平安期日本が未知の敵「刀伊」を撃退できた戦術・戦略的理由とは。『光る君へ』で竜星涼さん演じる隆家の発言に見る<来寇の脅威>と<紛争勃発の懸念>

2024年5月24日(金)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマでは藤原道長と伊周の権力争いが描かれましたが、伊周の弟・隆家が花山院に矢を放った「長徳の変」をきっかけに、兄弟は力を失っていきます。しかしその隆家、実は日本を救った英雄と言われているのはご存じでしょうか? 道長の全盛期、九州へ異民族が襲来。老人・子供は殺害、壮年男女が捕虜として連れ去られました。特に対馬・壱岐は壊滅状態に…。突如瀕した国家の危機に対応、外敵を撃退したのが隆家だったのです。歴史学者・関幸彦先生の著書『刀伊の入寇』よりその一部を紹介します。

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刀伊軍撃退に機能した戦術・戦略


そもそも刀伊の入寇とは…

藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬・壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部の女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。

道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。

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先日の記事に記した戦況とは別に、戦術・戦略上の留意点にもふれておこう。

戦闘で活躍した武者たちについては改めて別に検討するとして、戦術面で興味を引くのは、弓矢戦での鏑矢(かぶらや)の存在だ。

刀伊軍は能古島占領後にここを拠点に上陸したが、日本側の「加不良矢」(鏑矢)の音が有効だったという。

形が蕪(かぶ)に似た長円の中を空洞にして、鏑穴の音響で相手を射すくめ、威嚇する効果があった。その「鳴鏑(なりかぶら)」の音が刀伊軍の撃退に図らずも機能したのは注目される。刀伊軍は未体験だったのかもしれない。

積極的攻撃姿勢が功を奏して


次に戦略的流れでは、能古島から博多警固所への刀伊軍の攻撃にさいし、藤原隆家以下が有力武者を引率しており、それも上陸阻止に繋がった点だ。


『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書)

つまりは迎撃という受動的防衛でなく、積極的攻撃姿勢が功を奏した点である。戦場での即応態勢は評価されるべきだろう。

さらに兵船不足のなか、2日間にわたる大風による停戦状況下で兵船準備の促進がなされたこと、そしてその間に、刀伊軍の退路にあたる筑前志摩郡方面に軍略的布陣を展開させ得たことだ。

ちなみに警固所については、新羅海賊での経験が小さくなかった。

刀伊戦での史料に見える警固所も9世紀末の寛平期段階の設置とされているもので、他に肥前国高来(たかき)郡の「肥最崎(ひのみさき)警固所」(長崎県西彼杵郡)の存在が知られる。

その軍事的拠点は9世紀半ば以降に異国船来着の多発化にともなう海防施設であり、博多湾を軸に機能したことがわかる。

大宰府側の武力発動も警固所を介して機能した。兵船不足のなか、陸路より早良・志摩両郡へと精兵が配備され、「郡住人」との共同作戦が刀伊軍の撃退に繋がったことも興味深い。

律令軍団制の解体の中で


そのさい留意されるのは一般の府兵の存在だ。諸史料からは大宰府側の「精兵」なり「郡住人」の特別な武力とは別に、動員の対象となり得る兵力である。

それゆえに刀伊来襲時には「府兵、忽然トシテ集マラズ(大宰府の兵士はにわかに集まらなかった)」という状況もあった。その意味では、府兵の多くは農民だとしても、かつての律令軍団制下のそれとはおのずと異なる存在といえそうだ。

9世紀半ば以降の大きな課題は、東国での蝦夷(えみし)・俘囚(ふしゅう)問題と西国との新羅海賊問題に対応する軍事力確保だった。

律令軍団制の解体の中で、俘囚の武力を有効活用する方針が採られた。俘囚の鎮西・山陰方面への移住が促進された。俘囚の卓越した武力を利用するために、一般農民から俘囚稲を供出させ、軍団・徴兵制の肩代わりとさせる流れである。

先に語った警固所についていえば、貞観11年(869)年5月、新羅海賊により豊前国貢調船襲撃がなされた。これにより大宰府鴻臚館(外交および海外交易のための施設)に「夷俘」(俘囚)を移し、警固に当たらせている。

これ以外に俘囚の西国移送が9世紀後半以降目立っており、その武力への期待が大きかった。

現実には西国移送の俘囚たちが政府や大宰府の意図通りに動いたわけではない。が、その末裔たちが、北九州方面に移転・定着して府兵の一部を構成したことは否定できない。

刀伊戦での主軸の武力ではなかったが、大宰府の戦力としてこの俘囚およびその末裔たちがも律令軍団の欠を補う形で機能したのではなかったか。

紛争勃発への懸念


王朝貴族たちの異国・異域観が刀伊との戦いで鮮明化された点も興味深い。

刀伊戦にあって藤原隆家が率先して指揮に当たったことは諸史料からもわかる。その隆家の発言には国境認識が反映されていた。

『小右記』(寛仁三年四月二十五日条)の末尾に、追撃については「対島・壱岐に至るところまでとして、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」と隆家が戒めている点だ。

当時はもはや新羅ではなく高麗が正しいが、王朝貴族にとってその異域観では「唐」であり「新羅」の記憶が深い。とりわけ、対新羅との関係は常に緊張を強いられてきた。9世紀半ば以降の海防意識は対新羅に関する限り、常に来寇の脅威とともにあった。

それゆえに大宰府の精兵が兵船で刀伊軍を追撃した場合、生じる懸念は高麗海域への越境による紛争の勃発だった。

国力の劣等意識


10世紀以降の新羅来寇事件も重なり、わが国は対外的には消極外交にあった。

当初この刀伊襲来は新羅海賊(あるいは後継の高麗の勢力)の再来と解されていた。それほどまでに対新羅(高麗)への脅威が大きかった。

さらに王朝貴族には、大陸情勢の中で国力の劣等意識もあった。かつての新羅への負の記憶は刀伊戦での捕虜に高麗人がいたことで、来襲の主体に明瞭さを欠き、高麗の犯行と解する向きもあった。

隆家が対馬方面に向かった武者たちに、「新羅ノ境ニ入ルベカラズ」と訓令を与えたのも、右に述べた事情が伏在していたはずだ。

ちなみに、この時期を含め、わが国の版図の認識は漠然とながら存在した。北は陸奥国の外ヶ浜から南は九州の南西海上の鬼界ヶ島だ。

いうまでもなく琉球そして蝦夷地が領域化されるのは近代以降である。王朝時代を含めての北と南の範囲として、『曽我物語』の源頼朝・安達盛長の夢のエピソードを持ち出す必要もあるまい。

源頼朝が見た夢は、左の足を広げて外ヶ浜と鬼界ヶ島を踏みつけ、両袖に日月を入れ、南に向かって歩むという、天下統合を暗示するものであった。

その点では、王朝貴族が共有する版図として、実録(日記)に西の境を対島・壱岐としているのは興味深い。

*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。

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