《闘病の末に逝去》「三途の川が、はっきりと見えた」1日の食事は“イチゴ3粒”だけ…余命4ヶ月・森永卓郎(享年67)が苦悩した「がん治療」のリアル
2025年1月29日(水)11時15分 文春オンライン
〈 《67歳で逝去》「来春のサクラが咲くのを見ることはできない」経済アナリスト・森永卓郎(享年67)が「余命4ヶ月、ステージ4のがん」を受け入れるまで 〉から続く
2025年1月28日、闘病中だった経済アナリストの森永卓郎さんが亡くなったことが明らかになった。享年67ーー亡くなるまでメディア出演、執筆活動などで勢力的に活動していた森永さんはどんな人生を歩んだのか? 病魔とどう戦っていたのか? 三五館シンシャが出したベストセラー『 がん闘病日記 』より一部抜粋してお届けする。
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抗がん剤で死にかける
がんの治療は、摘出手術や放射線治療などもあるのだが、私の場合は、どこにがんがあるかわからないのだから、そもそも手術や放射線治療はできない。唯一の選択肢は、化学療法、つまり抗がん剤治療だった。
抗がん剤は、がんの部位によって種類が分かれている。私の場合は、「ゲムシタビン」という抗がん剤と、「アブラキサン」という抗がん剤の2種類を同時に点滴することになった。
主治医は「アブラキサンのほうが効果は高いが、副作用も大きいだろう」という話をしていた。ほぼ間違いなく髪の毛は抜けるし、吐き気を伴う可能性もある。そのほかにも、人によってさまざまな副作用が出てくるという。
ただ、私は楽観的に構えていた。もともと髪の毛は薄くなっていて、ふだんから帽子をかぶっていたし、我慢強い性格なので、少々気持ち悪くなっても大丈夫だと思っていたのだ。
抗がん剤の点滴を打つことになったのは、12月27日の水曜日だ。午前中、ニッポン放送の「垣花正 あなたとハッピー!」の生放送を終えて、そのまま電車で病院に直行した。
点滴を打つ部屋には、ずらりとリクライニングシートが並んでいて、7〜8人の患者が抗がん剤の点滴を受けていた。苦しそうな表情を浮かべている患者は一人もおらず、私も軽い気持ちで点滴を始めた。案の定、体になんの変化もなく、「なんだ、簡単じゃないか」というのが、そのときの気分だった。
容体が急変したのは、その日の夜からだった。
気持ちが悪くなり、モノが食べられなくなり、寝込んでしまった。その後、体調は
どんどん悪化し、最悪の状態に陥ったのは、2日後の12月29日だった。
このときは、1日でイチゴを3粒しか食べられなくなり、意識も朦朧としてきた。はた目にも、私の具合が相当悪いことは、はっきりわかったようで、妻は2人の息子を呼び寄せた。
当時のことを長男の康平は、「情報ライブ ミヤネ屋」で次のように語っている。
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母親に呼ばれて私と弟も家に帰りまして、父親を見たらぐったりしていて、かろうじて会話はできるんですけど、本当に体調が悪かったんだと思うんですよね。3日ぐらいイチゴ2〜3粒ぐらいしか食べてないと母親から聞いていたので、このままだと、がんがどうこうより餓死しちゃう可能性もあるので……。
父親はすごく頑固なので、「入院しろ」と言っても、しないだろうなと思ったら、父親が自分から支度を始めたので、たぶんそれくらい体調が悪いんだろうなと思いました。
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康平の見立てのとおり、このときははっきりと「死」を意識した。三途の川が、はっきりと見えたのだ。
念のために書いておくと、抗がん剤がいけないと言っているのではない。大部分の人は、すい臓がん用の抗がん剤を打って気分が悪くなることはあっても、それが原因で生死の境をさまようようなことはない。要は、抗がん剤が私には合わなかったのだ。
朦朧とする意識のなかで、なぜ私が入院・治療を選択したのか。正直言って、そのとき頭のなかにあったのは、「何がなんでも新著を完成させて、世に問いたい」という思いだけだった。新著とは、その後、『書いてはいけない』と題して出版され、ベストセラーになった書籍だ。
夏ごろに書き始めて、本来は、年内に脱稿する予定だった。ところが予定外のがん宣告を受け、検査が重なったことで、最後の1割、結論部分が書き終わっていなかった。
なんとかしようと考えたのだが、抗がん剤を打ってから思考能力が落ちていたので、頭のなかで文章化することさえできなかった。
弱った体を元気に蘇らせる新薬
そこにひとつの情報が飛び込んできた。弱った体を元気に蘇らせる新薬があるというのだ。保険診療の対象とはなっていない点滴薬だが、妻と私のマネージャーが、薬の担当者の話を聞いて、「信ぴょう性があるのでは」ということになった。残念ながら、薬を提供するクリニックのほうから「患者が殺到すると対応ができない」という理由で、新薬の名前を明らかにすることはできないのだが、私は可能性に賭けてみることにした。
これが「当たり」だった。たまたま私の体に合っていたのだと思うが、夕方に点滴を受けて、翌朝には、思考能力が戻り、ふつうに会話ができるようになった。
もちろん、新薬は「気付け薬」のようなもので、抗がん剤ではないから、がんの治療に直接つながるものではないのだが、この新薬で一命をとりとめたことは事実だった。
そして、その1週間後から、私は東京の総合病院に2週間の入院をすることになった。がん治療のためではない。治療ができるように、まず体力を取り戻すためだ。
免疫量はふつうの人の5分の1に
実際、私の体はボロボロだった。入院当初は、車椅子で移動していた。そして、血液検査の結果、私の免疫量は、ふつうの人の5分の1くらいに落ちていた。とても危険な状態だ。そんな状態で新型コロナなどの感染症にかかったらイチコロだ。だから、とりあえず隔離して、体調を戻す必要があったのだ。
それまでの人生で、私は入院したことがなかった。治療の準備で、一晩だけ入院したことはあったが、それ以外、医師から入院を勧められても、全部拒否してきた。
そもそもあれこれ拘束されるのが大嫌いなうえに、食事の選択肢もなくなり、好きなたばこも絶対に吸えない。そんな生活は耐えられない。
ただ、このときは命がかかっているから「2週間だけ」という条件で、入院をすることにしたのだ。
〈 《モリタクさん死去》連載本数は常に20本以上…森永卓郎(享年67)を作家としても“売れっ子”にした「ある先輩ライターの教え」 〉へ続く
(森永 卓郎/Webオリジナル(外部転載))