「漂白剤を飲んで自死を試みた」「血が吹き上がっても死にきれず」韓国で朝鮮戦争と自殺未遂を経験…“原爆孤児”の男性(89)が語る、異国での壮絶な15年間
2025年2月9日(日)12時0分 文春オンライン
〈 「全身が焼けた遺体を見たら、弟だった」広島で被爆→家族全員死亡→9歳から韓国で生活…“原爆孤児”の男性(89)が歩んだ、波乱の半生 〉から続く
1945年8月6日、9歳のときに広島の爆心地で被爆し、家族を失った友田典弘さん(89)。在日朝鮮人の金山さんに助けられた友田さんはその後、韓国に渡るが、朝鮮戦争に巻き込まれてしまう。何とか生き延びて24歳で帰国し、現在は大阪で暮らしながら自身の体験を後世に語り継いでいる。
友田さんは韓国に渡ったあと、どのような生活を送っていたのか。朝鮮戦争に巻き込まれながら過ごした、壮絶な日々とは——。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、友田さんの波乱の半生を取材した。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)
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凍傷で右足の指が壊死…ソウルで野宿をして過ごす
子どもは物覚えが早い。2年ほどソウルで暮らすと友田さんは朝鮮語が話せるようになり、金山さんにつけてもらった金炯進(キム・ヒョンジン)という名をつかい、日本人であることを隠して1人きりでの路上生活をはじめた。言葉を覚えてからは、いじめられるとすぐに反撃した。「ブロックをもって喧嘩したこともあるよ」。
ソウル南西部の永登浦(ヨンドゥンポ)の市場で雑用をこなしながら食べ物をもらい、野宿する日々。ソウルの冬は厳しい。氷点下10度を下回る夜もある。やがて凍傷になって右足の指の先は壊死した。
生きるか死ぬかの日々のなかで、また出会いがあった。永登浦の市場の周りには、小さな台を出して物を売る人たちがいたのだが、
「闇市ね、そこで缶詰とかタバコを売っとった。そこの店を『見てくれ』言うてね、頼まれた。そうしないと持って(物を盗んで)逃げるのがいるんや」
野宿する友田さんを助けて、息子として扱ったヤンさんの存在
闇市ではかっぱらいが横行していた。友田さんが真面目に雑用をしていたのを知っていた、ある店の娘と親しくなり、店番を頼まれた。これが縁になり、その母である「梁(ヤン)さん」にかわいがってもらうようになった。
ヤンさんの夫はすでになく、子沢山で家は狭く、非常に貧しい母子家庭だった。それでもヤンさんは野宿する友田さんを家に引き入れ、一緒に食事をし、川の字になって寝た。異国からきた少年を、息子として扱ったのだ。
だが友田さんはヤンさん宅も飛び出す。あまりに貧しいヤンさんの家に世話になり続けることに苦しくなったのだ。そうして漢江(ハンガン)大橋のたもとでふたたび野宿生活をはじめた。また、孤児に戻ったのだ。
「真っ赤な弾がぴゅんぴゅんと飛んできよった」朝鮮戦争に巻き込まれてしまい…
海を渡って5年が経過した昭和25年6月25日、友田さんはまた、突然、戦争に巻き込まれる。朝鮮戦争の勃発だった。北緯38度線を越えて侵攻してきた北朝鮮軍に韓国軍は不意を突かれて敗走、途中、進撃を食い止めるため漢江大橋は爆破され、数百人が犠牲になったとされる。この爆発音を耳にした友田さんの周囲も戦場になった。
「韓国の軍隊もだいぶ逃げたんよ。北朝鮮の軍から真っ赤な弾がぴゅんぴゅんと飛んできよったよ」
間近で北朝鮮軍戦車が発射した砲弾が爆発したり、米軍のB29の爆撃にも見舞われたりしたが、運良く直撃を受けることはなかった。激しい攻防が続き、戦線は激しく動き、北朝鮮兵士に遭遇することもあったが、殺されず、むしろ食事を与えてもらうことさえあった友田さん。貧しい兵士たちの目にも、市場の片隅で寝起きする孤児は、自分たちよりさらに弱い立場であるのが感じられたのだろう。
朝鮮戦争終了後、日本に帰国しようと行動を起こすが…
やがて戦争は終わり、友田さんはパン屋で働く口をみつけた。そのころ、偶然、あのヤンさんと再会する。一家は、カメラや時計を売る店を営んでいた。行き来が再開すると、休日には、ヤンさんの娘とよく出かけた。
美しさが近所で評判だった彼女は、友田さんと気が合った。一緒に映画を見にいったり、酒を飲んだり。やっと、生活が落ち着こうとするとき、頭をもたげてきた思い——。15歳の日に見た夢を友田さんは忘れることはなかった。夢枕に立った母。
「お母さんが『日本に連れて帰るよ』といってくれた」
日々つのるのは、故郷広島、日本への帰還だった。思いは強くなるばかりで、時間をみつけては外務省や市庁などに何度も足を運んで陳情したものの、日本人であるという証明はできず、またこのころ日韓に国交はなく、取り合ってはもらえなかった。
ヤンさんのところから時計を3つほど持ち出して、それを売った費用で海を渡ろうとしたことさえある。果たせず、引き換えしたとき、ヤンさんは警察へ届けなかった。「家族だから」。
「血が吹き上がっても死にきれない」絶望して自殺を試みたことも
それでも望郷の念はおさえがたく、ついに絶望した友田さんは、包丁を腕に思い切り突き立てた。血が吹き上がっても死にきれない。ならばと、
「洗濯物を白くする薬ね。あれ飲んでぶあーっと血を吐いたりね」
漂白剤での自殺も試みたが果たせなかった。死にきれず、日本への恋しさもおさえられない。そのとき、日本のさまざまな行政機関へ手紙を書くことを思い立つ。ところが友田さんはもうこのころには日本語の読み書きはできなくなっていた。代わりに書いてくれたのが、ヤンさんだった。ヤンさんの世代は日本語教育を施されていたのだ。
警察、役所、思いつくかぎり手紙を出し、うち1通が広島市役所に届いた。そして日韓双方の関係者による調整の末、友田さんは昭和35年、ついに日本へ帰れることが確定。原爆孤児となってから、15年の月日が経っていた。
帰国が決まったことをヤンさんに伝えると、喜んではくれた。だがそのさびしそうな横顔に、友田さんは最後まで「オモニ」(お母さん)と呼びかけることはできなかった。ヤンさんの娘と気持ちが通じているのも感じていたが、彼女は見送りに来ることはなかった。2人とは、以後会うことはなかった。
帰国後、大阪の在日コリアンのコミュニティが迎え入れてくれた
——それからすでに、60余年が過ぎている。現在、友田さんは大阪に暮らしている。帰国後、焼け跡から復興した広島にはなじめず、やがて大阪へ移り、今日まで長く暮らしてきたのは在日コリアンのコミュニティが彼を迎え、助けてもくれたからだ。弱い立場の人が助け合うことで、1人の原爆孤児はここまで生きてこられたのだろう。
職を得て、結婚して子供も生まれ、もう「孤児」ではなくなった。友田さんはそれでもあの時代の出来事を証言し続けることで、筆者のような者が今も話を聞きに訪れ、こうして「原爆孤児」という存在を現在も伝えることができている。
終戦後の広島に、原爆孤児は6千数百人もいたと推定されている。友田さんに限らず、残された証言記録を読むにつれ、多くの人が十分な公助をうけられず、苦難の人生を歩んでいたことが分かる。同時に、多くの個人の力に助けられながら、あまりに苦しかった暮らしを言い残さなかった人たちも大勢いたことに思い至る。
「夫を日本の軍人に殺害されていた」ヤンさんが母子家庭であった衝撃の理由
ヤンさんや金山さんが異国の孤児——それも自分たちを圧迫した国の孤児——を助けたのは、なんの政治的理由もなく、国家の意識もなく、ただ心に沸き上がった人間への愛にほかならなかっただろう。ひとりになった子どもと「家族」になろうとしてくれた。これは、美しいことだ。
だが現実は、個人の愛で、人は救いきれない。実は、ヤンさんが母子家庭であった理由を、友田さんは何十年もあとに知る。ヤンさんは最後まで友田さんに打ち明けなかったが、実は戦中、夫を日本の軍人に殺害されていた。孤児を救った愛の人は、自分の家族は破壊されていたのだった。
弱い立場の人の強い愛があったことは事実。だが戦争はそれも飲み込んで破壊する。破壊するだけ破壊するのに、始めようとする責任者たちは、決してそれを最初に伝えない。そして始まってしまえば、どうなろうとも、守ってはくれない。かつてはみんなが肌身で知っていた当然のこと。こうした当然の前提は忘れられ、いまでは、簡単にほかの国を憎む言葉を吐き、対立を歓迎するような人も増えた。
原爆の惨状を知らない若い世代も増えてきている
もう「原爆孤児」という言葉も、忘れられてしまっているように思う。もっといえば原爆自体の惨状を知らない若い世代も増え、原爆の記憶は急速に風化してきている気がしてならない。
2024年、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞した。そのとき筆者の周りでこの快挙の話をしている人はほとんどいなかった。世間の注目度もほかの芸能ニュースなどに紛れ、いつしか流れていってしまったように感じられた。
オスロでの授賞式の際、自身も被爆者である代表委員・田中熙巳(たなかてるみ)さんが演説に立った。その際、2度に渡って強調したくだりが忘れられない。
「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていない」
国家は、旧軍人軍属らに対しては恩給、遺族年金を総額約60兆円も支払ってきた。しかし被爆者については、要件を満たす人に対して社会保障の枠組みで救済したものの、補償はしていない。
なにより、なにも言えずに空襲の炎で焼かれて亡くなった大勢の人々、なぜ戦っているのかなども分からないままに大やけどをおい、苦しみ抜いて亡くなった無数の子どもたちには、一切の償いはなかった。
結局、戦争をはじめる人々は、本質的な責任はとることができないのだ。
「原子バクダンのしょうげきで目玉が飛び出てしまい…」広島戦災児育成所を訪れた昭和天皇は、何を目の当たりにしたのか
最後に象徴的な場面を、過去のルポから引用してしめくくりたい。戦争をはじめたときの責任者集団のトップと、子どもたちが対面した場面。
敗戦のあと、「神」でなくなった天皇は、戦災復興の視察のため全国を旅してまわった。いわゆる「巡幸」である。昭和天皇は戦争で傷付いた人々に直接ふれ、言葉をかけていった。読売新聞の皇室記者の筆致は、国民と親しく交流する血の通った「人間」としての天皇像を浮かび上がらせようとする。
しかし終盤、次の場面では、ほとんど目撃したままの描写になってしまう。おそらく、それしかできなかった。昭和22年12月、広島港より南に約3km、似島にあった広島戦災児育成所を訪れた昭和天皇。友田さんと一緒に逃げた子も収容された似島である。
陸海軍を統帥した大元帥は自動車を降り、もっとも末端にいた小さな子どもたち、「原爆孤児」たちに近づいていった。子どもたちは手に数珠を持ち、僧侶の格好で整列していた。少し長いが引用する。
〈「陛下、広島の戦災孤児八十四名が、お迎え申し上げております。」
と声をうるませて申し上げた。
「……………」
陛下はかすかに瞳をお開きになった。
「これは昨年坊さまになった五人の子供たちです。こちらは原子バクダンで負傷した子供たちです。この大きな傷もそのときのものでございます。」
とのべる山下所長のご説明を、陛下はただ
「ソウ、ソウ……」
とうなずいて聞いておられた。
なかでも原子バクダンのしょうげきで目玉が飛び出てしまい眼帯をかけ、頭じゅうにグルグルとホータイを巻いて保母さんにだかれていた●●(筆者による伏字)ちゃん(六つ)や、焼け野ケ原のかたほとりで死んだ母親の乳房をにぎりしめたまま泣いていたところをすくわれたというホータイ姿の●●ちゃん(三つ)の前では、陛下はじっと立ちどまられ、お祈りでもするように、いつまでもいつまでも頭をひくくたれておられた。
お付きの者も、育成所の人たちも、思わず面をそらした。警護のお巡りさんたちも、グイッとそでで涙をぬぐっていた。(『天皇の素顔』小野昇 双英書房)〉
戦争をはじめるというのは、この子たちに向かい合い、なにかの意義のために死んでくれと頼むことと同じなのだ。
参考文献:『原爆孤児 流転の日々』児玉克哉(汐文社)、『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』吾郷修司(新日本出版社)
(フリート横田)