ノーベル文学賞候補の作家も通った「街のリビングルーム」読書机のあるカフェ

2023年8月13日(日)12時0分 JBpress

ヨーロッパの人たちにとってのカフェは、文化や歴史に根付きくらしの一部。人生を豊かにしてくれるカフェ文化をこよなく愛し、カフェ巡りをライフワークとしているエッセイストの柏原 文さんが、一度は行きたいヨーロッパのカフェを、珈琲と人生にまつわる物語と美しい写真ともにご紹介。ぜひ珈琲のお供にぜひお楽しみください(全5回)。

取材・文=Aya Kashiwabara 写真協力=飯貝拓海 編集協力=春燈社

*本稿は『ヨーロッパのカフェがある暮らしと小さな幸せ』(リベラル社)の一部を抜粋・再編集したものです。


アムステルダムのリビングルーム

「カフェアメリカン」はヨーロッパで最も洗練されたカフェのひとつだと思う。アールデコ様式の眩いばかりの装飾に、気鋭に富んだオランダ独自のスタイルが加わり、落ち着きのある素敵なカフェ空間だ。アムステルダムの建築の父と呼ばれたベルラー様式で、1902年にクロムハウトらによって建てられたホテル内にあり、国の文化財に指定されている。

 50〜60年代の全盛期には音楽家や芸術家のたまり場となり、地元の多くの人々にとっては初デートやお祝い事には欠かせない場所として、《街のリビングルーム》と呼ばれていた。

 とりわけこのカフェを特別にしたのが、アムステルダムで初めて設置されたという、読書用の長テーブルである。すでに名を馳せていたウィーンやベルリンの華々しいコーヒーハウスの噂を耳にしたオーナーが、後に続けとカフェの中央に長いテーブルを置き、日刊紙や雑誌をずらりと並べた。

 当時ベルリンの老舗カフェが取り揃えていたという600種類もの新聞や雑誌には及ばなかったにせよ、一流の新聞各種を自由に読むことができたのは画期的なことに違いなく、多くの文化人たちは珈琲を飲みながら、こぞってこのテーブルであらゆる地域、世界の情報にふれ、また時に仕事机として使用してきた。


名前が付いた読書机

 どんな伝説的なカフェにも必ず存在するように、このカフェにも著名な常連客がいた。オランダで最もノーベル文学賞に近いと誉れの高かった作家のハリー・ムリシュである。

 彼はこのカフェの常連であるだけでなく、この長い読書机を長年愛用して新聞や雑誌を読み、また、作品を書き、65歳の時に著わした『天国の発見』が世界的なヒットとなる。それはカフェの誇りともなり、彼が帰らぬ人となった2010年以降はそんな彼に敬意を表してこの長い読書机は《ハリー・ムリシュの読書机》と呼ばれるようになった。

 それから月日がたち、カフェも時代の流れに逆らえず、アメリカの大型ホテルチェーンの手に渡ることになる。それに伴い新聞の定期購読は中止されることになり、この読書机は地下に追いやられた。そしてその空いた場所にはセルフサービスのサラダバーが設置されることになった。

 街の小さな伝統の一つが静かに消えかかろうとしたその時、「あの読書机はどこにいったんだろう」という疑問がホテルのオンラインレビューに書き込まれた。それを皮切りに市民の声が次第に大きくなっていき、ついに新しいホテルのオーナーは市民の要望にこたえる形で、このテーブルと新聞購読を復活させることにしたのである。


古き良き時代の再現

 ランプひとつとっても丁寧に修復され、手入れも行き届いているアールデコの装飾を見るにつけ、アメリカ資本にも感謝せざるを得ないと思う。なにせ店内に入るなり、思わずため息が漏れる美しさなのである。

 しかし、だ。店の奥にあるこの長い読書机が醸し出すいぶし銀のオーラにはかなわない。というのも、私はこの読書机について何も知らずにカフェにいた。トイレに行く際に目の隅に入ったのだが(今は奥の目立たないところにある)通り過ぎるのを許さない存在感を放っていたので、思わず立ち止まってしまった。後で気になって調べたところ、この読書机の物語が見つかったのである。

 このテーブルの側面には、彼が遺した言葉が刻まれているという。

“What isn’t read, isn’t written. What isn’t heard, isn’t spoken. What isn’t seen, doesn’t exist”

(読まれないものは、書かれない。聞こえてこないものは、語られない。見えないものは、存在しない)

 この読書机が目に留まり、その記事を読み、今書いている。聞いてくれるあなたがいて話し、それはまた誰かに語り継がれるかもしれない。ここに読書机はその姿を現し、我々の心に蘇る——。

 あなたの心に眠っている大事なものはありますか。

Café Américain
Leidseplein 28, 1017 PT Amsterdam Netherlands

筆者:Aya Kashiwabara

JBpress

「ノーベル文学賞」をもっと詳しく

「ノーベル文学賞」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ