牧野冨太郎の親友・池野成一郎と平瀬作五郎の友情、矢田部教授の妻のその後

2023年9月29日(金)8時0分 JBpress

日本植物学の父・牧野冨太郎をモデルとした、NHKの連続テレビ小説『らんまん』も、最終回を迎えた。神木隆之介演じる主人公・槙野万太郎や、万太郎の妻・浜辺美波演じる槙野寿恵子のみならず、脇を固めた登場人物も大変に魅力的で、彼らの背景や、その後も気になるのではないだろうか。そこで今回は、前原滉演じた波多野泰久、亀田佳明演じる野宮朔太郎、中田青渚が演じる田邊聡子をご紹介したい。

文=鷹橋 忍 

波多野泰久のモデル? 池野成一郎

●孫は、映画音楽を手がけた作曲家

 前原滉が演じた波多野泰久のモデルの一人と思われるのが、植物学者の池野成一郎である。

 妻の幾玖(きく)は、植物学教室の松村任三教授の妹である。松村は、田中哲司が演じる徳永政市のモデルと思われる。

 池野の孫・池野成は、山本薩夫監督の『白い巨塔』や黒田義之監督の『妖怪大戦争』など、数多くの映画作品に携わり、楽曲を手がけた作曲家だ。

●ソテツの精子の発見者

 池野は江戸時代の慶応2年(1866)年に、神田駿河台(東京都千代田区)の旗本家に生まれた。

 文久2年(1862)生まれの冨太郎より、4歳年下である。

 東京開成学校、大学予備門を経て、明治23年(1890)、帝国大学理科大学植物学科を卒業。翌明治24年(1891)年、帝国大学農科大学助教授となった。

 池野は農科大学の助教授となってからも、よく植物学教室を訪れていた。

 画工から植物学教室の助手となった平瀬作五郎が進めていたイチョウの受精についての研究に力を貸していたのは、この頃だったという。

 平瀬作五郎に関しては、後述する。

 明治29年(1896)、平瀬がイチョウの精子を発見し、その二ヶ月後に、池野もソテツの精子を発見する。池野と平瀬はのちに、この発見により恩賜賞を授与されることになるが、これも後に述べよう。

 池野は明治39年(1906)、ドイツ、フランスに留学する。

 明治42年(1909)に帰国し、東京帝国大学農科大学(明治30年に、帝国大学から東京帝国大学に改称)の教授となった。

●牧野冨太郎の親友

 富太郎曰く、池野は大変に頭がよく、語学の天才だった。特にフランス語に、堪能だった。

 池野は富太郎に対して最初から親切で、富太郎も池野に誰よりも親しみを感じていたという。冨太郎は池野を、「親友」と称している。

 矢田部教授の圧迫を受けたときも池野は富太郎に手を差し伸べ、ロシアの植物学者マクシモヴィッチ博士のもとへ行く計画が頓挫したときも、肩を叩いて励ましたという。

 富太郎は、池野との友情は生涯、忘れられないものだったと、自叙伝に綴っている。

 池野は年上の富太郎より早く、昭和18年(1943)10月4日、77歳で亡くなった。


野宮朔太郎のモデル? 平瀬作五郎

●16歳で図画術教師助手を拝命

『らんまん』に登場する、植物学教室の画工を勤め、イチョウの精虫を発見した野宮朔太郎は、平瀬作五郎がモデルと思われる。

 平瀬は安政3年(1856)に、越前国(福井県)足羽郡で、福井藩士・平瀬儀作の長男として生まれた。

 冨太郎より、6歳年上である。

 小野勇『平瀬作五郎伝(補遺)』(日本生物科学者協会編『生物科学』第39巻 第2号所収)によれば、平瀬は明治2年(1869)、通称・福井藩中学校(福井藩の藩校・明道館 後の明新中学校)に入学したと推定され、在学中に加賀野井という人物から、油絵を学んだという。

 この頃から平瀬の画力は、秀でたものであったらしく、明治5年(1872)、16歳で福井藩中学校を卒業すると、同年4月に母校の図画術教授補助を拝命し、就職している。

●帝国大学理科大学の画工に

 ところが、平瀬は翌明治6年(1873)には、福井藩中学校を退職。東京に出て、山田成章という人物から写実派油絵を学んだ。

 山田成章は明治16年(1883)に東京大学御用掛となり、明治19年(1886)に非職となっており、東京大学医学部の画工だったとされる。

 平瀬は、明治8年(1875)に帰郷。

 図画教員として、岐阜県の中学・遷僑学校で勤務し、図画や体育を教えつつ、数種類の図画教科書を著している。

 明治21年(1888)4月には、帝国大学理科大学の植物学教室に画工として就職する。平瀬は32歳になっていた。

 植物学教室で平瀬は、植物図や解剖図を描いたり、プレパラート(顕微鏡で観察するためにつくった標本)の作成に携わったりした。

 当時の植物学教室の教授であった、田邊教授のモデルと思われる矢田部良吉は、図を書くのが得意ではなく、平瀬に「植物らしい図を描いてくれたまえ」と言って笑ったという(小野勇『平瀬作五郎伝Ⅱ』日本生物科学者協会編『生物科学』第35巻 第3号所収)。

●イチョウの精子の発見

 平瀬は明治26年(1893)7月からイチョウの研究をはじめ、9月に植物学教室の助手に抜擢された。

 ちなみに矢田部良吉教授から植物学教室の出入りを禁じられていた牧野富太郎も、呼び戻され、平瀬とともに助手に任命されている。

 平瀬は前述したように、帝国大学農科大学助教授となった池野成一郎の助力を受けて研究を続け、明治29年(1896)1月、イプレパラートでイチョウの精子を発見。同年9月には顕微鏡で、泳いでいる(動いている)イチョウの精虫を観察することが叶った。

 これは大発見であったが、「植物学者でもない人間が、偶然に見つけただけだ」、「池野成一郎が力を貸したからこそなし得たことだから、これは池野の発見とするべき」などと、当時の学会では、学歴がない平瀬の研究を認めない者も多かったという。

●池野成一郎博士との友情

 イチョウの精虫の発見から1年後の明治30年(1897)9月8日、平瀬は突如として大学を退職した。

 その理由は明らかでないが、教授間の権力争いが絡んでいたともいわれる。

 平瀬は退職の二日後から滋賀県尋常中学校で勤務し、明治38年(1905)には京都の私立花園学林に赴任した。

 明治39年(1906)からは、イチョウの研究を再び初めている。またクロマツの研究も手がけた。

 明治45年(1912)には、思いがけない朗報が舞込んだ。

 平瀬はイチョウの精子発見、池野はソテツの精子発見の功績により、平瀬と池野に、帝国学士院から、学界で最も名誉と権威のある「恩賜賞」が贈られたのだ。

 帝国学士院は当初、池野だけに賞を授与するつもりだった。学歴もなく博士でもない平瀬は、賞の対象外だったのだ。

 ところが、池野は「平瀬が貰えないのなら、私も断わる」と断言したため、平瀬にも授与されたと伝えられる(小野勇『平瀬作五郎伝4』日本生物科学者協会編『生物科学』第36巻 第2号)。

 真偽は定かでないが、ドラマの波多野泰久と野宮朔太郎の固い絆を思い浮かべると、真実のように思えてくるのではないだろうか。


田邊聡子のモデル? 矢田部順(シユン)

●壽衛子より年上だった

 田邊教授の妻・田邊聡子のモデルと思われるのが、矢田部良吉教授の妻・矢田部順である。

 順は、明治2年(1869)9月に生まれた(田中正明 時空を紡いで:「柳田國男と山崎珉平・矢田部良吉」を受けて 掲載誌 伊那民俗学研究所編集委員会編『伊那民俗研究』)。

 江戸時代の嘉永4年9月19日(1851年10月13日)生まれの夫・矢田部良吉より、18歳も若い。

 冨太郎より7歳年下で、明治6年(1873)生まれの冨太郎の妻・牧野壽衛子よりも、4歳年上となる。

●日本民俗学の創始者・柳田國男は、妹の夫

 順の父親は、信州飯田出身で大審院判事を務めた柳田直平である。母は琴という。

 柳田直平と琴の夫妻の間には、長女の順をはじめ、四人の女子が誕生している。

 姉妹のなかで特筆すべきは、四女の孝だろう。

 孝の夫は、日本民俗学の創始者と称される柳田國男である。

 柳田國男は、旧姓を「松岡」という。

 國男は、明治34年(1901)に柳田直平の養嗣子となり、明治37年(1904)に孝と結婚した。

 つまり順は、柳田國男の義理の姉なのだ。

●19歳で矢田部教授の妻に

 順が矢田部良吉と結婚したのは、明治21年(1888)5月10日、矢田部は37歳、順は19歳の年である。

 ドラマでも触れていたが、矢田部の前妻・矢田部録は、前年の明治20年(1887)10月に30歳の若さで亡くなった。

 矢田部と録の間には、二男二女が誕生している(太田由佳・有賀暢迪「矢田部良吉年譜稿」国立科学博物館)。

 順は昭和25年(1950)発行の『学苑』12(4)(113)に「夫の性格の一面」というタイトルの随筆を寄稿しているが、(名前は「矢田部シユン」と表記されている)、それによれば、矢田部との結婚において、「外国のマナーを知ること」が、条件の一つだった。

 そのため順は外国人女性の下で、外国式の作法を学んだという。

 矢田部は大変な凝り性であり、すべてにおいて洋式だった。結婚後、家の中もアメリカ風で、テーブルと椅子での生活だったと、順は綴っている。

 前述の「矢田部良吉年譜稿」によれば、矢田部と順の間には、4人の男子が誕生した。

●長寿をまっとう

 明治34年(1899)8月、ドラマでも触れられたように、矢田部は鎌倉で溺死した。享年48であった。

 一方、順は昭和34年(1959)9月まで、存命している(田中正明 時空を紡いで:「柳田國男と山崎珉平・矢田部良吉」を受けて)。

 昭和31年(1956)9月発行の『近代文学研究叢書 第4巻』(昭和女子大学近代文学研究室著)収載の「矢田部良吉」には、同年に順の米寿の祝いがなされたこと。

 吉祥寺十三番地にある息子・矢田部勁吉(五男 国立音楽大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授となった声楽家)の邸宅において、元気な姿と声で、矢田部の思い出話を語ったことが記されている。

 ドラマの聡子も、愛する夫の思い出を胸に、長寿をまっとうしたと信じたい。

筆者:鷹橋 忍

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