桶狭間、稲生、石山本願寺…織田信長が劣勢でも戦に勝利できた本当の理由

2023年8月1日(火)6時0分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

大将としてのカリスマ性

 戦国武将・織田信長の意外な「温和」な一面を前回は見てきましたが、もちろん、単にお人好しで温厚なだけでは、戦国乱世を勝ち抜いていくことはできません。信長にはやはり、多くの家臣団を従えていくだけのカリスマ性というものがあったのです。そしてそのカリスマ性は、若い頃からあったと考えられます。

 時は弘治2年(1556)と言いますから、信長が22歳の時のこと。弟・織田信勝(信行)方と信長は戦をすることになるのですが(稲生合戦)、信長方は圧倒的に不利でした。信勝方の武将・柴田勝家は千人、林美作守は7百人の軍兵を率いて、信長軍に襲いかかろうとしていました。

 対する信長軍は、7百人にも満たない小勢という有様。有名な桶狭間の戦い(1560年)の時も、敵の今川義元の大軍(軍勢数は諸説あるが、約2万5千ほどか)に対し、信長軍は約2千ばかりとかなりの兵力差があったのですが、稲生合戦(名古屋市)の際もそうだったのです。

 しかし、桶狭間と同じく、この戦いも信長は勝利するのです。その要因の1つには、信長の大将としてのカリスマ性があったと私は考えているのですが、戦の経緯を見ていきましょう。

 最初、戦は信長方が負けていました。柴田勝家軍に、信長方は攻めかかるのですが、山田治部左衛門・佐々孫介ほか精強な者が討たれて、その軍勢は信長のもとにワラワラと逃げ帰ってくるような状態だったのです。信長の周囲には、槍持ちなど40人がいる程度。そのようなところを敵軍に急襲されたら、ひとたまりもありません。まさに絶体絶命のピンチ。信長はピンチをどのように切り抜けたのか?

『信長公記』には、この時、信長は、敵軍に向かい、大音声をあげて怒ったとあります。信長が何を言ったかまでは書かれていないのですが、とにかく信長は「大音声を上げ、御怒り」になったのです。すると敵の軍勢は「御威光」に恐れ立ち止まり、ついには逃げ去ったというのです。漫画やアニメでこうした場面が描かれたならば「そんなご都合主義的展開ある?」と感じてしまいますが、信長が本気で怒ったならば、そのくらいのことは起きてもおかしくないと思ってしまうから不思議です。まさに鬼神の如き、威光だったのでしょう。

 逃げ去る敵軍を信長の軍勢は追撃。信長自らは、南方にいる林美作守の軍勢に攻めかかります。林美作守と信長方の黒田半平は、何時間も斬り合うという死闘を繰り広げていたのですが、半平は左手を打ち落とされ、危うい状況となっていました。そこに信長が現れ、林美作守に斬りかかり、ついにその首をとったのでした。

 こうして、柴田・林の両軍は敗北。信長軍の勝利となったのです。怒髪天をつく迫力で敵軍を敗走させ、最後には総大将自らが敵将を討つ。率先して戦場を駆け廻る若き総大将に、味方の軍兵は鼓舞されたに違いありません。


「率先垂範でなければなりません」

 日本の実業家で、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者の稲盛和夫氏(1932〜2022)は、指導者、上司たるものは「率先垂範でなければなりません」と述べています(「率先垂範する」稲盛和夫officialsite)。「仕事をする上で、部下やまわりの人々の協力を得るためには、率先垂範でなければなりません」と稲盛氏は言うのです。

 同氏は「どんなに多くの、どんなに美しい言葉を並べたてても、行動が伴わなければ人の心をとらえることはできません。自分が他の人にしてほしいと思うことを、自ら真っ先に行動で示すことによって、まわりの人々もついてくるのです。 率先垂範するには勇気と信念がいりますが、これを常に心がけ実行することによって、自らを高めていくこともできるのです」(同前)とも述べています。

 前述の信長の事例で言うと、信長がいくら大声で敵軍に怒っても、自陣に留まり、ビクビクしていたら、軍兵は(何だ、この大将は・・)となってしまいます。信長が自ら打って出て、敵将の首をとるほど奮戦したから(我らの殿は凄い)(付いていこう)となったと思われます。つまり、戦に勝利したということのみならず、戦後においても、信長のカリスマ性を高めることに繋がったと推測されます。

 もちろん、リーダーが何でもかんでも「率先垂範する」ことの害悪というものもあるのですが、時と場合によっては、その「率先垂範」が大きな効果を発揮することがあると言えましょう。桶狭間の戦いの時も、信長は戦闘開始前に、槍をとり「すわ、かかれ、かかれ」と大音声を上げています(『信長公記』)。稲生合戦の時と同じように、信長は味方の若武者らと先を争うようにして、敵兵を切り伏せ、倒していったのでした。

 こうしたことを見ていると、稲生合戦は、信長にとって、桶狭間合戦の「予行演習」のような役割を果たしていたのではないかと、私は勝手に想像してしまいます。

 信長が戦場を駆け廻ったのは、何も若い時だけではありません。天正4年(1576)、42歳になっても同様でした。大坂の石山本願寺との戦い。窮地に陥った家臣の明智光秀らを救援するため、信長は軍勢を率いて、駆け付けるのです。この時も敵は約1万5千。味方は3千という劣勢でした。既に右大将となっていた信長でしたが、足軽に混じり、戦場を駆け廻り、次々に下知し、軽い鉄砲傷まで負っているのです。数千挺の鉄砲で弾雨を降らす敵軍。その中を信長は味方とともに突入し、本願寺方を切り崩すことに成功したのです。

「大将が自ら戦場を駆け回るなんて無謀」「大将が戦死したらどうするんだ」との声も聞こえてきそうですが、兎にも角にも、信長は「率先垂範」で戦の危機を突破してきたことは確かと言えましょう。

筆者:濱田 浩一郎

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