稀代の奇想画家・ボス、不思議な世界観と出生、最新技術で開明した真筆の謎

2023年11月21日(火)12時0分 JBpress

快楽に耽る男女、地獄を跋扈する怪物や悪魔・・・明るい色彩とどこかユーモラスなボスの世界はどこを切りとっても奇想天外です。しかしボスが本当に表現したかったのは、人間の醜さや悪に溢れた悲観的な世界でした。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


奇想はどこから生み出されたのか

 ボスはどんな人物だったのか、作品はいつ描かれたのか、どれが真筆か、そして何を表現したものかなど、すべてが謎に満ち満ちています。

 北方ルネサンスの作品の特徴である、描かれた図像の持つ意味を読み解く「図像解釈学=イコノロジー」を提唱した19世紀のアーウィン・パノフスキーにおいても、ボスの絵の読み解きにはギブアップしました。それほど難解だということもボスの大きな特徴です。

 ここでは近年の調査で明らかになったことも紹介しながら、北方が生んだ奇想の画家・ボスの魅力を余すところなくお伝えしたいと思います。

 まず、難解至極のボスの作品をより理解するために、数少ない明らかになっていることや推定されていることを紹介しましょう。

 ボスの生涯については記録が残っていないため詳細は伝わっていませんが、1450年頃に生まれ、1516年8月9日に葬儀が行われたことがわかっています。1452年に生まれ、1519年に没したレオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の画家であることは、とても興味深いところです。

 イタリア・ルネサンスの先進的な空間表現に比べて、ボスは現実世界を描くというよりも中世的な要素を残しながら、奇想の世界を描き、作風が全く違います。ボスはイタリアに行ったのではないかと疑われたりしていますが、絵画の中にはほとんどイタリアが追求したような現実描写はありません。

 さてボスは、祖父、父、叔父、兄弟も画家として活動している画家一族に生まれ、生涯をネーデルランドのブラバント地方の都市・ストルストーヘンボス(現オランダ)で過ごしました。本名をヒエロニムス・ファン・アーケンといい、ストルストーヘンボスという地名から、そう名乗ったようです。またアーケンはドイツの地名であることから、一族のルーツはドイツだったと考えられます。

 ストルストーヘンボスはブルゴーニュ家が支配する人口2万人ぐらいの活気がある街でした。織物や鋳物産業が盛んであるとともに、宗教が盛んでした。ボスも敬虔なキリスト教徒で、「聖母マリア兄弟会」という組織に参加します。この会の礼拝堂にあるマリア像が奇跡を起こすということから、急成長した組織でした。さらに「誓約兄弟」という聖職者に近い立場で指導的な役割をしていたと考えられています。キリスト教の強い影響を受けたことは、ボスの作品を鑑賞する際にとても重要です。

 ボスの肖像画の模写と見られる素描が残っています。ほかにも《干し草車》(1512-15年)の外扉《旅人(放蕩息子)》(1505-10年頃)や、《快楽の園》(1490-1500年)の地獄に描かれた樹木人間などが自画像ではないかという研究者もいます。いずれも絵から受けるイメージとは違って、なんだか地味な老人です。また、絵によく登場する邪悪のシンボルであり、智の女神ミネルヴァの象徴でもあるフクロウは、姿を変えて闇の世界を観察するボスの自画像と考える説もあります。作品のどこにフクロウが描かれているか探すのも面白いでしょう。

 ちょっと冴えない地味な風貌の真摯なクリスチャンだったボスは、貴族の娘と結婚し、画家としても成功して生涯裕福な暮らしをしていたと推定されています。


美術史上も独自の世界を構築

 ネーデルランド絵画の第1世代は前回紹介したヤン・ファン・エイクに加え、ロベルト・カンピン、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンがその代表です。第2世代にはハンス・メムリンク、ペトルス・クリストゥス、ヒュゴー・ファン・デル・グースらが上げられます。

 その後はロマニストと呼ばれるイタリアの主にローマに留学し、盛期ルネサンスやマニエリスムの影響を受けたホッサールト、ファン・スコレルなどに加え、ピーテル・ブリューゲルが続き、第3世代と呼ばれます。

 ボスは第2世代と第3世代の中間ぐらいの画家ですが、現実を徹底的に描写する第1、第2世代とはまったく異なる、奇想を使いながら、人類の罪と罰を浮き彫りにしていった前例のない画家でした。ボスの系譜はピーテル・ブリューゲルにつながります。ブリューゲルはボスの後に取り上げます。

 ボスはなぜ、ユーモラスではあっても暗い罪や罰という悲観的な主題を扱ったのでしょう。その理由には時代背景が大きく影響しています。

 ボスが生まれた頃、1453年にオスマン帝国が侵攻して東ローマ帝国が崩壊しました。これにより異郷のイスラムの信仰がヨーロッパに脅威を及ぼしていく時代でした。これに加えローマ教皇インノケンティウス8世(在位1484-92)が汚職を重ね、おぞましい異端診問や魔女狩りを行うという、キリスト教の堕落もありました。また、西暦1500年に「最後の審判」の時が訪れるという終末思想も強まり、世紀末的な不安や恐れ、悲観的な世界観が人々に広がりました。

 腐敗したローマカトリックは形骸化し、各地で宗教運動が起こるという混乱の時期、それらに対する批判的な精神がボスに生まれ、罪や罰を追及した作品を世に出したのでした。

 このようなボスの作品を愛し、パトロンとなった権力者がいました。ネーデルラントの統治者だった「フィリップ美公」ことフィリップ1世は、三連祭壇画《最後の審判》(1506年頃)を注文しています。外扉の聖人パヴォは端正な顔立ちだったフィリップ美公がモデルです。

 また、スヘルトーヘンボスに滞在していたフィリップ美公に随行していた貴族のナッサウ伯ヘンドリック3世は、自身の結婚に際してボスに絵を注文しました。これがボスの最高傑作と呼ばれる《快楽の園》(1490-1500年)でした。

 もうひとりの重要なパトロンが、スペイン貴族のディエゴ・デ・ゲバラです。生涯をネーデルラントで過ごし、ボスと同じ「聖母マリア兄弟会」の会員でした。美術愛好家でもあり、ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(1434年)も所有していました。

 ボスの《干し草車》《愚者の石の切除》など6点をゲバラ家が所有し、のちにスペイン王フェリペ2世(フィリップ美公の孫)が買い取り、現在プラド美術館やエル・エスコリアル宮殿に収蔵されています。

《愚者の石の切除》は第2回、《干し草車》は第3回、《快楽の園》は第4回で詳しく解説します。


どれが真筆?最新の技術調査で解明

 ボスの真筆は20〜30点とされ、研究者によっても意見がさまざまに分かれます。

 真筆かどうかの見極めが難しい理由には、まず、ボスひとりで制作していたと思われていたのが、近年の研究で熟練の弟子が何人かいて、工房を構えていたことがわかったことが上げられます。本人が関わっているか、工房もしくは弟子の作品かの判断がつきにくいのでした。また、当時からボスはとても人気があり、ボス風の作品を描く追随者(フォロワー)も登場しました。そのため工房、弟子、追随者の作品は250以上も存在すると言われています。

 真筆かどうかの判断は、様式や技法の判定に加え、近年では作品に使われている板の年輪年代学調査という最新技術による解明も試みられています。これらによって代表作を含む7作品も、真筆から外されました。

 たとえば《荊冠のキリスト》(1510年頃)は追随者、《東方三博士の礼拝》(1494年頃)は弟子または工房、《十字架を担うキリスト》(1515-20年頃)がアントワープの追随者、《手品師》(1510-20年頃)は工房または追随者、だと推定されています。

 キリストの周囲にいる悪意に満ちたグロテスクなまでに誇張された悪意に満ちた人の典型が描かれている《十字架を担うキリスト》は、中央のキリストと左を向いている女性だけが「よきもの」というキリスト教的な描写で、あとはおぞましい人たちというカリカチュア(特徴を誇大に表現して、滑稽さをもたせた絵)のような表現です。非常にボス的なこの作品も、追随者と判定されました。

 また、《手品師》もペテン師と騙される者たちがたくさん描かれ、よい人は誰一人もいないという、人間の愚かさを表現した絵で、ボスの代表作とされていましたが、工房の作品と判定されています。

 ただ、これらが正しい判定かどうかもまだ不確かです。異彩を放ったボスの画風は広く愛されたことから注文も多く、工房でも制作され、模倣者も多かったことで混乱し、ボスの日記や手紙も残っておらず、絵にも年記も入れませんでした。このように多くの謎を残したことは、いかにもボスらしいといえるのではないでしょうか。

参考文献:
『謎解き ヒエロニムス・ボス』小池寿子/著(新潮社)
『図説 ヒエロニムス・ボス 世紀末の奇想の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)
『名画の秘密 ボス《快楽の園》』ステファノ・ズッフィ/著 千足伸行/監修 佐藤直樹 /訳(西村書店)
『異世界への憧憬 ヒエロニムス・ボスの三連画を読み解く』 (北方近世美術叢書別巻) 木川弘美/著(ありな書房)
『ヒエロニムス・ボスの世界 大まじめな風景のおかしな楽園へようこそ』ティル=ホルガー・ボルヒェルト/著 熊澤弘/訳(パイインターナショナル)
『ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を読む』神原正明/著(河出書房新社)

筆者:田中 久美子

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