。権謀術数でも、天下を手にする書としてふさわしい助言を与えていたのです。劉備は『六韜』の教えに極めて近い人生を送った要素があり、トリックスターの2つ目の意味も満たしていたのです。


相手の中に英雄を見出して、自分についていきたいと思わせた劉備

 転がり込んだ陣営がつぎつぎ瓦解する中で、劉備軍団はその求心力の高さから団結を維持し、ついに曹操陣営に対抗できる蜀を建国する足跡は、あっぱれとしか言いようがありません。付き従った武将や智謀の士の、劉備への献身と結びつきの強さにも驚かされます。

『能力の高い人物は、それに応じた大きな餌(待遇)で集めて仕えさせよ。釣り上げた人物の能力が高いほど、あなたが手にする領土も大きくなる。天下を手に入れるには、独り占めせず、万民と天下を共有することだ』(『六韜・三略』)

 チームスポーツなどで名監督が就任すると、それ以前は普通の選手だった人がいきなりヒーローのような活躍をしたり、スター選手にのし上がることがあります。これは、選手の潜在的な能力もある一方で、名監督の「乗せる力」「その気にさせる力」がやはり大きいのではないでしょうか。

 劉備は、夢を相手と共有することができたと同時に、相手を乗せる力、相手をその気にさせる力を意識していたのではないでしょうか。劉備と初期から人生を共にした関羽、張飛の二人は、名門の生まれや上流階級の人間ではありませんでした。

 しかし彼らは劉備とともに歩み、劉備の苦難辛酸をともに味わい、劉備と命をかけて挑戦することで、中国の歴史に不滅の名前を残しました。劉備は、名もない人物の中に英雄を見出し、その素質を大きく開花させることで、皇帝になったと考えることもできるのです。

 人はだれもが、自分は価値ある人間であると信じたがり、何事かを成せる存在であると証明したがっているものです。劉備は、彼と同じく何も持たなかった者たちに、自分の人生を光り輝くものにするための「希望」を与えたことで人を動かしたのです。

*次回、孫権の人材掌握術に続きます

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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