「境界知能」は「低学歴」のようなレッテルになっている…専門医が「安易に境界知能と呼ばないで」と抗議する理由

2024年2月7日(水)15時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz

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SNSなどで「境界知能」という用語がたびたび使われている。これはどういう言葉なのだろうか。昭和大学発達障害医療研究所の太田晴久所長は「精神医療のなかでは境界知能は困っている当事者を支援するための言葉で、SNSでの使われ方には違和感がある」という。ジャーナリストの末並俊司さんがリポートする——。
写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz
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■SNSで話題になった「境界知能」


「境界知能」という言葉がSNSで話題だ。例えば、経済学者の池田信夫氏はX(旧Twitter)で次のように発言している。


山本太郎を支持するツイートが意外に多い。彼らは批判を意に介さない。れいわの支持者はIQ85以下の境界知能なので、彼らに受ける派手なパフォーマンスをする。境界知能は14%いるので、政権は取れないが議席は取れる。賢いマーケティングだ。」


このポストには1万9000件以上の“いいね”が集まっている。


一方で、脳学者の茂木健一郎氏はXで「ネット上で意見の対立があって、その一部の要因が「境界知能」と呼ばれることにあるように見えたとしても、それも人間界の多様性の一つとしておおらかに受け止めたらいいのではないかと思う」とSNS上での「境界知能」の使われ方に苦言を呈した。


また、自身のYouTubeチャンネルに寄せられた「境界知能という言葉は、低学歴という言葉に極めて近い言葉だと私は考えています」という質問に対しても「僕はそもそも境界知能と呼ばれる事象に興味がない。境界知能が疑われる人たちから絡まれることで迷惑を受けている人もいるようだが、僕はそういう人たちがなにか書いてきても無視している」という趣旨の回答をしている


「境界知能」という言葉をめぐってさまざまな議論が起きているが、SNS上でのそうした広がりに、警鐘を鳴らすのは昭和大学発達障害医療研究所、所長(准教授)の太田晴久氏だ。


「社会で、生きにくさを感じていらっしゃる方のなかには、知能指数の数値が一定程度低いケースも見られます。医学的な専門用語ではないものの、診断の一環としてわれわれ医師が“境界知能”という言葉を使うことはあります。ただし、その数値は、あくまでも本人が感じている生きにくさの原因を探っていくなかでの、ひとつの手がかりに過ぎません。知能指数の高低は、その方の価値観の正しさや人間性を表すものではないのです」


■障害認定されず支援が届きにくい


そもそも「境界知能」とはどういったものなのだろうか。


「知能指数(以下IQ)は85以上115未満が平均域とされる。自治体によっても違ってくるのですが、85未満で、70〜75以上の数値が、一般的に境界知能と言われます」(太田氏)


IQ70〜75未満が、『知的障害』を疑う数値となる。もちろん、この数値だけをもって障害の診断が下るわけではない。「知的機能に障害がある」「その障害が発達期(18歳まで)に起きている」「日常生活に支障が生じている」などを医師が総合的に判断して診断は下される。


知的障害と診断されれば、公的な支援を受けることができるのだが、数値が相対的に低くても、70〜75以上であれば、一般的に知的障害とはならず、公的支援の手が届きにくい。


「IQ検査で出た数値が知的障害の診断基準を満たさないけれども、全体からすると低めという方々を“境界知能”と表現するわけです。我が国では人口の14%程度が該当するとされています。検査をすることで、物事に対する処理の速さや適応力などが、相対的に低いということを数値として可視化することができる。そうした作業を通して、医療者、家族、ご本人が仕事や学びの環境などについて、どう組み立てれば、本人がより生きやすくなるのかを探っていくのです」(同前)


ただ、AAIDD(アメリカ知的障害者協会)が発行している知的障害のマニュアル(第12版)では、境界知能を「知的障害の診断基準を、技術的な理由から満たさなかった者達に対して、歴史的に使用されてきた時代遅れの用語」だとしており、本文中には一度も「境界知能」という言葉は使われていない(*1)。


(*1)知的障害概念についてのノート(2)〜境界知能の現在〜


■娘の境界知能を気づけず涙した母親


太田氏が指摘しているように、知能指数は当事者の抱える問題を解決していく手がかりに過ぎない。ただ、実際には支援の手が行き届かず、悲しい事件に発展してしまうケースもある。


2019年11月、当時21歳の女性(以降Aさん)が就職活動のため上京した。その際、Aさんは羽田空港のトイレで女児を出産し、その後、産み落とした我が子の口にトイレットペーパーを詰め、首を絞めて殺害するという事件を起こし、後日逮捕された。


21年に懲役5年の判決となるのだが、公判前に行われた検査で、AさんのIQは74で、いわゆる境界知能と判断された。


写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

ただ、Aさんの自宅がある神戸市も、事件を起こした東京都も、IQが50〜75の人は軽度知的障害として障害者手帳を取得することができる(*2)。たらればの話を仕方のないことではあるが、ではあるが、仮にこのAさんが生育過程で、知的な停滞があることがわかっていれば、公的な支援の手を握り返すことで、事件を回避することができたのかもしれない。


「もちろんこの線引きが絶対のものではなく、診断はIQ検査の数値を参考にしながら、専門の医師によって行われます。」(太田氏)


公判では、Aさんが小学生のころから授業についていけず、就職活動で企業に提出するエントリーシートの質問の意味を理解できずに空欄が目立ったことなどが明かされた。証人として出廷した母親は、そうした娘の状況に気づかず、幼い頃から叱責を繰り返したことを泣きながら証言したという。


(*2)神戸市療育手帳制度実施要綱
東京都福祉局 東京都心身障害者福祉センター対象者(愛の手帳Q&A)


■ある程度のことはできるからこそ気づきにくい


知的障害と診断されれば、本人に対する障害者年金や、家族に対する扶養手当などを受け取ることができるし、就労継続支援の作業所などを利用することも可能だ。しかし、境界知能であればこの限りではない。


「それでも、まったく支援できないというわけでもありません。知的障害と診断されなくても、例えば、いろいろな作業のスピードが相対的に遅くて苦労しているのであれば、我々医師が『複数の作業を一度に進めるのではなく、一つひとつこなしていく』などの工夫を提案することもできるし、家族の方々に接し方のアドバイスをすることもできます。そうした工夫を重ねることで、ご本人の生活の質を高めることはできる」(太田氏)


しかし、周りが気づきにくいのも境界知能の難しいところだ。


「相対的な能力は低くても、身の回りのことは自分でできるし、勉強が不得意だったとしても、まるきり解らないわけではありません」(同前)


前述したAさんも、大学に通っていたし、アルバイトもこなしていた。


■「うつだと思ったら境界知能だった」というケースも


厚労省は知的障害について「知的機能の障害が発達期(おおむね18歳まで)にあらわれ、日常生活に支障が生じているため、何らかの特別の援助を必要とする状態にあるもの」と定義している


例えば身の回りのことができない。学校に行けずに悩んでいる。仕事場でうまく対人関係を築くことができない。など「日常生活に支障が生じている」場合は、本人も周りも気づきやすい。ところが、境界知能の方々は、何かしら生きにくさを感じてはいるものの、日常生活に支障が生じるほどでもない。といったケースが散見されるという。


「実際、うつの症状を訴えて受診した方が、IQ検査を受けたことで、知的障害があったり、境界知能だと分かったりすることはよくあります」(太田氏)


写真=iStock.com/byryo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

本人も家族も、問題の原因が分からず、途方に暮れるだけで、次の一歩が踏み出せない。そうした時に、適正な検査を受けて、原因にたどり着くことは、決してマイナスではない。医師から境界知能であることが伝えられても、悲観することなく、問題解決のための次の一手を考えることもできる。


「もちろん、結果を聞いて落ち込む方もたくさんいらっしゃいます。ただ、前向きに捉えて生活の質を向上させる人も多い。そもそも、たとえIQが70未満であったり、境界知能であったりしても、本人に合った環境であれば、何ら問題なく過ごしている方はいくらでもいます。繰り返しますが、境界知能は、人間の全ての能力や質を表す言葉ではなく、支援のための手がかりでしかない。そんな言葉を使って、誰かを揶揄するべきではない」(同前)


■支援のための言葉であって、レッテルではない


既述のように、境界知能の方は人口の14%に当たる。35人のクラスがあれば、そのうち約5人が該当する計算だ。


「SNSの書き込みを見ていると、単に自分と意見が合わない。自分の言っていることが伝わらない。それだけのことなのに、あえて境界知能という言葉を使って相手を貶めようする傾向があるように感じます」(太田氏)


これまでみてきたように、境界知能の当事者は、福祉の枠組みにおいては障害者ではないため公的な支援が受けられず、ある程度まで身の回りのことがこなせるため周囲から生きづらさに気づかれにくい傾向にある。


世の中にはさまざまな生きづらさがあるが、福祉の対象にもなれず社会からは劣った存在として扱われることが、当事者の困難を深めていることは想像に難くないだろう。「境界知能」はそうした人々を支援するための言葉だったが、いつのまにか意見の合わない相手を揶揄するレッテルになってしまった。


社会生活のなかで問題に行き当たり、解決の緒を見いだせずに苦しんでいる人は多いはずだ。そのなかには、いわゆる境界知能の方もいるだろう。ただ、そうした人々は社会が支える対象であって、排除したり揶揄したりする存在ではない。SNSで境界知能という言葉を見かけることがあれば、本来は支援のための言葉だったということを思い出してほしい。


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末並 俊司(すえなみ・しゅんじ)
ジャーナリスト
1968年福岡県生まれ。日本大学芸術学部卒。テレビ番組制作会社勤務を経てライターに。両親の在宅介護を機に、2017年に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を取得。「週刊ポスト」などで、介護・福祉分野を軸に取材・執筆を続ける。『マイホーム山谷』で第28回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
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(ジャーナリスト 末並 俊司)

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