スカイツリーの落差を3分で「落ちる」エレベーターで採掘へ…『海に眠るダイヤモンド』で注目!世界最大の人口密度「軍艦島」での驚くべき暮らしの実態とは
2024年10月21日(月)14時25分 婦人公論.jp
無人の廃墟と化した軍艦島。代わりに植物が繁茂している(写真:長崎県観光連盟)
2024年10月21日から放送が始まった日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』(TBS系)。神木隆之介さんが主演を務め、愛と友情、家族の絆を描く壮大なヒューマンラブエンタテインメントです。その舞台のひとつが長崎県・軍艦島(端島)。かつて炭鉱労働者とその家族が暮らした島は、炭鉱が閉山し、すべての島民が去った後、2015年7月世界文化遺産として正式登録されました。そこで今回、編集プロダクション・風来堂が日本に残る”異界”に迫った『ルポ日本異界地図』から「軍艦島(端島)」の記事を紹介します。(初回配信:2024年3月13日)
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高層廃墟が物語るかつての栄華
軍艦島(端島)[長崎県長崎市]
“黒ダイヤ”を生む不沈艦の素朴な岩礁から始まる誕生史
長崎市にある長崎港から南西に18kmほどの海上。異様な迫力を纏(まと)いながら静かにたたずむ島がある。
「軍艦島」という通称で知られるこの島は、もともと岩礁からなる小さな島だったが、繁栄とともに周囲を6回にわたって埋め立て、島と護岸が拡張されてきた。南北に約480m、東西に約160m、周囲約1.2kmと、現在の姿が形成されたのは1931(昭和6)年のことである。
1890(明治23)年から1974(昭和49)年の閉山まで三菱(みつびし)所有のもと、良質な石炭を産出し、日本の近代工業化を支え続けたこの島。最盛期には世界最大の人口密度を誇ったが、いまや人っ子ひとりいない無人島で、島全体が朽ち果てた廃墟と化している。
この島の正式名称は「端島」。鉄筋コンクリート造の建物が立ち並び、煙突から煙を吐くその姿が軍艦「土佐(とさ)」に似ていたことから、古くから「軍艦島」と呼ばれている島だ。長崎の東シナ海側の海底には良質な炭田があり、端島のほか高島(たかしま)や池島(いけしま)など炭鉱で栄えた島々を総称して“黒ダイヤ列島”と呼ばれていた。端島は、その最南端に位置している。
端島の歴史は江戸時代まで遡る。1810(文化(ぶんか)7)年ごろに石炭が発見され、江戸時代の終わりまでは漁師が漁業の傍ら「磯掘(いそぼ)り」と称して岩礁の表面に露出した石炭を採炭していた。
しばらくは、このようにごく小規模な採炭が行われていたが、1875(明治8)年ごろに天草(あまくさ)(熊本県)出身で当時大地主だった小山秀(こやまひいで)が本格的に端島の開発に着手。しかし、台風の猛威により、わずか1年ほどで失敗に終わった。
その後、1882(明治15)年には佐賀藩(鍋島(なべしま)藩)の分家である深堀(ふかぼり)の領主・鍋島孫太郎(まごたろう)の所有となり、1887(明治20)年に深さ44mまで開削された第一竪坑(たてこう)が完成している。竪坑とは運搬や通気のために地上から垂直に掘り下げられた坑道のことだ。地下に張りめぐらされた坑道に地上からアクセスするための重要な通路となる。
1890(明治23)年に大きな転機が訪れる。実業家・岩崎彌太郎(いわさきやたろう)が創業した三菱の2代目社長であり、弟の岩崎彌之助(やのすけ)が10万円で端島を買収したのだ。この10万円は現在の価値で約20億円といわれている。これにより、端島は三菱の経営下で本格的な近代炭鉱としての開発が進められていったのだった。
良質な石炭を得るための壁 ガス突出を高等技術で克服
1891(明治24)年には製塩工場の建設とそれに伴う蒸留水機が設置され、飲料水配給体制も万全に。さらには、島の拡張工事などによって炭鉱としての基礎が整えられていく。この明治中期の島内には中央部に3〜4階建ての木造住宅が数棟、東部に採炭作業場、西部に住宅、北部には1893(明治26)年に創立された三菱社立尋常小学校などの公共施設や娯楽施設があった。
1895(明治28)年に第二竪坑が、翌1896(明治29)年には旧第三竪坑が完成。当初、三菱は採炭が盛んだった高島の支坑として端島を買収したが、相次ぐ竪坑の開削により、1897(明治30)年には、ついに高島の出炭量を上回ることになる。
『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(編著:風来堂、著:宮台真司・生駒明・橋本明・深笛義也・渡辺拓也/清談社Publico)
端島で産出される石炭は国内トップクラスの炭質であることから、現在の福岡県北九州市にある八幡(やはた)製鉄所に製鉄用原料炭として主に供給されていた。
一方で、石炭の微粉化率が大きいため、酸素を吸収しやすく、自然発火しやすかったこと、また、ガス湧出量が多いため、ガス突出(粉炭が高圧ガスとともに噴き出す現象)も起こりやすかったことから、採炭には高度な技術が必要とされた。
採炭は個人の技術によるところが大きいため、給料のなかには1〜10級まで定められた技能級手当が含まれた。1年ごとに等級の査定を行うことで、技能の向上が図られていた。
スカイツリーの落差を3分で「落ちる」海底エレベーター
大正から昭和にかけて、端島は最盛期を迎える。「軍艦島」と呼ばれるようになったのも、大正期に入ってからのことだ。1923(大正12)年には、のちに換気用として使われることになる第四竪坑が完成した。第一竪坑は明治期に坑内火災によって閉鎖されたため、最盛期に稼働していたのは第二〜四竪坑。
この3本の竪坑ではベルトコンベヤーなどの機械化が進み、第二竪坑に関してはさらなる掘り下げも行われた。
こうして、太平洋戦争開戦となる1941(昭和16)年には年間出炭最高記録となる41万1100tを達成。戦時中の急激な石炭需要増加にも対応していった。
端島の海底には地下1km以上、周囲2km以上の広大な範囲に、いくつもの海底坑道が張りめぐらされていた。採炭は24時間3交代制(戦時中は2交代制)で、昼夜を問わずフル稼働で行われた。鉱員たちは詰め所で打ち合わせをしたあと、ケージと呼ばれたエレベーターに乗って竪坑を下りる。
ケージは606mと東京スカイツリーに匹敵する深さを最大秒速8m、たったの3分ほどで昇降する。これは「下りる」というより「落ちる」という感覚に近く、失神する人もいたようだ。
軍艦島MAP<『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』より>
坑底に着いたあとは500mほど歩き、人車に乗車。この人車もまた急傾斜を猛スピードで下るため、とうてい前を向いては座れず、鉱員たちはみな後ろ向きに座っていたという。
そうしてたどり着いた採掘現場は気温約30℃、湿度約95%、常にガス爆発などの危険と隣り合わせの、とても厳しい環境だった。
全盛期の人口密度は世界最大 日本初のRC造高層アパートも
石炭の需要に並行して増加する従業員のための住宅建設も盛んに行われた。1916(大正5)年には日本で最初の鉄筋コンクリート造の高層アパート「30号棟」が完成。当初は地下1階、地上4階建てだったが、増築されて7階建てに。外観からは立方体に見えるが、実際はロの字型をしている。
内部に約6m四方の吹き抜けの空間があり、空間の周辺を回るように階段が配されていた。約140戸あり、基本的な間取りは6畳一間に台所がついた1Kで、子どもがいる家庭にとってはかなり手狭だったといえるだろう。室内には、かまどと流しのほかには押し入れと出窓のみ。高層アパートにかまどがついたつくりは端島以外にはほとんど見られない珍しいものだ。
翌々年の1918(大正7)年には、より規模が大きな鉱員社宅が完成。通称「日給社宅」と呼ばれ、9階建て(一部6階建て)の5棟が並び、全棟の西(外海)側に配された廊下で各棟を櫛形(くしがた)に連結していた。
木製の引き戸の玄関を入ると、かまどと流しが設置された土間、そして畳が敷かれた和室が二間と、日本家屋の風情にあふれた空間が広がっている。「長屋」を高層化したようなつくりといえばわかりやすいだろうか。
通路などの共用空間は洗濯や夕涼み、子どもたちの遊び場など、住人たちの交流の場として機能していた。複雑に連結された建物内は、まるで迷路のように入り組んでおり、知らない人が入れば、なかなか出られないとされていたほどだった。
いずれも風呂なしで、各階には共同トイレが配されていた。トイレは水洗ではなく「落としトイレ」だったため、排泄物(はいせつぶつ)は排水管を通じてそのまま海に流されていた。台風の際は排水管を逆流した海水が便器口から噴き出すこともあったといい、なかなかハードなトイレだったことは間違いない。
1921(大正10)年には三菱社立尋常小学校が公立に移管。1934(昭和9)年に木造校舎が新築され、人口増加に伴い、その後、改築された鉄筋コンクリート造の校舎が現存している。校舎は6階建て(のちに7階に増築)で、竣工当時は国内の公立小中学校のなかで最高層だったという。
1〜4階は小学校、5、7階を中学校、6階は体育館を兼用する講堂として使用されていた。教室はすべて北側に配され、見晴らしもよく、晴れた日には長崎港付近まで見えたそうだ。
高層の建物が多い端島のなかで唯一エレベーターがあったのも、この端島小中学校。閉山が近づく1970(昭和45)年に給食が始まり、給食運搬用のエレベーターが新設された。そのほか、島内には幹部が暮らす鉱長住宅や病院、派出所、郵便局、神社、映画館、理髪店などが立ち並び、生活に必要なあらゆる施設がそろった完全な都市として機能していた。
もちろん、飲食店や商店も充実し、北西部にあった商店街は「端島銀座」と呼ばれ、酒や雑貨、衣類、飲食、食堂、青果店、鮮魚店などが軒を連ね、常に多くの人で賑わっていた。
こうして、1959(昭和34)年には史上最多人口となる約5300人を記録。島の面積はわずか約0.063平方km、しかもその半分以上が炭鉱施設に取られている狭隘(きょうあい)な土地だ。人口密度は8万3600人/平方km、当時の東京の実に9倍以上で、世界最大を誇った。
家賃、光熱費は合わせて10円 最新家電もそろう端島の暮らし
炭鉱での過酷な労働とは対照的に豊かな生活を送っていた端島の人々。鉱員の給料は高額だったうえ、住宅も基本的には社宅や寮という考え方だったため、家賃は無料だった。さらに、水道光熱費は合わせて10円(1959[昭和34]年当時)。
当時「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の普及率は軍艦島ではほぼ100%だった(写真:長崎県観光連盟)
1950年代後半の6畳一間、共同トイレ風呂なしのアパートの国内の平均賃料が3000円ほどだったことを考えると、きわめて恵まれた環境だったといえるだろう。また、特異な環境から、住民同士の助け合いは必須で、島全体がまるでひとつの家族のように仲がよかったという。
1950年代の家電ブームの際も島内ではいち早く電化が進んだ。1957(昭和32)年当時、「家電三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の全国の普及率は、それぞれ7.8%、20.2%、2.8%だったのに対し、島内では1958(昭和33)年にはすでに100%電化生活だったと当時の『朝日(あさひ)新聞』が伝えている。
現在もアパートの室内には足つきの白黒テレビや一槽式電気洗濯機などがそのまま残されているという。
しかしながら、風呂とトイレはいつまでも共同だった。川や池、湧き水、貯水池がなかった端島にとって「水」の問題は切実だったからだ。島内では鉱長住宅などごく一部の住宅にのみ内風呂がついており、そのほかの島民のほとんどは閉山まで共同浴場を利用していた。
1957(昭和32)年に海底水道が開通するまでは水は給水船で島外から運んでいたため、渇水時や時化(しけ)の際には海水が使われたが、基本的には真水を沸かして使われていた。
仕事を終えた鉱員は炭鉱風呂といわれる鉱員専用の風呂場へ。まずは作業着のまま「第一槽」に入って炭を洗い落とし、「第二槽」で体を洗うという二段構えだ。第一槽は言わずもがな常に炭で真っ黒だったという。
一般的な共同浴場は61号棟の地下にあり、大人が20人ほど入れる大きさの「下風呂」や、窓があって明るかったという「上風呂」など数カ所。使用は無料で、15〜20時と入浴時間が決められていたため、場内は常に子どもから高齢者まで多くの人であふれ返っていた。
「いちばんの思い出は風呂」と話す元島民も多く、端島の人々にとって共同浴場は島民同士の大切な社交場でもあり、特別なものだったといえる。
※本稿は、『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』(清談社Publico)の一部を再編集したものです。
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