「離婚したくてつい口に出た…」妊娠中に遊びを覚えたロクデナシ夫が一転離婚届けに判を押した妻の痛恨の言葉

2024年2月17日(土)11時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

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「お兄ちゃんは頭がいいんですけど、この子はバカなんですよ」。元社長令嬢の母親に小さい頃からDVを受けてきた女性。ストレスのため自分で自分の腕の内側を噛み歯型がついていた。精神的苦痛はその後も続いた。加えて、短大卒業後に結婚した相手は育児を放棄し、朝帰りを続けた。堪忍袋の緒が切れた女性は離婚を切り出した——。
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ある家庭では、ひきこもりの子どもを「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体的事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破る術を模索したい。


今回は、長年自分をコントロールし続ける毒母に苦しめられてきた、50代の女性の家庭のタブーを取り上げる。彼女の「家庭のタブー」はなぜ生じたのか。彼女は「家庭のタブー」から逃れられたのだろうか。


■従業員と社長令嬢の駆け落ち


中国地方在住の山口紗理さん(仮名・50代・既婚)は、父親が29歳、母親が24歳の時に、母親の両親が経営していた菓子工場に父親が出稼ぎに来たことで出会った。


母方の祖父は、従業員との交際に大反対。約1年後、思い詰めた2人は大阪へ駆け落ちし、やがて山口さんの兄を妊娠。臨月を迎える頃には母方の祖父と和解し、2人は母方の実家へ戻り、結婚した。


結婚後、父親は母親とともに建設会社と化粧品の代理店を始め、2年後に山口さんが誕生。


幼少時の両親の記憶はあまりいいものではなかった。


「両親は、駆け落ちした割には仲が良いとは思いませんでした。父は昔ながらの日本男性的な男尊女卑の考え方があって、家の中では母が言うことを聞いていたという記憶が残っています」


自営業をしていた両親は、役割分担をしていたのか、家事は主に母親、育児は主に父親がしていた。山口さんが幼稚園に入園すると、行事のほとんどは父親だけ参加していた。


「幼い頃の写真はほとんど父と写っています。そのせいか、小学校の入学式に母が着物を着て来てくれたことが嬉しくてたまらなくて、よく覚えています」


■子ども嫌いな母親


山口さんにとって、幼い頃の母親との忘れられない記憶がいくつかある。


ひとつは、母親と2人で歩いていたときの記憶。近所の人に「お嬢さん?」と声をかけられると、母親は必ずこう言って高らかに笑った。


「はい、下の娘です。お兄ちゃんは頭がいいんですけどね、この子はバカなんですよ〜! オーッホッホ!」


山口さんの兄は、幼い頃から冷静沈着で頭の回転が早かった。しかし特別山口さんが劣っていたわけではない。


2つめは、山口さんが小児喘息を発症し、苦しかった頃の記憶。夜中に咳をしてつらそうにしていると、父親は山口さんをとても心配してくれた。


「ちゃんと咳止めは飲ませたのか?」「寒いんじゃないのか?」と何度も母親に声をかけるため、母親は山口さんに言った。


「あんたが咳をすると、私がお父さんに怒られるんだよ!」


写真=iStock.com/Pornpak Khunatorn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Pornpak Khunatorn

「“兄は頭が良くて妹はバカ”って、聞かれてもいないのに言う必要ありますか? おかげで私は小学1年生くらいの頃から自分はバカなんだと思い込まされていました。また、私が咳をすると父に怒られると言われ、幼い私は、『かわいそうなお母さん。私のせいでごめんね……』と思い、その日から枕で口を押え、父に聞こえないように咳をするようになりました」


当時の山口さんの実家は、自宅兼化粧品店だった。小学校に上がった山口さんは、母親がいる化粧品店側から帰宅するようになる。そのため山口さんは、母親とお客さんの会話をよく聞いていた。


ある日山口さんが帰宅すると、「私、子どもが嫌いなんですよね〜」と母親が笑いながら話している。


お客さんは、「お子さんの前でそんなこと言わなくても……」と気を使ってくれたが、母親は平然と、「あ〜、大丈夫。この子には父親がいるから〜!」と言って笑い飛ばした。


「当時はショックでしたね。『お母さん、私のこと嫌いなんだ……。これ以上お母さんに嫌われないように、もっと良い子にならなきゃ!』と思った私は、母の機嫌をとるすべばかりを身に付けていきました」


■父親の死


母親は、兄には好きなものを選ばせるのに対し、山口さんには選択権を与えなかった。


「例えば兄の誕生日プレゼントは兄の好きな物を買ってもらえるのに対し、私は母が必要と思うものを与えられました。習い事、部活動、進学、アルバイト、就職などに関しても同様です。でも、私に期待しているわけではありませんでした」


小学生の頃、山口さんの両腕の内側にはたくさんの歯型がついていた。自分で自分を噛む“自傷行為”だった。


「気がつくといつも噛んでいました。母から受けるストレスを噛むという行為によって解消していたのでしょうか。私は物分かりの良い“いい子”でした。そうでないと母に無視されるのです。母に無視されることが何より怖くてたまらなかった私は、“いい子”でい続けるしかありませんでした」


母親は山口さんが中学生になった頃から、父親に対する不満をぶつけてくるようになった。


「母は私に、『あなたが成人したら離婚するつもりでいる。今はあなたのために我慢している』などということを、毎日口癖のように吹き込んできました。そしていつしか、『私が母を守らなければ』と思うようになっていたのです」


やがて山口さんが高校生2年になった頃、父親に微熱が続く。長い間風邪薬を飲んでいたが、肺炎を起こしたため病院を受診すると、肺がんのステージIIだった。父親はすぐに手術を受け、3カ月で退院。しかし1年後に再発してしまう。再発後は入退院を繰り返しながら再手術や放射線治療を受けたが、最初の発覚から約4年で亡くなってしまった。


写真=iStock.com/da-kuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/da-kuk

父親52歳。母親は47歳、山口さんは20歳だった。


■母親の変貌


一方母親は、父親のがんが発覚した途端、一夜にして病気の夫に寄り添う献身的な妻へ変貌を遂げた。


母親は父親の看病のために父親の病室に泊まり込み、病院から仕事に通った。兄は大学入学を機に一人暮らしをしていたが、高校生だった山口さんは母親の妹の家に預けられた。


やがて母親は親戚や近所の人から、「献身的な妻」と称賛され始めると、自分でもあちこちで看病の大変さを話して回る。


「母は、私の存在など忘れたかのように、仕事と看病だけしていました。まるで悲劇のヒロインです。完全に自分に酔っていました……」


しかし父親が亡くなると、母親の関心はたちまち山口さんに向けられた。母親は短大を卒業した山口さんを、自分の口利きで金融系の会社に入社させ、門限を20時と定める。1分でも遅れれば内鍵をかけられるため、会社の飲み会も途中で帰らなければならなかった。


■結婚と妊娠


山口さんは23歳になる頃、高校2年生の頃から交際していた1つ上の先輩と結婚し、同じ年に第1子を妊娠。喜びもつかの間、ひどいつわりに襲われる。食べられない、水分も摂れないで脱水症状を起こし、入院。3カ月で退院するも、つわりで動くことができず、1日中寝たきりの生活が続いた。


ところが、夫は山口さんをいたわるでもなく、仕事からの帰宅時間が遅くなっていく。会社の後輩に誘われたのがきっかけで、パチンコやビリヤードなどに行き始めると、そこからさまざまな遊びにのめり込んでいった。


■夫の正体


山口さんは無事長男を出産。夫は立ち会ったが、「女として見れなくなった」と言い、山口さんはショックを受ける。妊娠中に遊びを覚えた夫は、家事にも育児にも全く関心を持たなかった。5年後に長女を出産するときも夫は立ち会ったが、やはり子どもと積極的に関わろうとはしない。


結婚して6年ほど経った頃、山口さん(当時29歳)の母親(当時56歳)の勧めで、山口さんの実家の隣に家を建てた。20歳の時に亡くなった父親の形見分けで、山口さんの名義になっている土地だった。


家が完成すると、山口さんの母親が毎日のように入り浸るようになった。一方、夜遊びに明け暮れていた夫は、ますます家に帰ってこなくなっていった。


そして結婚して10年目。義父が急な病で亡くなった。山口さんは夫と子どもたちとともに義父の通夜・葬儀に参列する。すると夫は、葬儀場に着くなり妻と子どもを放り出し、義父を亡くして肩を落とす義母に駆け寄る。


写真=iStock.com/Yuuji
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山口さんは、10年前の結婚式以来、初めて顔を会わす親戚ばかりの中、どこに座ったらいいかも分からず立ち尽くし、とりあえず空いている席に腰を下ろした。


通夜の後、夫は義母や兄とともに葬儀場に泊まり、山口さんは子どもたちを連れて帰宅。


翌朝、再び葬儀会場に行くと、夫はこう言った。


「お前、昨日一般席に座ってたんだって? 今日はちゃんと親族席へ座れよ! お袋が恥ずかしかったって言ってたぞ!」


葬儀が終わり、精進落とし(お斎=おとき)が始まると、お膳がひとつ足らない。「お前が遠慮しろ」という空気を感じた山口さんは、夫に助けを求めて振り返ると、夫はさっさと座って食べ始めている。


愕然としつつも山口さんは、「お膳が足らないらしいから、私はコンビニにおにぎりを買いに行ってくる」と嫌味混じりに夫に伝えると、夫は顔も上げず「チョコ買ってきて」と答えた。


■堪忍袋の緒が切れる


「私が離婚を決意した一番の理由は、子どもたちに無関心なことでした。たまに子どもたちと遊んでも数分で終わり。宿題を見てくれたこともない。自分から子どもに関わろうとせず、平気な顔で『子育てはお前に任す』と言い放ちました」


長男が7歳、長女が2歳の頃、大きな地震に見舞われたが、子どもの心配より自分の母親の心配ばかり。子どもの登校時間に平然と朝帰りをし、「車で仮眠してたら朝だった」とバレバレのウソをつく。



旦木瑞穂『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社新書)

「義父の通夜葬儀でマザコンだったことが判明したうえ、平気で朝帰りするようになると、さすがに堪忍袋の緒が切れました……」


山口さんが「離婚してほしい」と伝えると、「改心する。ギャンブルもやめる。子どもとも遊ぶ。だから離婚しないでほしい。仮面夫婦でもいい。お袋が悲しむ姿を見たくない!」と食い下がり、何カ月経っても離婚届けに判を押してくれない。


離婚を切り出してから8カ月ほど経った頃、しびれを切らした山口さん(当時33歳)は、思わずこう言ってしまう。


「慰謝料はいらないからとにかく離婚して!」


すると夫は手のひらを返したように離婚届けに判を押し、「俺には子育ては無理。お前が育てて」と言い放ち、家からそそくさと出て行った。(以下、後編へ続く)


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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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