「ジューンブライド」を日本に定着させたのはホテルオークラだった…伝説のホテルマンの語り継がれる仕事術
2025年3月26日(水)10時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/west
※本稿は、永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
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■「伝説のホテルマン」橋本保雄
大崎磐夫から少し遅れて入社してきたのが、開業後すぐに宴会課長を任された橋本保雄だった。大学卒業後に東京YMCA国際ホテル専門学校で学び、東京駿河台の山の上ホテルを経て開業準備中のオークラにやってきた。ホスピタリティビジネスの要は、いかに客のこころをつかむかという点にあるが、この「こころをつかむ」ということに人生を賭けたホテルマンが橋本だった。
力士のような立派な体格、ふくよかな顔にトレードマークのゲジゲジ眉毛。一目みたら忘れない容貌とは、橋本にこそふさわしい言葉だった。そしてそんな容貌もまた、ひとのこころをつかむための天賦ではなかったかと思える。快活で話術も巧み、とにかく会った相手を飽きさせない。2008年に逝去したが、いまも伝説のホテルマンとして語り継がれる存在である。
いまでは退潮気味だが、1980〜90年代には主要ホテルがさかんに報道関係者を招いての懇親会をやっていた。メディアにホテルのことをとりあげてもらう機会を増やす目的と、ホテルでなにか問題があったときの広報面でのリスクマネジメントのためである。いまは一般メディアよりもSNSのインフルエンサー対策などに宣伝広報手法の比重はシフトしてしまっているが、とにかく90年代まではかなりの頻度で懇親会をやっていた。
■巧みに報道関係者のこころをつかむ
そしてホテルオークラの報道関係者懇親会で一番目立っていたのが橋本だった。そのまわりにはいつも大勢の記者や編集者がいて、楽しそうに語らっていた。橋本の話術に引きよせられていたのだ。客のこころをつかむことに長けていたが、報道関係者のこころをつかむのもまた巧みだった。
名物ホテルマンだった橋本はまたたいへん筆まめでもあった。会社経営の舵取りに加わって多忙を極めるなかでも、『感動を与えるサービスの神髄』『共感を創る。』『接客術 人を惹きつける8つの力』『クレーム対応術』といった著作を多数出版している。それらはつまり「ひとのこころをつかむ」ための要諦を、ホテル業界だけでなくサービス産業全般にむけて伝える啓蒙の書である。語り口はどこか宗教家の説教に似たところがある。
■ジューンブライドを日本に定着させた
橋本のことを「宴会の神さま」と呼んだひとたちがいる。新任社長のお披露目会、周年イベント、営業のインセンティブ(報奨)イベントなどの企業宴会、そして人生最大のイベントである結婚披露宴。そうした宴会を「食事と酒をふるまう場」から「いかに参加者を楽しませる場に変えるか」で知恵を絞ることを、橋本は社内で徹底した。
いまでは定番となっている結婚披露宴でのケーキカットや各テーブルへのキャンドルサービスも橋本が最初に考案したものだった。またジューンブライドを日本に定着させたのも彼の功績だった。
日本の6月は梅雨で雨つづきだから、昔は婚礼予約がまったく入らなかった。なんとか6月の宴会場稼働をあげる妙案はないかと考えていた橋本はある日、ヨーロッパに古くからある言い伝えを知る。それは「6月の花嫁は幸せになれる」というものだった。農作業の繁忙期となる春や秋を避けるために生まれたという説もあるが、その言い伝えがやがて欧米でジューンブライドとして定着していったのだ。
写真=iStock.com/ooyoo
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■ジューンブライドの何たるかを得々と説く
宴会課の社員たちは、ジューンブライドの伝統を伝えつつ、ホテルであれば挙式も披露宴も屋内でおこなえて濡れる心配がまったくないこと、空調設備が完備していること、出席者の控え室も存分に確保できることなどを世間やカップルに伝えた。そして橋本は報道関係者を集めた場で、得意の弁舌でジューンブライドのなんたるかを得々と説き、メディアに世に広めてくれるよう頼みこむのである。
一方、企業宴会ではオークラはさまざまな演出やサプライズのプログラム化を進めた。オークラ最大の宴会場・平安の間には3カ所のせり舞台まで設置されていたから、来場者があっと驚く仕掛けをプログラムに入れることも可能だった。それまでの企業宴会といえば、何人かのあいさつのあとに「ごゆっくりお食事とお飲み物をお楽しみください」というだけの催しだったが、そこになにか「こころをつかむ」ものを入れこみたいというのが橋本の考えだった。
橋本保雄は宴会課長のあとは料飲部長、マーケティング部長を歴任し、89年に専務取締役、95年に副社長に就任し、99年に顧問に退いた。
■「宴会場があるからどうぞ」の待ちの姿勢ではない
ホテルの創業期に、宴会のセールス課に属して企画立案に力を注いだ若手がいた。
ホテルオークラ別館が開業した1973年(昭和48)、丸の内の東京會舘からオークラに移った諏訪健一である。
諏訪は東京に本拠を置く企業の周年を徹底的に調べ、それらの企業に周年イベントの企画を提案していくのだが、そこでは舞台装置、音響、各種モニュメントなどを駆使したプログラム事例を豊富に用意した。
永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)
それらを組み合わせることで、オリジナルでサプライズ性のあるイベントが可能となる。いまでは営業成績に対する報償、意欲喚起を図るためのインセンティブツアーやインセンティブイベントで定番となっているような仕掛けを、オークラは70年代に確立していた。
「ニーズの先まわりをして、魅力ある提案をしろ、楽しませろ。それがオークラの宴会戦略でした。宴会場があるからどうぞという待ちの姿勢では『帝国ホテルに追いつけ』を実現できるわけもない。いろんなホテルからの寄せ集め集団だったけれど、みんなおなじ方向をむいて必死でした」
のちに広報部門に移って国内広報で活躍した諏訪はそう話す。
■現場にうず巻いていたのは夢と熱気
オークラが開業した60年代はちょうど企業社会で労働組合活動が力を持ちはじめていた時期で、ライバルとなる帝国ホテルでも組合が発言力を増し、超過労働などでなかなか無理が利かなくなっていた。そこにも新開業のオークラが需要を獲得してくるチャンスがあった。労務上の多少の無理は従業員全員が許容していたし、自分たちが新ホテルを、日本を代表する迎賓ホテルにしていくという夢と熱気が現場にはうず巻いていた。
この時代のオークラが帝国ホテルを強く意識した経緯は、日本航空と全日空の関係に重なる。ナショナルフラッグ・キャリアの座にあった日本航空は1987年に完全民営化されたが、その前年の1986年、全日空は悲願の国際線初進出(成田〜グアム線)を果たして、いよいよ打倒日航を誓っていく。そして日本でも航空自由化が本格化し、互いの路線シェアを奪い合う激しい競争が繰りひろげられていった。
60〜80年代とはつまり、そうして国を背負って生まれた企業に、後発企業が狂おしいまでの闘いを挑んでいく時代だった。
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永宮 和(ながみや・かず)
ノンフィクションライター、ホテル産業ジャーナリスト
1958年福井県生まれ。ノンフィクション著作に『「築地ホテル館」物語』『帝国ホテルと日本の近代』(いずれも原書房)など。近年はホテル、旅行、西洋料理などの産業史研究に注力している。本名は永宮和美。
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(ノンフィクションライター、ホテル産業ジャーナリスト 永宮 和)