「故郷が流されている」陸前高田出身の八芳園コンシェルジュが3月11日あの瞬間にゲストへとっさに伝えた言葉

2025年3月11日(火)18時15分 プレジデント社

八芳園 エグゼクティブコンシェルジュ 兼 支配人 柳井聡子さん - 撮影=植田真紗美

14年前の3月11日、東日本大震災が発生しました。津波被害の最も大きかった地域のひとつである陸前高田市出身の、八芳園 支配人の柳井聡子さんは「その日は八芳園にいたのですが、急に地震かどうかもわからないぐらい激しく揺れて。ゲストを落ち着かせながらモニターを見たら、見慣れた風景の故郷が津波に飲み込まれていたんです」といいます——。

■昨日、母は帰っていった


故郷が、流されている——。


2011年3月11日、大地震が東京白金台の結婚式場として知られる八芳園を襲った。後に東日本大震災と呼ばれる甚大な災害だった。


撮影=植田真紗美
八芳園 エグゼクティブコンシェルジュ 兼 支配人 柳井聡子さん - 撮影=植田真紗美

訪れたゲストたちの手を握り「みなさま、落ち着いてください。大丈夫ですから」と声をかけて回る八芳園の柳井聡子さんの目に映ったのは、津波に襲われる故郷・陸前高田市のニュース。


奇しくも、前日まで一緒に東京にいた母が帰っていった場所だった。


■育児が落ち着いて…3年ぶりにキャリアがスタート


柳井聡子さんは明治学院大学経済学部卒業後、大手設計事務所の社長秘書や教育関連企業を経て、子育てが落ち着いた2010年に八芳園に入社。


「子どもが生まれて3年間は、家庭の事情で働くことができなかったのです。落ち着いた頃に未経験・年齢不問で雇ってくれるところが無いかな、と探していたときに見つけたのが八芳園。出身の明治学院大学のすぐそばにあって、大学生のときに所属していたテニス部の打ち上げもここでやったことがありました。昔から『こんなところで働けたら素敵だなぁ』と思っていたので、採用いただいたときは『もうここしかない!』と嬉しくって。夢を叶えるような気持ちで入社しました」(以下、柳井さん)


2010年秋に48歳で八芳園に入社した柳井さんは、ゲストリレーション部門にサブマネージャーという立場で配属になった。


「ゲストリレーションとは、お客様を案内すること全般を指します。荷物を預かるクロークや更衣室へのご案内など、婚礼をされるお客様に必要なことを幅広くご案内する役目。配属されたからには、この年齢ですし『旅館の女将さんみたいな存在になろう』と意気込んでいました」


やる気をみなぎらせて入ったゲストリレーション部門で待ち構えていたのは、自分よりぐんと年下の同僚達だった。


■若い同僚との働き方に悩む日々


「同僚も上司もみんな20代の女性でした。配属されて最初のころは、若い子にわからないことを聞けず、知ったかぶりで行動しては失敗してしまう……というパターンに陥っていました。これじゃだめだよな、と。ただ『わからないから教えて』とそのまま聞くのも、一応私がサブマネージャーという立場で入っている以上、メンバーの不信感やモチベーション低下につながる気がしてどうしようと」


ぐんと年下の同僚との人間関係に悩む人は、転職が珍しくなくなった今、多いはずだ。柳井さんも例外ではなく、しばらくは試行錯誤の日々が続いた。


悩んだ結果、ふとした会話をきっかけに柳井さんは、年が近いベテランのアルバイトの女性にわからないことを聞くようになった。年が近いと肩肘はらずに聞きやすく、またベテランなので、何を聞いても知っていてとても勉強になった。


しかし仕事を覚えただけでは、部下との心の距離は縮まらない。そんなときに上司がかけてくれた言葉が、その後の柳井さんのキャリアを築く柱となったという。


■「圧倒的になれ」


「圧倒的になれ。圧倒的であれば誰も文句は言わないから、と。それで自分の圧倒的な部分ってどこかなと考えたときに、コミュニケーション能力だと思いました。私の祖父は政治家で、家にはいつも誰かしらがご挨拶に来ている状態。人を立てることや言葉遣いは祖父からたたき込まれており、相手に心を開いてもらうコミュニケーション能力は自然に鍛えられていました」


そこで柳井さんが、若い同僚たちに行ったのが共感と伴走だった。


「もちろん全員ではないのですが、女の子は、プライベートでの出来事や体調がそのまま仕事に影響する場合もあるので、そこのメンタルケアは大事にしたいなと。そのあたりの共感や伴走は、女性同士、自然とフォローできる部分かなと思いました。みんなのお母さんみたいな気持ちで接しようと」


そこから柳井さんは、失恋した子がいたらゆっくり時間をとって話を聞いたり、「休憩しておいで」と寄り添いを見せたり、結婚とキャリアの両立に悩む子がいたら、これまでの人生経験をふまえてアドバイスしたりしているうちに、だんだんとチームに打ち解けていったという。


撮影=植田真紗美
「同僚に伝えていたのは、結婚・妊娠・出産で、キャリアを中断する女性はたくさんいるよ。私もそう。キャリアの中断をマイナスと捉えずにライフステージの変化を楽しんで、それから戻ってくればいい。自分に自信を持ち続けていれば絶対大丈夫ってことでした」(柳井さん) - 撮影=植田真紗美

柳井さんいわく、キャリアを止めることになった3年間の子育て経験もここで大きく役に立ったようだ。


■津波が故郷を襲っていた


半年ほど経ち仕事にようやく慣れてきた2011年3月11日、八芳園で勤務中に東日本大震災に襲われた。


「一時、地震かどうかもわからないぐらい激しく揺れて、とっさに近くにあった食器棚を押さえたのを覚えています」


押さえている横で、別の食器棚から皿が飛んでいくのが見えた。その日は結婚式が2件入っているほか、海外からのゲストの対応と、幼稚園の謝恩会の準備をする予定だった。


「すでにみなさまいらっしゃっていて、現場はたくさんの人でパニックになっていました。『落ち着いてください』とお客様を一人一人なだめることしかできない状態で。状況がわからなかったので、大きい部屋の上の方についていた数台のモニターをすべてニュースに切り替えたのです。そこで、とんでもないことになっていることを初めて知りました」


モニターに映っていたのは、故郷・陸前高田市を津波が襲っている映像だった。


■ニュースに流れるなまなましいテロップや映像


「津波で流されているのが見慣れた風景の街並みだと気づき、叫びそうになりました。ニュースでは現地の被害状況を伝える生々しいテロップだとか、私の母の実家として慣れ親しんだ気仙沼が燃えている映像やらが出てきて、『どうしようどうしよう、でもいまはお客様を最優先に考えないと』と」


平静を装って現場を回る中、何度も、故郷にいる母と祖母のことが頭をよぎった。


「母が、前日まで東京に遊びに来ていたのです。私の働く八芳園の庭園で桜が見たいと言うから、二人で花見をして。さっきまで母のお土産を社員さんに配っていたぐらい、直近の出来事でした。母の行動パターンからして、東京で道草していることは考えづらく、絶対にもう陸前高田にいるだろう。そう考えては『なんで私は、母の滞在をもう1日延ばさなかったんだろう』とやりきれない気持ちでいっぱいでした」


東京も混乱状態にあった。


「破片が飛び散って使えないフロアもあったので別館の大広間に集まっていただいて。ありったけのお水をかき集めては配り、施設中の寝具や布を敷いて避難所にしました」


海外のゲストはそもそも地震を体験したことがなかったようで、何が起こったのか、ひときわ混乱している様子だった。柳井さんは「これはアースクエイク(地震)ですよ、大丈夫ですよ」と声がけをすることから始めて、とにかく落ち着いてもらうことに必死だったという。


■一晩を東急線の中で過ごして…


柳井さんは、今まさにニュースで流されているのが自分の故郷だと言い出すことがどうしてもできなかった。受け止めることができない状態だったということもあるだろう。


「『社員さんの中で地元が東北の方はいらっしゃいますか?』と呼びかけながら、公衆電話の列を整備していました。ニュースのモニターを見てしまったら次はもう正気でいられないと思って、周りのケアに集中することにしました」


一通り落ち着いたのは、あたりがすっかり暗くなった22時頃。直属の上司と横並びで津波の映像を見て、柳井さんは泣いた。「あの流されているの、うちなんです」。一日押し殺した声だった。


「上司が帰るように言ってくれて、唯一動いていた東急線に乗りました」


できるだけ家に近い駅まで電車で行こうとしたが、結局23時から翌4時頃までは電車に閉じ込められることになった。車内で待つしかない人々は、どの人もみんな苦しそうだったという。


「駅まで迎えに来てくれた夫の顔を見たら、また泣けてきて、止まらなくなってしまい。ひとりでは立てない状態の私を夫が支えてくれて、なんとか家に帰ることができました」


■精神的に限界をむかえたころ…入った1本の電話


翌日、八芳園に柳井さんの姿は無かった。


「余震の可能性もありましたし、電車に乗るのが怖くなってしまって。なにより陸前高田の母と祖母に連絡がつかないことが気がかりで、当時は、とても仕事に行ける精神状態ではありませんでした」


柳井さんは、母親と祖母と連絡を取るために頼れるものは全部頼ろうと決め、「母と祖母の安否を確認したいのです」と自衛隊にも連絡した。


「とにかく必死でした。そしたら、女性の自衛官の方が、『近くまで行きますので目印を教えてください』と言ってくださって。でも何しろ田舎なので目印となるものがありません。『ぽつんとある一軒家です』と言ってなんとか探してもらいました」


しかし、その後受けた報告は『そのあたりはすべて津波で流されています』という絶望的な内容だった。母親と祖母が苦しんでいるのに自分だけご飯を食べるわけにはいかない、という罪悪感でご飯が食べられず、柳井さんは5日間で7キロ痩せたという。


極限まで追い詰められた数日間を送った柳井さんのもとに、突然、一本の電話が入った。なんと、母からだった。


「母も祖母も無事だよ、と連絡が入って。涙があふれました。自衛隊が用意してくれた衛星電話というものを使って、1分だけ連絡が取れたようです」


■「竜のように上がってくる津波を見た」


高台にあった実家にいた母親と祖母は、高台を昇り竜のように上がってくる津波を見たという。1分の電話のあと「なんとかして母と祖母の顔を見たい」「見ないことには安心して仕事に戻れない」と思った柳井さんは、陸前高田市に行くと決めた。


そうは言っても、まだ公共交通機関は止まってしまっている。友人の力を借りて、車で4日程かけてなんとかたどり着いた。


「まず新潟まで行って、そこから秋田県に入りました。そこから横に進んで行って陸前高田市へ。車を出た途端、ツーンと潮のにおいがしました。実家へ行くと、母と祖母がいて無事再会することができました」


実家は半壊していて、中も水浸しでベチャベチャになっていた。


「余震で帰れなくなると困るので食料を渡してすぐ帰りましたが、私が仕事に戻るためには絶対に必要な時間だったと思います。母と祖母に会わせてくれた友人には本当に感謝しています」


津波の被害はあまりに重く、柳井さんは、親族や友人の多くが亡くなったことを後日知ることとなる。


2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影
震災遺構「陸前高田ユースホステル」。津波によって建物が完全に水没し、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿に津波の脅威を感じる - 2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影
2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影
「奇跡の1本松」は、この建物があったことで津波の直撃を免れ倒れることなく残ったと考えられている - 2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影
2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影
津波で被害があった箇所に設置された避難誘導標識 - 2025年1月、陸前高田にて編集部が撮影

■「ママおかえり」


会社を休んで2週間が経ったころ、柳井さんは復帰を決めた。


久々に仕事場に向かう柳井さんは緊張でいっぱいだった。電車に乗って、決死の思いで八芳園に足を踏み入れた。そんな柳井さんを、若い同僚達は優しく出迎えてくれたという。


「ひときわ仲の良かった20代の女の子が『ママおかえり〜!』って笑顔で出迎えてくれて。ほかの同僚達も『私たちがいるから大丈夫だよ』って言ってくれて。それが本当に嬉しくて嬉しくて、心から救われました。おかげで来るまで弱気だったのが嘘のように、すぐに仕事モードに切り替えることができました。たった半年の期間だったけれど、一緒に過ごす中でちゃんと絆ができていたんだとしみじみ感じましたね」


■愛される上司が、部下からの信頼を集める一言


当時の同僚達とは今でも仲がいいという。


「海外に行った元同僚もいますが、日本に帰ってきたら絶対にすぐに会う!などファミリーのような付き合いがつづいています」


今では多くの部下を率いる柳井さんが、これまでの経験をとおして、若い部下と接する際に意識していることは何か。


「引き続き、母の心で話を聞く、はつづけています。あとは、ちょっと辛いかもということを言わないといけないときに『厳しいことを言うけど、私の後を継いでほしいから言うの』と相手への期待を伝えてから話をするように心がけています。これは男性部下にもそうですね。相手に寄り添って、話をしっかり聞くことを地道にやっていけば、年齢の離れた管理職でも年下の部下たちと、持ちつ持たれつの良い関係を築いていけるのではないでしょうか。最後に忘れちゃいけないのが、圧倒的であること、ですね」


撮影=植田真紗美

最後にこれからの展望を聞いた。


「これからもスタッフと力を合わせ、みんなで八芳園を一流にしたいと思っています。そしていつかは、故郷の陸前高田市に戻りたい。いずれは故郷で一流のウエディングをあげられる事業を立ち上げられたらと思っています」


キャリアの、人生の困難に直面したとき、自らの手で作った年下の女の子達との絆によって救われた柳井さん。これからを語る柳井さんの瞳には、戸惑いながらも常に前を向く圧倒的な光が宿っていた。


(ライター 土居 雅美 撮影=植田真紗美)

プレジデント社

「月」をもっと詳しく

「月」のニュース

「月」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ