田中延次郎、松村任三、広井勇…牧野富太郎の人生を彩った人物の生涯と功績

2023年10月23日(月)12時0分 JBpress

NHK連続テレビ小説『らんまん』が終わり、この連載も今回で終了となる。最後に前原瑞樹が演じた藤丸次郎、田中哲司が演じた徳永政市教授、中村蒼が演じた広瀬佑一郎のモデルと思われる人物の背景と、その後をご紹介したい。

文=鷹橋 忍 


【田中(市川)延次郎】

南千住の酒店の長男

 ウサギを可愛がる姿が印象的であった藤丸二郎のモデルと思われるのが、菌類学者の田中(市川から改姓)延次郎だ。

 田中は、元治元年3月16日(1864年4月21日)に、東京の南千住にある酒店の長男として誕生した。文久2年4月24日(1862年5月22)生まれの牧野富太郎より、二歳年下である。

 田中は謡曲が上手く、美男子で書も得意だったという(小林義雄「田中延次郎 『植物学雑誌』の発刊主唱者の一人』」監修 木原均 篠遠喜人 磯野直秀『近代日本生物学者小伝』所収)。

 東京大学理科大学の植物学教室専科に入学したのは、明治18年(1885)のことである。富太郎が、植物学教室への出入りを許された翌年だ。

 ドラマの藤丸と同じように、田中も富太郎と親しかったようだ。

 富太郎の「狸の巣」という随筆(牧野富太郎『わが植物愛の記』所収)によれば、富太郎は田中の家である千住大橋の酒店によく遊びに行き、一緒に好物のスキヤキ(富太郎はスキヤキが大好物)を食べたという。

 この随筆の中で富太郎は田中を、「器用で、なかなかの通人」と称している。

 富太郎いわく、ドラマにも登場した『植物学雑誌』の「第一の主唱者」は、田中だという。

「変形菌」という語の創案者

 藤丸と同じく、田中も菌類学の研究をした。田中は「変形菌」という語を造りだし、日本初となる変形菌に関する論文を発表している(大場秀章編『植物文化人物事典—江戸から近現代・植物に魅せられた人々』)。

 明治22年(1889)には、日本初の菌類学書である『日本菌類図説』を刊行(田中長嶺との共著)した。

 同年に帝国大学理科大学を修了し、明治25年(1892)からは、愛知県桑樹萎縮病試験委員となる。

 その後、東京養蚕講習所の桑樹萎縮病調査会の事務を行なったが、明治30年(1897)、酵母菌の研究のために、私費でドイツに留学した。

 一年余の滞在ののちに帰国したが、明治36年(1903)年に桑樹萎縮病調査会が廃止になってからは、適当な就職口がなかったという。

 また妻を亡くし、精神に不調をきたし、明治38年(1905)6月21日、病院で死去している。小林義雄「田中延次郎 『植物学雑誌』の発刊主唱者の一人』」。

 田中延次郎は41歳の若さでこの世を去ってしまったが、ドラマの藤丸次郎は、元気に年を重ねた姿を見せてくれた。

 藤丸はその後も、佐久間由衣が演じた綾や、志尊淳が演じた竹雄とともに酒を造り、末永く幸せに暮らしたと信じたい。


【松村任三】

武家に生まれる

 徳永政市教授のモデルと思われるのが、松村任三である。

 松村任三は安政3年(1856)、常陸国下手綱村(茨城県高萩市)で生まれた。要潤が演じた田邊彰久教授のモデルといわれる矢田部良吉より5歳年少で、牧野富太郎より6歳年長である。

 長久保片雲『世界的植物学者 松村任三の生涯』によれば、松村の父親は、遠山鉄次郎景直という。

 遠山鉄次郎景直は、水戸藩士・遠山景行の次男で、のちに松岡領主・中山家の重臣である松村家の養子となった。

 母親は、水戸藩士・久方忠次衛門定静の娘「ふで」である。

 松村は武士の子として、厳しく躾けられたという。

東京開成学校を退学

 松村は明治3年(1870)14歳のとき、下手綱を本拠地とした松岡藩の貢進生に選ばれ、東京大学の前身のひとつである大学南校に入学した。大学南校は南校、第一大学区第一番中学の改称を経て、明治7年(1874)5月に東京開成学校となる。

 松村は同校に明治9年(1876)7月まで在学し、政治、法律、科学を英語で学んだが、中退してしまう。

 だが、松村は郷里には戻らず、漢学を学んだ。

 そんな松村に声をかけたのが、矢田部良吉教授だという(『世界的植物学者 松村任三の生涯』)。

 矢田部は松村が退学した明治9年に、カーネル大学の留学を終えて帰国し、9月に東京開成学校の五等教授に任じられていた。

矢田部教授のもと、法律から植物学に転じる

 矢田部は翌明治10年(1877)4月19日に東京大学理学部の初代教授、4月19日に東京大学の小石川植物園の事務兼務に任じられた。

 松村はこの植物園に、5月17日付で奉職し、矢田部教授に師事して植物学に転じている。松村は矢田部とともに、日本各地で植物採集を行なった。

 明治12年(1879)10月には、京都府船井郡第二組園部村士族・山内正康の長女「りう」と入籍した(『世界的植物学者 松村任三の生涯』)。

 明治13年(1880)に、小石川植物園植物取調方、翌明治14年(1881)7月には東京大学御用掛(助手に準ずる)となり、予備門で植物学を教えた。

 富太郎が植物学教室を訪れる前年の明治16年(1883)の12月には、助教授に任じられた。松村、27歳のときのことである。

矢田部のあとを継いで、植物学教室を任される

 正規に植物学を修めていない松村は、明治18年(1885)12月、私費でドイツ留学に出発。植物分類学、生理学、解剖学を学び、明治21年(1888)8月に帰国した。

 帰国後、帝国大学理科大学(東京大学理学部から改称)の助教授となり、明治23年(1890)に教授に昇進した。この年、牧野富太郎は、矢田部教授から植物学教室への出入りを禁じられている。

 翌明治24年(1891)3月、矢田部が非職(身分・地位はそのままで、職務を解かれること)を命じられ、松村が後任として植物学教室を任された。8月には理学博士の学位を授けられている。

 明治30年(1897)には、東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長となった。

 その後も研究と教育に尽力して日本植物学の基礎を築き、大正11年(1922)3月に、東京帝国大学教授を辞任。

 辞任後は東京帝国大学教授名誉教授となり、よく植物教室に顔を出して若者と雑談したり、天気の良い日は植物園内の散歩を楽しんだりと、悠々自適に過ごす姿が見られたという(「田中延次郎 『植物学雑誌』の発刊主唱者の一人』)。

 昭和3年(1928)5月4日、72歳で、東京・本郷にある自宅にて、息を引き取った。

 矢田部良吉と同様に、日本近代植物学の基礎を築いた、偉大な植物学者であった。


【広井(廣井)勇(いさみ)】

日本近代土木の父

 中村蒼が演じた広瀬佑一郎のモデルと思われるのが、広井勇である。

 広井勇は、「日本近代土木の父」といわれる土木工学者で、築港や、橋梁技術の世界的権威である。北海道開拓に尽くした。

 広井は、文久2年(1862)9月2日、土佐国高岡郡佐川村(高知県高岡郡佐川町)で生まれた。

 牧野富太郎も広井と同年に、同じ佐川村で誕生している。また、広井は富太郎も通った名教館で、幼い頃から学んだという。

 広井の父親は広井喜十郎といい、佐川の領主・深尾氏の家臣で御納戸役(藩の会計を担当)を務めていた。だが、明治維新後は没落し、生活は苦しかったといわれる。

 明治3年(1870)10月9日、父の喜十郎が、広井が8歳のときに病没し、生活は広井は学問を志したいと強く望み、明治5年(1872)、皇室侍従の職にあった叔父・片岡利和を頼って上京し、片岡家の書生となった。

 親戚とはいえ、食客の身である。辛いことも多かったようだ。

私費でアメリカへ

 広井は明治7年(1874)、官費で学べる東京外国語学校に入学し、工部大学校予科を経て、明治10年(1877)、15歳のとき、札幌農学校の二期生となった。同級生に、内村鑑三や新渡戸稲造などがいる。

 札幌農学校は、北海道大学の前身である。第一代教頭は、「Boys be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の名言で知られる、ウィリアム・スミス・クラーク博士だ。

 広井が入学したとき、クラーク博士はすでに帰国していたが、クラーク博士のあとを受けたウィリアム・ホイラー教頭から、数学、土木工学、測量などを教えられた。

 卒業後は、開拓使御用掛となった。開拓使が廃止されると、工部省に転じ、北海道から東京に移った。

「渡米して、土木工事の技術を学びたい」と願った広井は、衣食費を削って費用を貯め、明治16年(1883)12月、ついに私費でアメリカへ渡る。

 アメリカでは、河川や鉄道会社で働きながら技術を身につけ、ドラマの広瀬佑一郎の台詞にもあったように、ミシシッピ川の治水工事にも関わった。

 広井は経済的に厳しい生活のなか、三度の食事を二食に減らして、土佐の母親に毎月送金したという。

 一方、札幌農学校では工業科の新設が決まった。広井はアメリカにいながら、その助教授に任命され、さらなる土木工学研究のためにドイツ留学を命じられる。

 給与と経費が農学校より仕送られるため、研究に打ち込めるようになった。

 明治22年(1889)、広井は最新の土木工学を修めて帰国。札幌農学校の土木工学科教授に任じられた。

清きエンジニアー

 その後、広井は北海道庁技師、小樽築港事務所長を兼任。セメントに火山灰を混入して強度を増したコンクリートを用いて、日本初のコンクリート製長大防波堤となる小樽港の北防波堤を完成させた。

 明治32年(1899)、広井は工学博士の学位が授与され、東京帝国大学教授に任じられた。

 若手の育成に務め、「広井山脈」とも呼ばれる多くの優れた人材を輩出している。

 広井は昭和3年(1928)10月1日、急性狭心症により急逝した。享年67である。

 学友の内村鑑三は追悼文のなかで、「広井君在りて明治・昭和の日本は清きエンジニアーをもちました」と述べている。

 幾多の苦難を乗り越え、日本近代土木の礎を築いた清きエンジニアー広井勇は、ドラマの凛とした広瀬佑一郎と重なる。

筆者:鷹橋 忍

JBpress

「モデル」をもっと詳しく

「モデル」のニュース

「モデル」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ