都心に並び立つ超高層ビル、なぜ銀座にはほとんどないのか?…「銀座らしい」景観守るルールとは

2024年10月7日(月)10時15分 読売新聞

歩行者天国となった銀座4丁目交差点付近。買い物客や外国人旅行者でにぎわう(6日、東京都中央区で)

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 新宿、渋谷、六本木と、都心に超高層ビルが次々と建つ中、銀座にそうしたビルがほとんどないのをご存じだろうか。世界中から観光客や買い物客が訪れる日本を代表する繁華街なのに、なぜなのか。(石坂麻子)

 和光や銀座三越が立ち並ぶ東京都中央区の「銀座4丁目交差点」。足を止めて見上げると、空が広く感じる。周囲のビルが低く、高さもそろっているからだ。「銀座街づくり会議」の竹沢えり子事務局長が「『銀座らしさ』を守るため、建物の高さなどを定めた独自のルールがあるんです」と教えてくれた。

 区条例により、「銀座ルール」と呼ばれる地区計画が定められたのは1998年。戦後の復興期に建てられたビルが老朽化し、建て替え時期が差し迫っていた頃だった。

 建築物の高さを一律に31メートル以下とする建築基準法は、その30年以上前にすでに改正され、高さでなく、延べ床面積の大小で決まる容積率による規制が導入されていた。

 その結果、狭い土地に建てられた他のエリアのビルはどんどん高層化。147メートルの霞が関ビル(千代田区)が68年に完成したのを手始めに、都心では超高層ビルの建設が相次いでいた。

 波は銀座にも押し寄せ、商店主らと区との協議の場が設けられた。高層化を主張する一部の商店主らに配慮して容積率が若干引き上げられた一方、「56メートル以下」という新たな高さ制限が決まった。「街並みとのバランス」が、その理由だった。

 ただ、ルールには例外があった。国が認めた再開発などであれば、高さ規制を免れることができたのだ。

 2003年、都市再生特別措置法に基づいて松坂屋と森ビルが策定した松坂屋跡地の再開発計画に、地元は度肝を抜かれた。計画の中心は、最大で190メートルの巨大なビル。他の商店主らから、「銀座ならではの景観が損なわれる」との声が上がった。

 「人々が高層ビルの中に閉じこもり、『銀ぶら』という言葉に代表される街の回遊性が失われてしまう」。銀座通連合会の遠藤彬会長(81)は、当時抱いた危機感をそう明かす。

 商店主らによる銀座街づくり会議が組織され、再開発計画のあり方を話し合うシンポジウムを開催。松坂屋側には「銀座らしい開発をしてほしい」と要請した。建築を学ぶ学生を巻き込んだ調査を行い、銀座の将来像を提案してもらう発表会も開いた。

 こうした動きを受けて区は06年、条例を改正し、松坂屋跡地を含む銀座中心部について、高さ56メートル超の建物を例外なく作らせないことを決めた。松坂屋側も計画を見直し、跡地には、「GINZA SIX」が、ルールに合わせた56メートルの高さで17年に開業した。

 半世紀以上にわたって中央区の街づくりに携わってきた吉田不曇うずみ副区長(78)は、「地元の景観は、地元で作るのが本来の民主主義の姿。銀座のプライドを感じた」と振り返る。

 一方で区はこの際、「文化の維持」など一定の条件を満たせば56メートル超のビルを建設できるエリアも設けた。街の将来を見据えた現実的な判断で、その結果、13年には高さ145メートルの歌舞伎座タワーが完成した。

 この騒動の過程で、商店主らによる「銀座デザイン協議会」が設立された。区は要綱で、一定規模以上の建物を建てたり、屋外広告のデザインを変えたりする事業者らに協議会との事前協議を定め、協議会の了解がなければ実質的に着手できない仕組みにした。

 協議会に持ち込まれる案件は、年間約300件。着工を認めるか否かの基準は唯一、「銀座らしさ」という。

 銀座の街の歴史は、江戸時代、銀貨の鋳造所が設けられたことに始まる。1872年(明治5年)の大火の後、西欧風のレンガ造りのモダンな街並みが形成され、流行に敏感な商人が全国から集まるようになった。

 地元の商店主らが、時代に合わせながらも受け継いできた銀座らしさ。遠藤さんは「誇りある街並みを守っていきたい」と決意を新たにしている。

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