怖くて誰も手を出さない分野で大儲け…幕末に捨て身のやり方で成り上がった商人の名前

2024年3月21日(木)18時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/geckophotos

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成り上がるにはどうすればいいか。歴史家・作家の加来耕三さんは「帝国ホテルやホテルオークラ、帝国劇場などを創設した大倉財閥の創設者・大倉喜八郎は、幕末に裸一貫から捨て身の戦術で成り上がった。喜八郎は大儲けできるのにいずれも鉄砲商が店を閉めていた状況をチャンスと捉え、危険なエリアを夜中に往復して鉄砲を運んだ。生命懸けの戦術をそのままマネすることは難しいが、リスクをとらなければ成功できない場面に向き合い、ある意味で開き直って勝負してみることは大事である」という——。

※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。


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■捨て身の覚悟で活路を開く


俺の武器は、ガッツと信用だ——。


これは、1948年(昭和59年)に日本で公開されたアメリカ映画『スカーフェイス』(監督・ブライアン・デ・パルマ)での主人公の台詞です。


アル・パチーノ演じるアントニオ・モンタナ(通称トニー)は、キューバからアメリカに追放された犯罪者です。


すべてを失ったトニーは、裸一貫で成り上がるために、何でもやってやるという覚悟です。麻薬密売組織の依頼を受け、危険な取引現場にも足を運んで身体を張りました。


そんなトニーが麻薬王に啖呵を切ったのが、先の台詞でした。


令和の日本では、裏社会でのし上がっていく主人公の生き方は勧められたものではありませんが、何も持っていない人間にとって、「ガッツと信用」が大きな武器になるのは今も昔も変わりません。


それは、激動の時代を迎え、裸一貫で成り上がろうとする人たちが溢れていた幕末の日本においても、同様でした。


■怖くて誰もやらない鉄砲商で大儲け


幕末に、捨て身の戦術で成り上がったのが大倉喜八郎です。


大倉財閥の創設者・大倉喜八郎は、のちに帝国ホテルやホテルオークラ、帝国劇場などを創設しますが、そのスタートはそれこそ裸一貫の何もない状態でした。


喜八郎の生家は越後の名主でしたが、当人は商人を志し、18歳のときに江戸へ出ます。鰹節屋で働き、独立して乾物屋を始めますが、なかなか思うほどには儲かりません。


大きな商売を始めるためには、それなりの元手資金が必要でしたが、喜八郎にはそれがありませんでした。そこで彼は、いちかばちか捨て身になるしかない、と覚悟を決めます。


選んだのは、鉄砲商(あきな)いでした。


治安は乱れ、内憂外患の幕末日本では、鉄砲の需要は十分に見込めました。


しかし、大儲けできるのがわかっているのに、当時の鉄砲商はいずれも店を閉めています。


血気盛んな武士たちが、市中で暴れている物騒な世の中でしたから、店先に鉄砲を並べていたら、略奪されかねませんし、下手をすれば、生命まで狙われたかもしれません。そんな厳しい状況でしたが、喜八郎はむしろチャンスだと考えました。


鉄砲商に丁稚奉公で入って、朝から晩まで働き、4カ月でノウハウを身につけて、喜八郎は30歳で独立しました。


■危険なエリアを夜中に往復して鉄砲を運ぶ


開業するまでは順調でしたが、鉄砲は単価が高いため、何丁も揃えて店に並べられるほどの資本が、彼にはありませんでした。


そこで喜八郎は、今でいう予約販売のやり方を思いつきます。


店の入口に、非売品の玩具みたいな銃をサンプルとして置き、客が来たら手付金をもらい、一日待ってもらいます。その手付金を持って、その足で横浜の外国商館に鉄砲を買い付けに行きました。


問題は、その道中です。処刑場であった小塚原を早駕籠(はやかご)を使って往復したのです。


小塚原は、首を斬った死体が並んでいます。人が近寄らないので、山賊や筋の悪い連中がたむろしていました。


喜八郎はそんな危険なエリアを夜中に往復して、横浜から鉄砲を運んだのです。


いつ襲われてもおかしくないため、喜八郎は仕入れた鉄砲に実弾を込め、駕籠に乗っていたといいます。


まさに、捨て身の覚悟だったわけです。この生命懸けの挑戦はやがて報われ、喜八郎は少しずつ貯まったお金を使って、より大きな商い=武器弾薬を動かせるようになっていったのでした。


写真=iStock.com/peeterv
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■生命を懸けずに、どうやって儲けるんだ!


喜八郎がすごいのは、ある程度大きな商売ができる立場になった後も、捨て身の戦術を続けることができた点です。


戊辰戦争の最中、喜八郎のもとに勤王(きんのう)方の津軽藩から、大量の鉄砲・火薬の注文が入りました。


ただし、「わが領地まで運んでくれたら、代金を渡す。が、代金はお米で払いたい」という条件付きの依頼でした。


当時の奥州は、津軽藩以外の各藩はことごとく佐幕派の奥羽越列藩同盟に加盟していましたから、津軽藩の周りは敵だらけです。


そんな中を鉄砲や火薬を運んでいたら、見つかって積荷を没収される可能性があります。勤王方=敵のもとに武器を運んでいるのですから、生命の危険もあったでしょう。


喜八郎の使用人たちは反対しました。なにも無理をして、こんな条件の悪い取引をする必要はありませんよ、と。


ところが当の本人は、「生命を懸けずにどうやって儲けるんだ!」と言い放ち、この無謀とも思える商いを強行したのでした。


喜八郎はアメリカの船をチャーターし、アメリカ国旗を掲げて武器を運びました。


■リスクをとらなければ成功できない場面に向き合えるか


偽装はうまくいき、津軽までは無事に辿り着くことができたのですが、大きい船を浅瀬に入れることはできません。積み荷を小舟で降ろさなければならないのですが、小舟は諸藩に徴収されていて、なかなか手に入りませんでした。


ふつうの商人なら、ここで諦めてもおかしくはありません。


しかし彼は寺を回って、住職たちから袈裟(けさ)を買い集めました。袈裟の材料には、金帛(きんぱく)(金と絹)が使われています。その金帛の切れ端を、偽装した官軍の制服の肩につけ、ニセ官軍となって小舟を集めたのです。



加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)

使用人たちは「本物の官軍にバレたら殺されます」と諫めましたが、喜八郎は「この取引ができなければ、そもそも私は赤字で首をくくらなければならん」と取り合いませんでした。


結果的に、武器弾薬を陸にあげることができ、代金であるお米を受け取り、どうにか無事に彼は生還を果たしました。


喜八郎のような生命懸けの戦術を、そのままマネすることは難しいでしょう。


ただ、皆さんもリスクをとらなければ成功できない場面に向き合うことがあると思います。そんなときに、ある意味で開き直って勝負してみることは、大事なことではないでしょうか。


身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ということだと思うのです。


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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。
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(歴史家、作家 加来 耕三)

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