100歳で逝ったカラオケの創案者、特許取らずカネより皆の幸せ願う

2024年3月18日(月)6時0分 JBpress

 カラオケは多くの日本人にとって今や生活の一部。忘年会や新年会、歓送迎会の2次会でカラオケに行くのは定番とも言える。

 このカラオケを発明し世界で最初に商品化した根岸重一さんが亡くなった。満100歳だった。


1967年、スパルコボックスを開発・商品化

 根岸さんは日本が高度経済成長へ向かっていた1967年、東京オリンピックの3年後、カラオケマシン「スパルコボックス」を開発・商品化した。

 スナックなどに無料で置いてもらい、利用者から1曲100円を利用料をもらい、その一部をスナックなどのお店にキックバックする販売方法が当たり、大ヒットした。

 一般に「カラオケシステム」を開発して世界にその文化を広げた人物としては、米タイム誌の「20世紀 アジアの20人」にも選ばれた井上大佑氏が知られているが、本格的な伴奏にエコーマイクでミキシングする仕組みを初めて商品化したのは実は根岸さんだった。

 根岸さんの息子さん、明弘さんは話す。

「発明や新しいことが大好きな父はお金儲けは二の次でした。当時、夜のスナックではギターを片手にお客さんのリクエストに沿って演奏する『流し』が一般的でした。お客さんはその演奏を聴いたり、時には歌詞を口ずさんだ」

「もし人に頼らず簡単に伴奏ができ、それに合わせて歌えたら楽しい、そういう楽しい文化を日本に、そして世界に伝えたいというのが父の思いでした」

「そのため、もし当時特許を取っていたら大金持ちになれたのにとよく言われるのですが、父はお金より自分のアイデアで多くの人が喜んでもらえることが嬉しかったのだと思います」

 当時は、権利ビジネスが成熟していなかったこともあり、根岸さんのアイデアはお金には結びつかなかった。

 その後、カラオケ機械は大手電機メーカーが自社製品を発売して大ヒットとなった。

 根岸さんもカラオケという世界の大ヒット商品を開発したにしてはそれほど有名にはならなかった。

 しかし今回、最初に根岸さんの訃報を伝えたのは、米国のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)だった。

 2018年に根岸さんにインタビューした内容を基に、「カラオケの創案者・根岸重一、100歳で逝く」の見出しで丁寧にスパルコボックス開発物語と根岸さんの人生を書いている。

(wsj.com/karaoke-inventor-shigeichi-negishi-dies-100)


絵画や彫刻にも深い造詣

 日本人のメディア人として、そして根岸さんの息子さんを知る人間として、少し恥ずかしい気持ちにもなった。

 ついでに恥ずかしい過去の経験を一つ披露すると、1980年代後半、東芝にNAND型フラッシュメモリーの取材をした時だった。

 取材に現れたNAND型フラッシュメモリー開発者の枡岡富士夫さんに開口一番こう言われた。

「遅いんだよきみ。アメリカさんはこの前取材に来たぞ。日本のメディアの中では早いけど、アメリカさんに先を越されて悔しくないのかね」

 当時勤めていた会社は米国の大手メディアとの合弁だったので、枡岡さんの言葉にそれほど棘を感じなかったものの、日本のメディアが米国や英国のメディアの情報力に追いつけているのかと、改めて考えさせられた。

 それはともかく、多額の特許料は手にできなかったものの、根岸重一さんの100年の人生は豊かだったようだ。

 息子の明弘さんによると、事業の傍ら油絵を描いたり能面を彫ったりと芸術家肌だったという。油絵は日展にも選ばれたそうだ。

 また、80歳を過ぎてからは「手捻りの猿」を1000体も作って展覧会を開いたり、カネでは買えない豊かな人生を送られた。

 また自分の話で恐縮だが、自分自身の会社人生を振り返っても、カラオケは間違いなくその一部だった。

 東京の銀座や赤坂、六本木の夜はもちろん、大阪の北新地や名古屋の栄、福岡の中州、そしてニューヨークの2番街にアップルやグーグル本社近くの日本食レストラン、香港やソウル、上海、北京、シンガポール、バンコク、パタヤ、シラチャ、プノンペン、ジャカルタ、クアラルンプール、ホーチミン、ヤンゴン、マンダレー、バンダリ・スリ・ブガワンのクラブ・・・。

 カラオケを通じて取材先や仲間とコミュニケーションを深め、大いにビジネスに役立った。

 根岸さんはご自身が豊かな人生を送られただけでなく、間違いなく世界中の人たちに楽しく素晴らしい時間を提供されたのだと思う。

 カラオケを愛する人間として、心からご冥福をお祈りいたします。

筆者:川嶋 諭

JBpress

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