地方の貧農が30~50万円で女児を差し出した…江戸最大の花街・吉原を支えた「人身売買ビジネス」の闇

2025年2月2日(日)8時15分 プレジデント社

「吉原高名三幅対」(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)

江戸幕府によって公認された遊廓・吉原には、地方出身の女性が多く働いていた。なぜ彼女たちは生まれ故郷から遠く離れた江戸にやって来たのか。作家・永井義男さんの著書『図説 吉原事典』(朝日文庫)より、一部を紹介する——。
「吉原高名三幅対」(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)

■「奉公人」として働く遊女の実態


幕府も建前としては人身売買を禁じていたため、表向き遊女は年季と給金をきめて妓楼に奉公をする奉公人という形式になっていた。きちんと証文(しょうもん)も取り交わす。


しかし、実際には貧しい親が給金を前借りする形で、娘を妓楼に売り渡していた。いわゆる身売りであり、実質的な人身売買だった。


身売りには、親や親類が直接娘を妓楼に売る場合と、いったん女衒(ぜげん)に売り、女衒が妓楼に売り渡す形があった。


女衒はいわば人買い稼業である。江戸から遠い農村では、親は女衒に頼まざるを得なかった。


■生活に困り、三〜五両で娘を売った


身売りの金額はいくらくらいだったのだろうか。


落語の『文七元結』では、職人の娘が一家の窮状を救うため吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。落語『柳田格之進』でも、妻が浪人している夫のために吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。


しかし、現在の500万円に相当するこの金額は、時代考証としては信憑性はない。


落語は独特の誇張がある。また、たとえ古典落語でも時代や演者によって改変がなされている。五十両は現代の聴衆にわかりやすい、切りのよい数字であろう。


では、史料ではどうだろうか。


『世事見聞録』(文化十三年)に、


「みな親の艱難(かんなん)によって出るなり。国々の内にも越中・越後・出羽辺り多く出るなり。わずか三両か五両の金子(きんす)に詰まりて売るという」

とあり、越中(富山県)・越後(新潟県)・出羽(山形・秋田県)の貧農が生活に困り、三〜五両で娘を売っているという。現在の30〜50万円である。


この場合、女衒が農村をまわり、幼い女の子を三〜五両で仕入れている。女衒はこれに経費と利益を上乗せした金額で、妓楼に売り渡していた。


■家族のため自発的に身売りした娘も


それにしても、「女の値段」はあまりに安いが、妓楼の理屈は、


「稼げるようになるまで、ただ飯を食わせなければならないのだから」


というものであったろう。


妓楼は女の子が客を取れるようになるまで、禿(かむろ)として育てなければならない。つまり、「即戦力」ではないという論法である。


『宮川舎漫筆』と『きゝのまにまに』に、身売りの事例が載っている。


安政4年(1857)、下級武士の娘が貧窮におちいった親きょうだいを助けるためみずからすすんで吉原に身売りをしたが、その値段は十八両だった。現在の180万円である。


武士の娘は吉原ではいわゆる上玉であろう。それでもわずか十八両だった。


落語の身売り話にくらべると悲惨なくらい低い金額だが、これが現実だった。


■競売にかけられた遊女たちの値段は…


天保12年(1841)閏1月、町奉行所は岡場所の私娼を大々的に取り締まり、召し捕った女を競売にかけて吉原に売り渡した。


そのとき、妓楼がセリで入札した女の名前や給金が『藤岡屋日記』に出ている。なお、「給金」と言っているが、実際はセリ落とした金額である。その、ほんの一部を紹介する。


きん 19歳  角町近江屋へ 金七両三朱
たけ 18歳  角町叶屋へ 金五両
きん 24歳 角町丁子屋へ 金二両二分
つね 17歳  江戸町一丁目丸亀屋へ 金五両二分

岡場所の遊女だったため、妓楼にとっては「即戦力」になる人材だが、金額はこの程度だった。


「女の値段」という場合、ふた通りの意味がある。妓楼が客に遊女を売るときの値段(揚代)と、妓楼が女を仕入れるときの値段である。前者にくらべ、後者は啞然とするくらい安い。


■白米を食べられると「苦界」を耐え忍んだ


遊女の境遇を「苦界」という。妓楼に身売りして遊女になることを「苦界に身を沈める」といった。


遊女の境遇は連日連夜、不特定多数の男との性行為を強制されるというものだった。しかも、年季が明けるまで辞めることはできない。苦界ということばの持つ意味は重い。


「憂河竹(うきかわたけ)」や、「憂河竹に身を沈める」という言い方もあった。「憂」は「浮」をかけており、はかない遊女の身の上を象徴している。遊女の境遇を「泥水稼業」ともいった。


遊女が毎日泣き暮らしていたわけではないし、貧農の家に生まれた女からすれば、吉原のほうが衣食住はゆたかという一面があった。とくに、「白いおまんま」を食べられるのは、吉原だからこそだった。


農民は米を作っていても、収穫の大部分を年貢として供出しなければならないため、自分たちが日ごろ食べるのは麦や雑穀まじりである。白米は祭りなどのときに食べる、あくまでご馳走だった。ところが、吉原では毎日、白米を食べる。


写真=iStock.com/ASKA
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ASKA

■「身売り=親孝行」という社会通念


身につける衣装も、寝起きする場所も、貧乏人の娘には考えられないほどのゆたかさだった。


さらに、日々の妓楼の生活のなかにも、楽しみや喜びはあったであろう。


しかし、実質的な人身売買によって遊女になったという前提を忘れてはなるまい。


たとえ貧しい家の娘が自分から身売りを申し出た場合でも、それは両親や兄弟姉妹を救うためだった。自分が犠牲になって、貧窮にあえぐ家族を救ったのである。


こういう事情がわかっていたため、当時の人々は誰も「淫乱で男が好きだから遊女になった」とは考えなかった。むしろ、遊女は親孝行をした女、身売りは親孝行と理解するのが一般的な社会通念だった。


■15歳のひとり娘を売る家族の悲哀


身売りに対する当時の人々の考え方が戯作『風俗吾妻男』(天保4年)によく表われている——。


相応な暮らしをしていた商家があったが、妻が病気になったのをきっかけに商売も左前になった。
夫は医者や薬に手をつくしたが、妻はいっこうに快癒(かいゆ)しない。あげくは、あちこちに借金もできて家計は火の車となり、薬も買えない苦境におちいった。


そこで、親類も集まって相談し、ひとり娘のお梅、15歳を吉原に売るしかないときまった。みなでお梅に因果を含め、最後に、病の床の母親が涙声で言い聞かせた。


「見らるる通りみなさんまでにご苦労をかけ、よんどころなくそなたを廓(くるわ)へ売らねばならぬ手詰めの災難。金が敵(かたき)の世の中と思うてなりと聞き分けて、里の勤めをしてたもい」


そばから、親類一同が口々に言う。


「親のために身を売るを、誰が悪う言うものか。ああ、孝行な娘だ。さあ、聞き分けたら、おっ母ァへ、とくとく返事をしたがよい」


「あい」と答えて、お梅は涙にくれる。
娘の運命に父と母も泣き沈んだ。


■オランダ人「身売りは本人の罪ではない」


それなりの暮らし向きをしていた商家などでも、夫婦の病気や商売の失敗などで零落(れいらく)して娘を売る羽目になることがままあった。先の例はその典型であろう。



永井義男『図説 吉原事典』(朝日文庫)

読者はお梅の運命に同情し涙したが、身売り制度に疑問をいだいたり、義憤を覚えたりはしなかった。身売りはありふれたことだったからである。なお、「里の勤め」とは、吉原の遊女になること。


外国人も理解を示した


幕末に来日したオランダ人の医師ポンペはその著『日本滞在見聞記』で、日本には売春婦が驚くほどたくさんいると指摘している。


いっぽうで、


「貧しい両親たちは自分の若い娘を、しかも大変幼い年端もゆかぬ時期に公認の遊女屋に売るのである。ときには5歳から6歳ぐらいの年のこともある……この点にヨーロッパの場合との最大の相違点がある。ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない」

と述べ、遊女の境遇に理解を示した。


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永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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(小説家 永井 義男)

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