信長、秀吉、家康がこぞって利用した干し柿の王様「堂上蜂屋柿」。信長はポルトガルの宣教師に振る舞い、家康は関ヶ原合戦前に…

2024年10月3日(木)12時30分 婦人公論.jp


堂上蜂屋柿は(一財)食品産業センター認定「本場の本物」に認定されている。写真:美濃加茂市堂上蜂屋柿振興会

農林水産省が実施した「作況調査(果樹)」によると、令和4年産果樹の結果樹面積は16万6,000haで、15年前と比べて4万4,200ha減少したそうです。近年の経済不況も手伝って、果物が食卓に並ぶ機会が少なくなっていますが、技術士(農業部門)で品種ナビゲーターの竹下大学さんは「日本の果物は世界で類を見ないほど高品質。それゆえ<日本の歴史>にも影響を及ぼしてきた」と語っています。そこで今回は、竹下さんの著書『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』から「堂上蜂屋柿」についてご紹介します。

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干柿のブランドナンバーワン「堂上蜂屋柿」


干柿のブランドとしては「堂上蜂屋」が一番だ。貫禄たっぷりな見た目もそれを後押ししている。

堂上蜂屋柿は、縦長で大きく果肉が緻密で種子が少ないうえに、大きい果実のわりに水分が少ない特徴がある。そのため干柿にした際の重さは、ふつうの干柿の約2倍にもなる。「堂上」とは、朝廷への昇殿を許されたという意味だ。

1188年(文治4年)、蜂谷甚太夫がこの干柿を源頼朝に献上した際に、頼朝から蜂蜜の甘みがあると賞賛され、村とカキに蜂屋の名を給わったとの伝説が残る。それまでは「志摩」という地名で呼ばれていたとされる。

蜂屋村は中山道太田宿のすぐ北に位置した。岐阜県美濃加茂市蜂屋町上蜂屋(かみはちや)にある瑞林寺(ずいりんじ)は、文明年間(1469〜87)に創建された。

瑞林寺を創建した仁済(じんさい)和尚は、室町幕府第10代将軍足利義稙(よしたね)に蜂屋柿を献上したと伝えられている。このとき、義稙は瑞林寺を柿寺と名づけてもいる。

信長、秀吉、家康がこぞって利用した堂上蜂屋柿


干柿は平安時代に朝廷への献上品となり、以来天皇や歴代将軍に献呈され続けた。「堂上蜂屋」の場合は、室町時代の足利将軍から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にいたるまでだ。理由は品質が抜きんでていたからに違いない。もちろんブランドという点でもだ。

信長、秀吉、家康の3人が3人とも、それぞれ重要な場面で干柿を用いている。


『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(著:竹下大学/中央公論新社)

信長は、茶席でポルトガルの宣教師ルイス・フロイスに箱入りの蜂屋柿をふるまった。

キリスト教布教を許可する允許状(いんきょじょう)を京で与えられたお礼のために、1569年(永禄12年)にフロイスが岐阜城に参上したときである。

フロイスは自著『日本史』に美濃(現岐阜県南部)の干しイチジクと記載しているが、イチジクは日本には存在しなかったし、逆にカキはヨーロッパに存在しなかったため、干柿の間違いだとされる。美濃産とくれば、堂上蜂屋柿であった可能性は高い。

諸役免除、年貢米の軽減まで


秀吉は、蜂屋村に諸役免除の特典を与えている。

1597年(慶長2年)12月には、朝鮮から戻った毛利輝元を伏見城の奥座敷に招き慰労した。その際に、秀吉は当時5歳の秀頼から輝元にのし柿を与え、輝元は大感激したと伝えられる。

のし柿とは、干柿をのしたものであろう。輝元は3本の矢で知られる毛利元就の孫だ。

その後秀吉は、徳川家康、前田利家、小早川隆景、宇喜多秀家とともに、毛利輝元を五大老に定め、秀頼の後見役に任じた。

1600年9月、家康は大垣城(おおがきじょう)にたてこもる石田三成らの西軍を討つべく出陣。

岐阜城から美濃赤坂への行軍途中、墨俣(すのまた)宿で瑞林寺の江国和尚が村民とともに大きな蜂屋柿を家康に献上したと伝えられている。時は関ヶ原の戦いの前日であった。

家康は「早速大がき手に入る吉兆」と大いに喜び、諸役免除継続を約束したと伝えられる。

天下取りを果たした家康はさらに、1605年に蜂屋村を御菓子場に指定してお役御免とし、諸役免除に加えて年貢米を軽減した。

処刑直前に石田三成が発した名言


豊臣秀頼からのし柿を与えられ大感激した毛利輝元であったが、西軍総大将として関ヶ原の合戦に参戦すべく大坂城に入ったにもかかわらず、出陣することはなかった。石田三成の参戦要請にも応じなかったのである。理由は秀頼を守るためだったとも言われる。

石田三成も干柿好きで知られる人物だ。『茗話記(めいわき)』と『明良洪範(めいりょうこうはん)』に次のような干柿のエピソードを残している。

捕らえられた三成は、二条城の北側にあった京都所司代に監禁された。1600年(慶長5年)9月28日に市中引き回し、10月1日に京都六条河原で処刑されて首は三条河原に晒されている。

この処刑直前に、喉の渇きを覚えた光成が白湯を求めたときの話である。

警固の者が白湯は手に入れづらいので代わりに持っていた干柿を勧めたところ、三成はカキは痰の毒だからと断った。これを聞いた警固の者は、もうすぐ首をはねられる者がそんなことを気にするなどと大笑い。

当の三成はというと、大義を思う者は首をはねられる瞬間まで命を大切にして、何としてでも本意を達しようと思うものだ、と彼に言い返したのだそうだ。

※本稿は、『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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