二刀流の原点は「父との野球ノート」だった…大谷翔平が父から習った「野球で本当に大切な3つのポイント」

2024年3月25日(月)10時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

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大谷翔平選手は日本ハム時代の2016年、日本プロ野球史上初となる「10勝100安打20本塁打」を達成した。10年にわたり大谷選手を取材しているスポーツニッポン新聞社MLB担当記者、柳原直之さんの著書『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)より、プロ4年目のエピソードを紹介する——。

■日ハム逆転優勝には「投手・大谷」が不可欠


2016年後半戦は首位・ソフトバンクと追う2位・日本ハムの優勝争いが白熱。日本ハムは8月25日のロッテ戦(当時QVCマリン、現ZOZOマリン)で4連勝を飾り、115試合目で初の首位に立った。その後、「首位陥落」「再奪首」を繰り返すが、その話題の中心にはいつも大谷がいた。



柳原直之『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)

9月13日のオリックス戦(札幌ドーム)。自身が持つプロ野球最速を更新する164キロを出した。3回1死二、三塁で糸井嘉男への初球にマーク。適時打を浴びる反省の1球となったが、5回4安打2失点9奪三振。優勝を争う2位・ソフトバンクと1ゲーム差に迫った。


人知れず「故障」を乗り越えていた。前半戦最後の登板で右手中指のマメをつぶし降板した際に実は大谷は右肘に痛みも感じていたという。開幕直後の4月にも同じ右手中指のマメを悪化させて降板したことがあった。5月以降は投げるたびに変形するマメを爪ヤスリで削るなどケアを怠らなかったが、そのマメを気にしながら投げ続けたため、肘に負担がかかってしまった。


札幌市内の病院で検査も受け、診断は幸い軽度なものだったが、投手としての復帰は遅れた。8月半ばから本格的にブルペン投球を再開し、2、3日に一度のハイペースでブルペン入り。調整は慎重に慎重を重ねた。復帰が遅れた要因は打線の核としてスタメンから外せなかったということもある。だが、全ては逆転優勝へ向けて「投手・大谷」を100%の状態でマウンドへ送り込むため。その期待にフルスロットルの投球で応え、逆転勝ちの一翼を担った。


■ズバ抜けた集中力で2カ月半ぶりの白星


9月21日には、ゲーム差なしで迎えたソフトバンクとの福岡決戦第1ラウンドを制し、13日以来となる首位に立った。大谷が「8番・投手」で先発し、自身8連勝となる9勝目。今季、投打で出場した試合は驚異の7戦7勝となった。112球を投げ8回4安打1失点。「投げている最中はあまり記憶がない」というほど集中力は研ぎ澄まされていた。7月3日の伝説のプレーボール弾以来、実に2カ月半ぶりの白星。首位返り咲きに大貢献した。


この時期、スポーツ紙の記者は「優勝原稿」に追われる日々を送るのが通例。「優勝原稿」とは文字通り優勝翌日の紙面に掲載する原稿のことで、通常5〜6枚程度の紙面をつくるため、担当記者は選手や監督の手記、対談など紙面を埋めるために企画取材を行わなければならない。


この年は日本ハムとソフトバンクが優勝圏内だったため、両球団の担当記者が準備。優勝しなければお蔵入りになる可能性が高く、優勝を願う気持ちが一層強まる頃だった。


■父子二人三脚の「野球ノート」を独占公開


今季の日本ハムの主役はもちろん大谷。私は大谷の企画取材で最低でも紙面1枚を埋めなければならず、大谷の父・徹さん、母・加代子さんに取材申請。タイミング良くスポーツ紙一番乗りで岩手県奥州市の自宅で取材をさせていただけることになった。


これまで球場などで両親の取材をしたことはあるが、実家での取材は初めて。リビングに寝転んでいたゴールデンレトリバーの愛犬「エース」(翌2017年7月に老衰のため死去)に見守られながら、徹さん、加代子さんが生み出すどこか心地良い和やかな雰囲気の中、取材は進んだ。


取材中、徹さんが「まだ誰にも見せていないものがある」とリビングを離れ、持ってきてくれた数冊のノートが企画のメインテーマとなった。今や日本が誇るスーパースターをどのように育てたのか。小学生時代に父と息子が互いに記した「野球ノート」がスポニチに独占初公開となった。


■「野球で本当に大切な3つのポイント」


この「野球ノート」は小学3年になる直前から、大谷が所属する少年野球チームの監督を務めていた父・徹さんが始めさせた。毎日ではなく、大会や合宿などの節目で大谷が「良かったこと」、「悪かったこと」、「目標(これから練習すること)」を記し、父がそこにアドバイスを書き添えていく。徹さんは恥ずかしそうに当時を振り返る。


「書くことによって頭に入る。褒めるのも、本人を目の前にして褒めたくない。文章的に褒めるのが、良いんじゃないかと思った」


ノートに何度も出てくる徹さんの言葉がある。徹さんはこれらを「野球で本当に大切な3つのポイント」と言う。それは、「声を出して仲間と連係を高め」、「全力疾走」で「楽しく野球をやる」だ。さらには、キャッチボールは肩を温めるためだけではなく、狙ったところに回転のいいスピンのかかったボールを投げる。それが、肩の強さにつながるという。


大谷自身もノートに「声がいつもよりだせていたと思った」、「全力で走れていなかった」と書き込むなど、父から学んだ「野球観」がここにあった。


■「逆方向にも打てる」長所を養った練習


少年時代に高い次元でプレーしていた様子も感じ取れた。徹さんが「10打数10安打10割バッターを目指せ」、「東北の投手で翔(平)の打てないピッチャーはいない」とハッパを掛ければ、息子は「コースによって打ち分けられなくて」と反省点を記す。少年野球チーム時代、2人は全体練習1時間前にはグラウンドに出向き、ティー打撃を行った。徹さんが重点的に指導したのは、広角に打ち分けることだった。


「直球のタイミングで打ちにいって、ピタッと止まって変化球に合わせてミートするという打ち方。“左中間に飛ばして、二塁打をとにかくたくさん打ちなさい”と言ってきた」。大谷の長所は逆方向にも強い打球を打てること。このティー打撃で養われたのだ。


写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

「この時にはプロなんて考えていない。社会人までできればいいかなくらいしか考えていなかった」。徹さんはそう言って笑った。しかし、投げては当時日本最速の164キロを誇り、打っては22本塁打。走っても、常に先の塁を狙う好走塁が光る——そんな二刀流誕生は、偶然の産物ではない。親子二人三脚で培ったものだ。その原点に2人の「野球ノート」があった。


■体調を気にし続ける母・佳代子さん


実家のある奥州市は大谷の応援一色。母・加代子さんは「町の人、みんなが応援してくれてすごくうれしい。ありがたい」と感謝の言葉を口にしていた。早朝のラジオ体操では前日の打撃成績や投球成績が発表される。


大谷の通った「常盤幼稚園」の園児たちがプロ野球のスーパースターとなった大先輩の「貼り絵」を制作し、贈呈されたこともあった。大谷の活躍は言わずもがな、郷土の誇りだ。


大谷は花巻東時代から体は決して強くなかったという。加代子さんが同校に練習試合を見に行くと「“翔平、今日熱を出して、医者に行きました”とかしょっちゅうですよ」と振り返る。


毎月のように熱を出していたという。この年はマメで緊急降板する時もあれば、風邪による体調不良で試合直前に欠場することもあり「電話は嫌いみたいだから、私はどんなに長くなっても手紙のようなLINEを送る」と語っていた。


父と母の愛情も強く感じた。息子がよく風邪をひいた話題になった時。徹さんが「俺も子供の頃からへんとうがすごかった」と振り返ると、加代子さんは「お父さんの話はいいの。翔平はへんとうが大きいとかはなかったよ」と突っ込みを入れる。昔を懐かしみ、笑いが絶えない両親。大谷が育った岩手には、温かい空気が流れていた。


■先発前日の「異例の打席」で二塁打を放つ


優勝へのマジックナンバーを1とした日本ハムは9月27日の西武戦(当時西武プリンスドーム、現ベルーナドーム)に臨む。翌28日の予告先発として発表された大谷は、登板前日のためスタメンこそ外れたが、ベンチ入りした。


栗山監督は試合直前「一応、準備させる」と言った。この日は勝てば優勝が決まる試合。栗山監督は「どっちにしても(球場に)残らないといけない日だった」と起用法を思案し、決断した。投手としてブルペン待機し、9回のマウンドに「胴上げ投手」として立つプラン——。ただ、初回2失点で追う展開となり、代打待機に専念した。


大谷は7回に代打出場。プロで初めて登板前日に打席に立ち、二塁打を放った。新人だった2013年、代走出場の翌日に救援登板したケースがあったが、登板前日の打席は初体験。大谷自身は「特に変わりはなかった」とサラリと振り返るが、異例のことだった。先発前日の投手は、試合前や試合中に球場を離れるのが通常だ。


■「頭は冷静に、心は熱く」


結果的に0—3で敗れた。午後8時29分に試合が終わり、西武プリンスドームの大型ビジョンには9時2分からQVCマリンで行われていたソフトバンク戦の中継が映し出された。日本ハムファンがロッテの応援歌を歌い始め、球場に残って待つナインも三塁ベンチに出てきて戦況を見つめた。


試合終了から47分後、2位・ソフトバンクがロッテに勝利。4年ぶりのリーグ優勝は、大谷が先発登板する28日にお預けとなった。9時16分に決着したソフトバンクの勝利を見届けた大谷は、すぐさま立ち上がり、帰りのバスへ歩を進めた。


「(ソフトバンクの勝利は)なんとも思わなかった。明日(28日)取るだけなので、しっかり抑えて勝ちます」


当時のスポニチ東京版1面は大谷らしさが全面にあふれていた。他力での優勝が決まらずナインが派手に手を上げたり、ひっくり返ったり残念がるリアクションをとる中で、大谷が1人だけ表情を変えずにベンチに座って大型ビジョンを見つめていた。頭は冷静に、心は熱く——。これぞ私が知っている大谷そのものだった。集中力は極限まで高まっているように映り、翌日の快投を予感させた。


■最高の舞台で前人未到のパフォーマンス


そして、翌28日。伝説が生まれた。大谷は西武戦に先発し、優勝決定試合では史上初の1—0完封を達成し、4年ぶり7度目のリーグ優勝を決めた。わずか1安打で今季最多の15三振を奪う圧巻の投球で10勝目。史上初の2桁勝利、2桁本塁打、100安打を達成し、最大11.5ゲーム差からの大逆転Vに導いた。


写真=時事通信フォト
4年ぶりのパ・リーグ優勝を決め、喜ぶ日本ハム(当時)の大谷翔平投手(中央)ら〔=2016年9月28日、埼玉・西武プリンスドーム(現メットライフドーム)〕 - 写真=時事通信フォト

西武の先発は尊敬する花巻東の先輩・菊池だった。試合前、首脳陣に頭を下げた。


「こんな最高の舞台を用意してくれてありがとうございます」。栗山監督は涙を流した。その気持ちがうれしかった。大谷は「昨日(優勝を)決められなかったのもそう。自分の番で(先発が)回ってくるのもなかなかない。雄星さん(菊池)が先発ということも僕的には特別な感覚。勝つには最高のシチュエーションだった」と振り返る。


何かに導かれるように回ってきた大一番で、自身初の1安打完封。自身が持つ球団記録にあとひとつに迫る15三振を奪い、4年ぶりのリーグ制覇に導いた。「込み上げてくるものがあったけど(9勝目を挙げ、首位を奪取した21日の)ソフトバンク戦とは違って淡々と冷静に投げることができた」。9連勝で3年連続2桁の10勝目。前人未到の「10勝、20本塁打、100安打」を成し遂げた。


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柳原 直之(やなぎはら・なおゆき)
スポーツニッポン新聞社MLB担当記者
1985年9月11日生まれ、兵庫県西宮市出身。関西学院高等部を経て関西学院大学では準硬式野球部所属。2008年に三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)入行後、転職し、2012年にスポーツニッポン新聞社入社。遊軍、日本ハム担当を経て2018年からMLB担当。「ひるおび」「ゴゴスマ」(TBS系)などに随時出演中。
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(スポーツニッポン新聞社MLB担当記者 柳原 直之)

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