「生まれて、すみません」は剽窃?太宰治の、自分で自分をダメにする生き方

2023年9月26日(火)12時0分 JBpress

妻の姦通を知り心中にも失敗。失意の最中、『二十世紀騎手』の副題「生まれて、すみません」が盗作だとする剽窃(ひょうせつ)事件が起こり、さらに太宰は追い詰められてしまいます。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

繰り返す自殺と心中、そして剽窃事件

 前回、少し触れたように太宰は何度か死のうとしています。

 芥川龍之介の自死から2年後、高等学校在学中の20歳の時に、馴染みの芸者紅子(小山初代)と、カルモチンという鎮静催眠剤を大量に飲んで心中未遂事件を起こします。

 その翌年、東京帝国大学に合格して上京した太宰は、11月、銀座の女給・田部シメ子と鎌倉七里ヶ浜でカルモチン自殺を図り、シメ子は死んでしまいます。その5年後の1935年にはひとりで縊死を図り、1937年には初代の姦通を知ったことからカルモチン心中を図りました。太宰がパビナール中毒治療のため入院したり、第3回芥川賞の落選という出来事が起こったりするなか、初代は姦通を犯したのです。

 心中を図ったのちふたりは別居し、太宰はしばらく無為の日々を過ごすことになります。そしてこの年の12月、『二十世紀騎手』が刊行されます。

 生きて行くためには、パンよりも、さきに、葡萄酒が要る。三日ごはん食べずに平気、そのかわり、あの、握りの部分にトカゲの顔を飾りつけたる八円のステッキ買いたい。失恋自殺の気持ちが、このごろになってやっと判ってまいりました。花束を持って歩くことと、それから、この、失恋自殺と、二つながら、中学校、高等学校、大学まで、思うさえ背すじに冷水はしるほど、気恥ずかしき行為と考えていましたところ、このごろは、白き花一輪にさえほっと救いを感じ、わが、こいこがれる胸の思いに、気も遠くなり、世界がしんとなって、砂が音なく崩れるように私の命も消えてゆきそうで、どうにも窮して居ります。からだのやり場がございません。私は、荒んだ遊びを覚えました。そうして、金につまった。いまも、ふと、蚊帳の中の蚊を追い、わびしさ、ふるさとの吹雪と同じくらいに猛烈、数十丈の深さの古井戸に、ひとり墜落、呼べども叫べども、誰の耳にもとどかぬ焦慮、青苔ぬらぬら、聞ゆるはわが木霊(こだま)のみ、うつろの笑い、手がかりなきかと、なま爪はげて血だるまの努力、かかる悲惨の孤独地獄、お金がほしくてならないのです。 

    太宰治 『太宰治全集2』より『二十世紀騎手』(ちくま文庫)

 この小説には「生まれて、すみません」という副題がありました。ところがこの副題をめぐって思わぬ事件が起こります。この言葉は剽窃だと訴えられるのです。


「生まれて、すみません」の毒素に冒される

 1934年(昭和9)、太宰は檀一雄、中原中也、山岸外史らと文芸誌『青い花』を刊行します。創刊号だけ出して廃刊になり、空中分解してしまいますが、慶応大学で箱根駅伝にも出場した寺内寿太郎という詩人も関係していました。寺内は大学卒業後、会社に勤めをするのですがとことん失敗して、ガリ版刷りで遺書のような詩集を作って、太宰など『青い花』関係者に送りました。そこには「生まれて、すみません」という言葉が書かれていたのです。

 寺内は太宰の親友でもあった山岸外史に、「これは剽窃だ。俺は命を盗まれたような気持ちだ」と訴えた後、行方知れずになってしまいます。山岸も「なんてことしたんだ。人の言葉を無断で使うのは、人の魂を奪うことだ」と太宰を責めたといいます。

 太宰がこの言葉を使った理由は、山岸の言葉だったと勘違いしていたからでした。山岸と太宰の間にはどちらかが売れればいいということで、お互いが使った言葉を自由に使ってかまわないという取り交わしをしていたのです。

 誤解から犯してしまった「剽窃」だったかもしれませんが、この時から太宰は文章を書きながら人の言葉を使ってしまっているんじゃないか、自分は偽物なんじゃないか、ということを意識し始めます。おそらく作家としての自分の存在意義に、自信をなくしてしまったのだと思います。

 さらに「生まれて、すみません」という言葉が自分の身の中に染み込んでいき、毒素のように太宰を冒していきます。

 川端は表向きには言っていませんが、心中で女性だけがなくなり、自分だけ助かった。それでもそれを題材にして小説として書くというその汚さは、小説家として認めるわけにはいかないのではないか。そうと思っていました。

 それに加えて人の言葉を自分の言葉として使ったことが、川端はじめ世間に知られていると思った太宰は、もう、どうしようもない所に行くしかなかったのではないでしょうか。

 1938年(昭和13)、初代と別れた後、井伏鱒二の紹介で地質学者・石原初太郎の娘・美知子と見合いをし、翌年結婚します。しかし、その後歌人の大田静子と知り合い、子どもをもうけるほどの仲になります。太宰は死の前年、大田静子の日記を借りて『斜陽』を書き、その年ベストセラーになります。大田静子は太宰のために日記を焼いたと伝わっていますが、太宰が山崎富栄と心中した後に、「あれは私が書いていた文章を太宰が盗ったものです」と、裁判沙汰にしています。

 なんとか生きて行かないといけないということはあったにしろ、太宰は自分で自分をダメにしてしまうような生き方を選びました。

『二十世紀騎手』を書いた時、太宰はまだ28歳でした。これから小説で身を立てていこうという時に、人の文章を盗み、その毒が回って駄目になったとするならば、『二十世紀騎手』を書いた時点で、既に分岐点を自分で選んでしまったのかもしれません。

 山崎富栄にも自分は独身だと嘘を言って仲良くなり、今で言うなら1000万円もの富栄のお金を、抱えていた面倒をチャラにするため使い果たしてしまいます。

 そして蜘蛛の巣にかかったように、もがけばもがくほど逃げ場がなくなり、心中を選んでしまうのです。

 弱い自分、みっともない自分を知り尽くしていた太宰は、死ぬことにだけ命をかけて行くという生き方でした。そういう目で作品を読むと、よく理解できると思います。

 山岸外史は、疎開で東京を離れていたので、自分がもしも太宰のそばにいてあげられたら心中しなかったんじゃないかと言っています。

 太宰の弱さはどこからくるものなのか、そして何度か死を選んだ理由とは何かについては、後編で述べたいと思います。

筆者:山口 謠司

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